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掌編『その手から朝焼けは始まり』御前酒雄町3部作-菩提酛篇-

「シスター、今日は、飲んでくれよ。」
「ダメです、今日も、飲みません。」

顔も見ていないのに彼女が目をつぶっていることが分かる。そういう声の深さだった。この時間になると、この場所にくる習慣がついてしまった。

街外れの教会に酒を持ち込んで懺悔にもならない懺悔をする。おれの日課。

「今日は特別なことがあったんだよ。」
手元のプラスチックカップに酒を注ぎながら笑って話し出す。
「そうですか。」
この人の声は笑っているのか侮蔑しているのかもわからない。

粗末な机のささくれを人差し指で触りながら、ぼんやりと学生時代を思い出す。丁寧に着席しつつ手持ち無沙汰な時を過ごしていた時のことなんかを思い出していた。ため息をひとつ吐き出して、そこにいるはずの彼女に喋り続ける。

「シスター、今日は自転車を漕いでいたんだ。」
「へえ、そうなんですか。」

気の利いた小咄でも、というこちらの気概はおかまいなしの暖簾の対応を見せてくる。この人と出会ったのはほんの半月くらい前の話だ。普段どおりに仕事を終わらせて帰り道のコンビニで酒を買い、少し高い狭い土手を歩いている時にふと目にとまった教会があった。そこに彼女はいた。

「自転車って二日酔いの身体にはちょっと重たくできてんのよ。」
「…。」

厚い紙をめくるようなささやかな音がおれの声の合間に聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりのトーンで響いている。おおかた何かのテキストでも読んでいるのだろう。出会ってから今日までここでのやり取りの八割はこんな感じだった。おれは話すだけ。この人はここにいるだけ。

不思議と不快感はなかった。というか、これがこの場でのただしいやり取りなのかもしれない。隙間風だらけのやや狭い空間に、壁を隔ててひとがひとり、そしてまたひとり。互いの姿は見えない。見た瞬間に暖かだと分かるような人間関係を求める人は、ここにはきっとこないだろう。壁の端っこには秋の枯れかかった雑草が少し頭をのぞかせていた。端だけでなく、よく見るといろんなところにそれはあった。「清貧」と「貧相」のふたつの言葉が頭をかすめていた。どっちにしろ教会は余裕のある佇まいではなかった。けれども、その余裕の無さがかえってこっちの心の余裕をつくっているような感じもした。

おれの心より、ここはずっと貧しいじゃないか。

そんなことを頭の片隅に入れながら、また時にそんなことは忘れながらシスターに言葉を投げかけていた。「へえ」、「そうですか」、「わかりました」などなどの実に多種多様な言葉で自分をもてなしてくれるこの人は、一体なんでこんなところにいるのだろう。なんでこんなに淡々とおれの話をきいていられるのだろう。シスターは皆こんなふうに振る舞えるものなのだろうか。これまで生きてきてシスターという存在に触れたことがなかったので、時々考えてしまう。壁越しで素性の知らない相手に何かをぶつけながら、誰かを恨むような、いや妬むような――そして少しだけ和むような――時間を過ごせるここをおれはすっかり気に入っていた。

「自転車がさあ、チェーン外れちまったんだよ。」
「あら、そうなんですか。」

真っ昼間の大通りの話だった。酒が減ったカップにまた酒を継ぎ足しながらあらましを思い出す。そうだこれは、おじいさんが出てくる話だった。教会に来る前に焼き鳥屋でレモンサワーとおまかせ5本焼きをさっと済ませていたおれの頭は、すこしだけ冷たい霧がかかったようだった。人肌くらいの湿り気。低体温。

風が吹いている。教会は意志もなくギシギシと音を立てている。やっぱりこれは貧相だろう。ただ、貧相だというのは必ずしもマイナスを意味しない。いや、隙間風は寒くて嫌になるのだけれど。それでも必ずしもマイナスではない。一定の周期で鳴り響く乾いた寂しい音に身を任せると、話し始めていた小咄がふらふらと外へ飛んでいってしまいそうになる。こんなこと、話しても話さなくても別にいいか、くらいの気持ちになってしまう。教会に来る前の時間、昼間の時間もこんなだったら少しは穏やかに日常を過ごせるようになる気がした。

