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価値観を揺さぶるものども

例えば暑い太陽の下テントを張って一日中果物を売る体験をしたとしたら、一日の最後に聞く、ありがとうね、という言葉の響きはどれだけの強さを持つのだろう。その間に理不尽なこともあるでしょう。考えうる限り最善を尽くしたけれどお客さんが怒ってしまうとか。一部の品物が売り切れになって、それはよいことなのだけれども、それが欲しかった後続のお客さんに不満の声を頂いてしまうとか。昼飯食いたいのに思わぬ長蛇の列が出来てしまっていつもの3倍くらいへとへとになるとか。息切らしても誰も褒めてはくれなくて、むしろ急かされて、何ならお客さんだけでなく同僚や先輩に急かされたりもして。休憩中冷蔵ケースでギンッギンに冷やした甘くクールなコールドな炭酸飲料を飲み干して気分爽快、から一転急転直下型の腹痛に襲われて売るチャンスをのがしたりなど。まあそんなひとの一日はまったくもって波乱万丈で、店じまいする寸前に突風が吹いて片付けかけた商売道具が周辺に散らばってしまう、とかもありうるね。そんな一日の最後のありがとうを、例えば近所に住んでるお得意さんのおばあちゃんに言われたとすると、やっぱり仕事っていいこともあるよね、と生来仕事に対していい印象を持っていないわたしなんかでも思ってしまって、一転、世界って平和だなあとかつぶやいてしまう恐ろしい賢者モードに突入しちゃったりしちゃったりする。というかしたことがある。終わりよければ全てよしはひとのアホさと単純さと後ろ向きな前向きさを一緒くたにした言葉なのかなあなんて思いますよ。そういう仕事をしたことがあるというのは、その先の人生ロードの中でも何度も思い出せるものであって、ああこんな太ってるだけのメガネ人間でも楽しく仕事をしたことがあったのだねって思わせてくれる。一個の果物を売るためにどれくらい工夫をしたかは、厳しくも優しい自主性に満ちた体験として頭の中に残るみたいで、とにもかくにも挫けそうになった時のまあ、折れやすいんだけれど、いい杖になったりもする。

ということを前提にして、ツイッターで散見した諸問題について言及すると。(noteオンリー、かつ日本酒に興味がない方はここで読むのをやめてもよいです。)

日本酒酒蔵はたしかにきつすぎる労働であり、日本酒の資格は金で買えるのかもしれない。けれどもきつすぎる労働の中にはちっちゃいけれど毎日発見があり、それは今日の晩酌の酒をうまくする。とりあえず酒を飲んだ時に無思慮な発言は減る。好みじゃないからだめな酒、とか(これはレベル低すぎか)。でも日本酒酒蔵の仕事はきついよ、と自信満々で言う人の中にそのきつさを理解した上で良いきつさに変えようと努力しているひとにあんまり出会ったことがないから、そのきつさは半分は誰かのちょっとした惰性の産物だと思っている。これはわたしの実感。あと資格。資格は徹頭徹尾自分自身のために取るものであり、他人に対してはお守り程度の効果を発揮すればいいものである。自分が資格を取る過程で遭遇するものは多分他人とは違うものであり、その過程を抱きしめて今日も飲めばいいだけだ。気持ちよく。お守りがあると安心だけれど、なんかがうまくいかないことをお守りのせいにするやつは言わずもがなちょっとアレなひとだと思う。お守りもって「おれすごいんだぜ?」っていうやつはすごいのがご加護を与えている神聖な存在だということを忘れている。そいつがすごいやつなのかは、そいつを見ないとわからないし、誰かを見た時に感じているすごさが「資格」とか「雑誌のコピー」であるならば多分そのひとは対象のすごさをわかっていないのだと思う。

ツイッターではもうこの手の言論に参加しないけれど、見れば思うところはありまくりなのでここに書いた次第です。見てくれたひと、わたしの一日最後のもやもや解消に付き合ってくださいまして、どうもありがとうございます。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。