インスタント化するメタコンテンツ

最近全くNoteしてなかったので、普段FBに呟くレベルのものだが、思い切ってNote化。

流れてきた清水さんのNote

最近よくあるグラフィックレコーディングへの誤解の考察。

グラフィックレコーディング。

私は、ファシリテーションの手法として学んだので、グラフィックファシリテーション。

私自身は、2010年位から着目して活用してきた領域。日本社会の期待と活用方法とのズレが大きくなり対話型のワークがほとんど金にならない現状では、現時点で私はほとんど使える領域を見いだせなくなってしまった。必要ないのではなく、出せなくなってしまったに近い。

もしやる場合は、お願いする人間を決めている。なぜなら、そんなに簡単には出来ないから。

個人的に、綺麗に描く、というのが嫌い。落書きでなければならない。そうでなければ、絶対にメタコンテンツとして高解像度な文脈をキャプチャ出来ず、文脈を漏れこぼしてしまっているからだ。だから、スピードと文脈解釈力とキャプチャの力が揃ってないと意味がない。

ファシリテーションで十分な領域にグラフィックを活用する意味は、言語では限界な領域を可視化して、非言語なコミュニケーションの領域で対話を深めること。だから、グラフィックとファシリテーターは別のほうがよく、ペアで行うことで相乗効果が生まれる。と個人的には思う。

が、そもそもファシリテーターですら金を払わない領域にグラフィックが重なるのでファシリテーターからは発注がしにくい。そして、視覚的に分かりやすいグラフィックに限定的な賃金のオーダーが流れる。

敢えて言うし、多分、グラフィックを分かって使ってる人は全く異論なく受け入れてくれると思うが、グラフィックは万能ではない。非言語を扱ってるため、言語の領域は、言語の領域としての対話が必要だ。オットーでも、アランでも、サンデルでも、アダムでも、なんでもいいけど、とにかく、問いを武器に対話を組み立てる設計者が対話の鍵を握る。言語と非言語は双輪で、片方が両方をやろうとすると片手落ちになる、というのが私の見立てである。

ちなみに、非言語+進行、でも悪くないけど、対話のレベルはそこそこ。混ぜかえるようなそんなレベルの対話は望めない。


SNSのバズは確かに側面的に面白いけど、インスタントな使われ方に更に拍車がかかってんだなー、と。

そろそろ、インスタント抹茶キットが出てきて、環境無視したプラスティックカップで飲んで「日本人は抹茶だよねー」って真顔で呟く人が出てくるんじゃないだろうか。すでに、粉末は売られてるからあとはプラスティック製の抹茶碗の登場だな。

そんな世界で、ハイコンテクストな人たちって生き辛い。日本を捨てて出ていくので、結果、日本という国には日本人らしさは残らず、薄まって名もなき日本人らしさが世界に拡散していくのだろうな。

最後、グラフィックから、メタコンテンツの話にすり替わっちゃったけども。

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