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【#15ギュムリ】黒の街

アルマヴィル地方を観光した翌日、古都ギュムリに向かった。9時ごろ、宿を出る。マイクロバスでギュムリに直接行けると思ったが、アティックという街が終点だった。アティックまで一緒にバスに乗った青年がいて、俺が降りてから動かずにいるのを見つけて「困っているのか」と聞いてくれた。

「ギュムリまで行きたい」と言うと、わざわざバスステーションまで案内してくれて、運転手に声をかけて、何時に出発するか料金はいくらかを尋ねてくれた。

何度も「ありがとう」と言うと、何でもないといった様子で去っていった。アルメニアには良い人が多い。俺も困っている人を無条件で助けられる人になりたい。

アティックのバス乗り場

ギュムリに着いて無事宿にもチェックインを済ませたあとは、街歩きをした。ギュムリでまず面白かったのは、教会や街並みの色合いが炭のように黒かったことだ。

教会というとジョージアで見てきたように白だったり、ベージュを基調とすることが多いイメージがあった。だが、ギュムリを代表するヨトヴェルク聖堂でも救世主大聖堂も黒色がメインだった。

救世主大聖堂

特に、ヨトヴェルク聖堂は、土曜朝には鐘が鳴っていたので、中に入ってみると神父が祭壇にいた。神父が聖書を読み上げており、音楽も聞こえてきた。あまりにも神父との掛け合いのタイミングが良すぎたので、おかしいなと上を見上げると二階で聖歌隊が歌っていた。

驚いて、階段を上がると水色のローブに薄いピンクの布を頭でおおった聖歌隊が、7人前後いた。指揮者や伴奏者もおり、オペラかと思うほど響く良い声だった。神父の後ろの天窓からは陽の光が差し込み幻想的で、あの雰囲気は忘れられない。

ヨトヴェルク聖堂
ミサの様子

ギュムリという街について事前知識はほとんどもっていなかった。今、この街の人々について言えることは、旅人に素朴な関心を寄せてくれる好奇心旺盛さだろう。アジア人が珍しかったのか多くのアルメニア人に視線を注がれたり、声をかけられたりした。着いて早々、大聖堂の周りを歩いているとサッカー少年たちにからまれた。

ギュムリ中心部の街並み

ギュムリという街はトルコ国境に近く、かつてオスマン帝国の侵攻を防ぐために建てたという黒の要塞があった。この名所に先生の引率のもと社会科見学の生徒達が来ていて、ひとりひとり挨拶された。

さらに写真撮影まで求められ苦笑する。男の子も女の子も純粋で、こっちが戸惑うほどだったけど(だって俺は有名人でもないから)、俺はこういう触れ合いが大好きだ。とても楽しく、なぜかお別れに松ぼっくりを2つもらった。

黒の要塞

街を歩いていても様々な人からの視線を感じた。ロシア帝政時代からの建築群もあり、旧市街をゆったりと歩くことは刺激的な体験だった。そういうとき、建物を眺める俺を、現地の人々が眺めるということがよくあった。

見られているなと思い、見返して「バーレフ(こんにちは)」と言うと嬉しそうに「どこから来た?」とか「どれくらい滞在するのか?」とか聞いてきた。気になって数えると、この日だけで17回は挨拶していた。シュワルマというケバブに近いものを食べている時も、「俺の仕事はデザインで..」と話しかけられた。

ギュムリでは特徴的な扉が多かった。

夜にレストランでディナーを食べた。お肉とマッシュルームのビーフシチュー、サラダを頼んだ。とても美味しく堪能した。大通りではあったが暗い夜道を宿に向かって帰っているとき、交差点があり赤信号で待った。

すると、左斜め前からクラクションが鳴らされて「なんだ?」と驚いて車の方を見ると、車内から俺に向けて手を振っていた。歓迎ありがとう…。これがギュムリの人々であり、アルメニア人だ。

レストランでの食事

ただ、実はギュムリ滞在中に頭痛と熱っぽさもあった。どうしても休めない性格で体調不良になるまで動き回ってしまう。だから、ギュムリでは抑えながら観光していた。

その日の深夜から翌日にかけて何度か目がさめて、かなりの熱っぽさを感じた。ギュムリ近くの名所巡りは諦めて、エレバンに帰ることにした。薬を飲んで眠ると、少しは体調がよくなって歩く分には問題ないと思うほどに回復した。

