可処分精神のブルース

「可処分精神」という言葉があるそうだ。(天声人語風。なんか偉そうだから二度とやらない。)


なんだか耳慣れない言葉なのでググってみた。すると著名な社長のインタビュー記事が出てきた。説明を引用してみる。

可処分精神を奪う、とは何か。一言でいうと、「つい、そのことばかり考えてしまう」状態にするということです。より具体的にイメージするためにわかりやすい例を挙げるとすると、恋愛や宗教があります。たとえば恋愛なら、好きな人ができると、その人のことばかり考えて仕事に本腰が入らなくなったり、学校にいても授業が頭に入らなくなってしまったりします。好きな人に可処分精神を奪われているのです。

前田裕二(SHOWROOM株式会社代表取締役)、東洋経済オンラインインタビュー記事から一部引用、2018/12/27のもの

私がいつまでも高校政治経済の「可処分所得」くらいの知識でのうのうと生きているうちに、随分とまあ物騒なものを奪い合う時代になったものだ。

あ、これからくるのだろうか。まだそういう時代じゃないの?あ、そうなの…。

えっ、でもよく見たらこれ2018の年末の記事じゃん、ちょっと前じゃん。うわお。もしかしたらもうそんな感じの空気になっちゃってるのかな?



ふーん、と思いつつもう一度説明を読んでみる。

「たとえば恋愛なら、好きな人ができると、その人のことばかり考えて仕事に本腰が入らなくなったり、学校にいても授業が頭に入らなくなってしまったりします。」

ほほう。

思い当たるフシがありすぎる…というか、生きている時間はまさにそんな感じだったような気がする。

小中高はその時恋してる女の子とどうやったら話せるようになるかにだけ集中してたし、大学の時はそういう子となにをして過ごすか考えていたし、就職してからはどうやって今の嫁さんを夕飯に誘うかを考えてた。

可処分精神ほとんど女子に取られてる。

(大学と就職時はともかく、それ以前の報われなさとなかなかのものだったけれど)

そんなもんだよね。
意中の人とどうやって過ごすか以上に大切なことはなかったわ。



と。
そんな可処分精神のことを目にしたのは1ヶ月位前で、で、それを今日の昼間に思い出した。

残念ながら恋愛の場面で思い出したのではなかった。ロマンティック0%。
SNSで文句を言っている人を見たときだったよ。嗚呼なんて時に!

なんでその時に可処分精神のことを思ったかと言えば、「ああ、これが一番いかんやつだな。」って感じたからです。

文句言ってるときって時間的に、いやそれ以上に質的にかなりその文句の相手に寄りかかってるよね。いやあ反省した。これはやべえなと。

無視しようって思ったよ。反論するんじゃなくて。

というかそもそも論じるなら自分のフィールドでやりたいし、というかそれ、まともに相手の言い分把握して言い返したとしても多分実のある話にはならないし(論理より敵意がまさるもんだよ)。

これまで以上にちゃんと無視しなきゃなって思った。
完璧な無視って難しいよ。受け流すんじゃなくて、無視。

考えようぜ、そいつじゃなくてあの子のことを。

大事なあのことを。

仮にそいつにうまく反論できて、懲らしめてやった感じになったとしても、それもダメなんだわ。

そいつを源泉にした喜びになんて触れたくないんだよ。今までそういう点にかなり無頓着だった。


あ。

このまんま終わりにできなくなった。ちょっと方向性変わります。

無頓着だったのはなぜか?

そういう風に考えると、またちょっと様相が変わる気がする。

そこに無頓着だったのは、もっと集中していたことがあったからだ。

正直、歳を重ねてから個人的な事情で何かに100%の敵意を持つのはちょっとむずかしい。

そういうことしちゃう時には、その敵意の先になんか守りたいものがあったからだと思う。

そう、そうだ。
その時自分の可処分精神は文句を言ってる相手なんか通り越して、もっと大事なものに向かっていた気がする。

そうだ。

だから、そういうことがある時には、拳を振り上げろ青年。

でもその他の場合は、1000%無駄だからやめとけ。
「1秒も無駄にしちゃいけない」よ。ガラスの眼をした猫が、そう歌っていたはずだ。

可処分精神のブルース。
まあ、大切なもののために時間を使っとこう。

残量の見えない砂時計の前にいる私たち。

乾杯。


酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。