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2020.6.16 此岸の夢。

誰にもわかってもらえない経験が、ある。
しかしそれをわかってほしいと思うことが、ある。
結局わかってもらえはしないのだけれども。

と言い切ってしまうと人を遠ざけるようだから、そうは言いたくない。けれどもそう言ってしまいたくなることの一つや二つは持ち合わせているのではないだろうか。誰もが。誰もが誰かとのわかってもらえない経験を持っている。いや、厳密に言えばその誰かにはわかるのかもしれないけれど、たぶんそいつとはもうコミュニケーションが取れない状態なのだろう。そうでなければそんな苦しみは生まれない。永遠に閉ざされた秘密の共有の此岸にひとりでいる時に酒はわたしを癒やすだろうか。それとも叶わない彼岸の夢を見せるだろうか。

まあ、そんなことはわからない。わからないに尽きる。

そういうことがモヤモヤしてどうしようもなくなった時、無意味なのはわかっているのだけれど匿名のチャットができるサイトを開く。もう10年くらい続いている癖である。名前も性別もその他情報も一切なくチャットだけが続く。

続く、といったのには語弊がある。体感ではまともに話ができる人は50人にひとりくらいである。あとは無言のまま切れたり、罵詈雑言の一方通行になったりする。(大学生の頃は片側交互だった。)

たまに本当のことを言って相談したりもしたが―つまりこれは酒とは違う仕方で虚しく彼岸を目指しているわけだが―やめた。

今楽しいのは完璧に無駄に嘘のやりとりをすることである。

何一つ本当のことを言わずにどこまで人と会話できるかな、と思って始めたのだけれど、これがなかなか面白い。ある会話の中では繁華街で雨の中立ち尽くしている大学生になったり、別の会話の中では看護師になったり、また別の機会には暇を持て余した主婦になったりした。

なんて暇なのだろう、と思うこともあるのだけれどこれがなかなか面白い。普段の人間関係の中でする会話のパターンはある程度レンジが決まっている。この人とはこれくらいまで。あの人とはあんなにも行けるけれどなかなかあの人とは話す機会がない。そういう言葉の鬱屈したエリアからほんのひととき逃げ出せる気がする。しかも自分にはなんにも関係ないことを言っているから無傷だ。ルールは相手を傷つけないこと。それをやってしまうと興ざめだ。(言うまでもないけれど、そういうサービスを利用する人は言葉に飢えていて、かつ言葉に弱い。)

弱いのはまあ、わたしもですが。

「全部完璧に嘘」とか言ったけれど、たまに自分の現実ベッタリなことを言ったりもする。自分が発する嘘よりも真実が相手のうけがよかった時は嬉しいような悲しいような微妙な気持ちになる。事実は小説よりも奇であるのか。それともその小説が実は非常にくだらないのか。これまた微妙な複雑な気持ちなのだけれど、それなら後者のほうが良い気がする。

さあ今日は酒に溶かすのか。嘘に溶かすのか。

いや溶けない。今日もわたしは此岸で立ち尽くす。

乾杯はせず。「40半ばで芸人やってんのよ」とかも、言わずに。




酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。