ギュムリの扉2、建物の色味とも合っている。

朝ごはんを買うため近所の商店に行った。商店では小さな店内に4人の従業員がいた。コンビニを少し大きくしたといった感じ。全員女性。みんなマグカップでコーヒーを飲んで、談笑しながらリラックスしてた。

「ああ、来たね」くらいのノリで、さほど客にも関心を払わない。外国らしくて良いと思ったし、日本人も肩の力を抜いて仕事してもいいと思った。

ギュムリの扉3、昔は扉一つにここまで贅を尽くしたんだな。

昼ごろ、エレバンに戻ってきた。宿のメンバーもよかった。まずイラン人の中年男性がいた。日本人と結婚しており、「日本大好き」と言ってくれた。味噌やラーメンを持ってきていて面白かった。翌日も「日本が好きだ。ナンバーワンだ」と念押しされ、「俺は箸を使っているぞ」とアピールされ、ティーをもらった。

そのほかには、トルコ系の人が「日本人か?」と話しかけてきた。話すと、ウイグル族の青年と分かり、驚く。中国に住んでいたが、今はトルコで生活しているらしい。聞くところによると、中国からロシアに行き、ロシアの大学を卒業し、トルコに渡ったという。

トルコは居心地がいいが、中国国籍のパスポートの有効期限が来年切れるので、欧州に亡命するらしい。家族からは「中国は危険だから戻ってくるな」と言われており、自分でも「もし中国に戻れば、逮捕されるだろう」と語っていた。「日本人は中国人が嫌いだろう?」と切実な様子で聞いてきたのが、印象に残っている。外国にいると、ニュースでしか知らなかった世界が現実として迫ってくる。

万全ではない体調を気遣いながら、次の渡航国であるイスラエルについて考えていた。イスラエルに翌日出発するというときに、国防相が辞任させられたことに対する大規模デモがあったというニュースが飛び込んできた。

イスラエル国内の飛行機のうち一部は離陸が中止していた。治安も心配だ。明日どうなるかはわからない。ただ、イスラエルについて言えば、騒然としたニュースに怯えていては一生行くことができないのではないかという気持ちもあった。

危険はある。ただ、三大宗教の聖地やパレスチナをこの目で見たいという気持ちはかなり強かった。だから簡単に諦められない。不安はあったが、明日の動きを待った。

出発当日、朝起きると宿は停電していた。Wi-Fiが使えない。復旧にどれだけかかるのかもわからなかった。レストランでWi-Fi環境を確保して、イスラエルのニュースを調べると、昨夜のうちに首相が法案を撤回しており、デモの影響は問題なさそうだった。

本当に安心した。イスラエルは最後まで何かある。宿に戻っても電気は復旧していない。トイレは、ろうそくで火を灯していた。さすがキリスト教の国だ。

アルメニアからイスラエルへの空路は、フライワンという航空会社を利用した。この航空会社は、しばらく前に出発時間が二時間遅れになるとメールで一方的に通告してきていた。

さらに、チェックインの際にはオンラインチェックインをしていないという理由で、4,000円も取られた。オンラインチェックインについて注意書きは見当たらなかったのに。正直、不満だった。一人でいると、話し相手がおらず、気持ちの切り替えがむずかしい。

チェックインのときには、アルメニアからイスラエルに行く日本人がよほど珍しかったのか、受付の女性がベテラン職員に日本人のビザ要件について確認するという場面もあった。出国検査でも、アゼルバイジャンの件が引っ掛かったのか、審査官が二、三分席を立つという異例の事態もあったけど、なんとかスタンプを押してもらえた。

結局、搭乗口で出発予定時間よりさらに二時間遅れて、出発した。もともとの搭乗時間が14時だったが、ずれにずれて18時30分になった。出国はできたけど、イスラエルの有名な入国審査は大丈夫か、深夜にエルサレムの街を歩いても大丈夫か心配だった。

アルメニアは素晴らしい国だったけど、その余韻に浸る余裕もないままに機内では満足に眠ることもできず、無事に宿にたどり着くことだけを考えていた。気持ちが昂っていた。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」
..「使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」
僕は目を挙げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。
「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。」

村上春樹.ダンス・ダンス・ダンス上.講談社文庫


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