そんなものが日常にないからこそ、こんな時間に寂れた建物の中で独り言に近い行動をとっているわけなのだけれど。

「なんでか厚着してきちゃったからさ、チェーン直しとかそう、細かい作業せっせとすると汗かいちゃうわけ。まあそんなことしてたって大通りさ、誰も気にする人なんていないんだけれどさ…。」
「ええ。」

天井を見上げて、肩甲骨を木の背もたれにぴたっとつけて、ちょっと休憩した。あまりに彼女の対応がひらひらと受け流すような対応なので、このままこの話を続けて何になるのだろう、という気持ちが湧いてくる。けれど、彼女は何も言わない。相変わらず古い、厚い紙がめくれる音がする。それは外の風より、教会のきしみよりもかすかな音だったけれど、ほろよいの迷人を何よりも逡巡させた。

「シスター、聴いてる?」
「ええ、聴いていますとも。」

安心を得られるはずの「ますとも」と同時に紙をめくる音が響いて、このやりとりは全体としておれの不安を倍増させた。と、同時にどこか恥ずかしい気持ちになった。確かめることがこんなにも羞恥を掻き立てるとは思わなかった。意外だった。おれは一体何を心配になっているのだろうか。仮にシスターが今おれの話なんて全然聴いていなかったとしても、たぶんこの小さな部屋の入り口のドアから出て行くときには何らか満足に近い感情は抱いている――この確信はこの短期間で勝手に築き上げた習慣から来ている。昨日も、一昨日も、同じようにここにきて、似たようなやり取りをしておれは少し暖かくなって家路についたから――のだから、そんなことは敢えてする必要はなかったはずなのだ。

甘えだろうか。

「片足を少しばかり引きずって歩くじいちゃんが寄ってきたんだよ。チェーンがまたギリギリのところではまらなくてさ。」
「ええ。ええ。」

いつもはコンビニで酒を買ってくるのだけれど、今日は職場でもらったやつをそのまま持ってきていた。馴染みのない味だった。四合瓶。それは、しっとりとしたもなかの中に果実をそっと閉じ込めた迷宮のような味をしていて、ただでさえ勝手に悩ましいおれの小部屋でのひとときを更に複雑なものに変えた。途中で「んん…?」とかなんとか(定かではない)唸り声をあげたおれをシスターはどう思っただろうか。紙をめくる音と同時に唸りを上げてしまっただろうか。だから何だというのだろうか。プラスチックカップを暗闇で見つめたって、何の答えも湧いてこない。か細い糸に支えられたオレンジ色の小さな照明はプラスチックカップの中の水滴を完全には照らさずに影を残していた。

「じいちゃんがさ、何事もなかったかのようにすってチェーンを直してさ、去っていこうとしたんだ。だから『ありがとうございます』って。」
「ええ。そうでしたか。」

壁の向こうで彼女ではない複数の人間の話し声が聴こえた。それはたぶんあまり突っ込まないほうがいい類の話だった。酒をもう一杯飲んだ。吐く息が冷たかった。じゅうぶんに照らしたら、銀色か、金色に染まっていただろうと思う。勘違いだろうか。もなかの吐息だこれは。胸の中に新しい星座を構築していく酒だ。感慨深いものは、すでに知っているもので構成されているのだ。「ああこれだ、これだ、この夜はこれを感じるためにあったのだ」という星座を見つけた気がした。オレンジ色の光がまた弱まった感じがした。また、ページをめくる音がする。音の質感がさざ波のようだった。彼女の本が波立っているのか、おれの何かが波立っているのかもう区別がつかなかった。

「そしたらさ、『やあ、お互いや!』って笑ってつぶやいて歩いてったんだ、じいちゃん。お互い様だ、ってことだろうか。これは。」
「ええ。」

シスターは、どんな服装をしているのだろうか。顔の周りにはヴェールのようなものがあるのだろうか。全体的に黒っぽい格好だろうか。声質はアルト寄りのソプラノに聴こえるけれど、背は高いのだろうか。低いのだろうか。目は丸いだろうか。細いだろうか。そもそも何歳くらいなのだろうか。おれは一体誰に毎晩毎晩語りかけているのだろうか。もう夜がいってしまいそうだ。明日が休日だからと長居しすぎただろうか。シスター。シスター。

「シスター、もう夜が明けるから。」

誰もその言葉に答えることはなかった。
足元の枯れ草に混じった若草に朝露が、あるいは予期しない飲み残しが鈍く光り輝いていた。


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