見出し画像

2022.09.29 日々。

こんばんは、今日もおつかれ様です。
何かを書いたり飲んだり喋ったりする習慣がなくなって久しいです。
久しくて、どこか寂しいですね。
ということで、なにか書いてみるんだな。
久しぶりに何かを書くということは、いつも通り少し反省風味というか、そんな感じになるのでしょう。なりますよ!なりますとも、です。
さあスタート。

ツイッターでの何かを暗に罵倒するようなツイートは、全部離れていってしまったものを惜しむものだったな、というのがまずひとつ。

この一年半くらいを振り返ってみると、その中身は複雑なようで実はとっても単純で、それはそれ以前の数年インターネットで、より正確に言えばSNSで得たものを失っていく過程でした。
主に、人。人です。
どんなにひねくれた人間でも人を失うのはとても寂しいことだよ。
そしてひねくれた人間の悲しいところは、それを素直に表現できないところだね。

ああ、寂しかったんだよ。
大抵の暗い内容のツイートはぜーんぶそれです。

ある時を振り返ってみて、「あれはあいつが悪かった。」「あれは俺が悪かった」「でもここはおれが正しかった。」「しかしあのときだけはあいつが正しかった。」とかってさ、そんな風に自分の中で思い続けた結果がいやらしく誰かをわら人形に仕立てて打ち付けるみたいなツイートになるのです。

悲しいことです。よね?
多分これは悲しいことなのよ。

悲しくて、それは惜しくもあるのだけれど、そいつを裏返してみるんだね。酒を飲んで罵るのでもなく、なんかこう裏返してみる。悲しさを。をさしなか。ではなくて。裏返してみると、そこにあまり後悔がなくて不思議になる。それはもうね、仕方がないことだからまあ、いいのよってそういう感情になるのです。

あーあ、って上記のようなことを考えながら時は過ぎて、職場で日付超えるまでくだらない作業続けたり、突発的に固形燃料で肉焼いたり、ラインで誰かをブロックしたり、延々と続く渡鬼みたいな日常に達成感を感じたり、久しぶりに開いたツイッターで誰かにブロックされたり(このときおれは誰もいない暗い倉庫で高笑いした)、大学の時帰省する度に二人で飯を食いに行ったあのときの萬寿鏡はとても美味しかったって言いたい最愛のばあちゃんが死んだり、続けて大切な人が死んだり、子どもではないよ、ふたりとも元気だよ元気すぎるよ、まあ、自分のできることとできないことがはっきりしてきて、ただ、ばあちゃんの最晩年を大切にすることは自分にはできなくて、でもできなさはできなさでいいかって思ってそう、生きたりしている。
こういう充実した時間があると、充実ってプラスだけじゃなくてマイナスも込みなんだが「まあいいか。」って思えたりする。諸々の悲しみはまあ、いいかなって思える。完全に割り切って「俺が正しい」とかじゃなくて、反対に開き直って「あいつが悪い」とかじゃなくって、ひとまずまあいいかなって思っているよ。

いろんな人達、また飲みたいね。
惜しく悲しく思う人達はみな、一度楽しく酒を飲んでいる。

明日の天気は晴れらしい。おれは最近涼しくなって、涼しいというのはおれの名前の中に含まれている字で、けどおれは相変わらず熱くカッとなりやすくて、まあそれはよくてよく眠れるようになったので、朝になればいつも枯れかけと元気な姿の間をさまよっているパソコン横の観葉植物をチラ見して家族に触れながら靴下を履いてあくびをしながらたまに朝ごはんをちゃんと食べて全然仕事で使わないものばかりが入ったカバンを持って一度車の鍵を持っていき忘れて駐車場で開かないドアを開けてため息をつく。
その瞬間「またこんな当たり前のことができなかった」とか思って神様が選んだいつかの過去の失敗が眼前にちらついて、少し笑って職場へ向かうんだ。

新店舗おめでとうございます。知らんかった!


酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。