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私的記録:11 ブルースにはまる① 日雇い労働の日々

ということで、初めて参加したバンドがストーンズのカバーバンド(コピーではなかったのでカバーバンドと呼びます)だったので、自然な流れではあるんですが、ご本家たちのルーツということもあって、彼らの狙い通り、私の興味は、黒人音楽に向かいました。まずはブルースからではありましたが、最終的には、黒人音楽や黒っぽい音楽は全般的によく聞いたと思います。時期的には、80年代半ばから後半位、多分、87年とか88年とかそれくらいの頃の話です。

ただ、これ、「リスナーとして聞く」という側面と「ギタリストとしての側面」から来る「ギタリストとしての興味関心」でいえば、重なる部分と、そうではない部分もあるんですが、その辺りは、今後も、上手くかき分けながら書こうと思っています(ギタリストとしての方は「列伝シリーズ」に比重を置く感じでいこうかなと)。

なかでもブルースですね。これはロックの基礎として一般的には言われることが多いですし、ストーンズ以外のバンドでも、イギリスの60年代デヴュー組のロック系バンドは、ビートルズ以外は、ほぼ、黒人ブルースからの影響が多大であると言っていいかなと思いますしね。

まぁ、80年代のメタルだって、ルーツはブルースという人もいますから、「洋楽のロックをやる人にとってブルースは避けて通れない道」みたいな扱いなんでしょうかね。私と同じようなコースをたどった人も多かったはずです(笑)。

リッチー先生もブルースとクラシックですし、ジミー・ペイジ先生だってブルースからの影響は多大ですしね。80年代のLAメタルの連中だって、かなりの人が多少なりとも影響を受けてますしね。

たとえば、シンデレラ(彼らはLA出身ではないですが、括りとしてはLAメタルではあるので)のようにブルースロック(トム・キーファーが好きだったのは、ジョニーウィンターでしたが)は聞きますしね。
テスラとかもそうだし。

まぁ、今であればそんなこともないんでしょうが、当時はまだぎりぎりそのあたりが「ルーツミュージック」の流れとしてつながっていた最後の時代だったのかなという気はします。

なので、私は、メタルはすごいスピードでいっぱい聞いたものの、その後、これまたすごいスピードでストーンズ周辺と黒人音楽にはまったんですよね。

今考えれば、「自分が好きなバンドが聞いていたから」というだけで、「黒人ブルースや黒人音楽にそこまではまるか」と言われたら、「人によるだろうな」と思うんですが、初めに深堀りしたロックバンドの入り口がストーンズであったことの影響は後々まで大きかったなという気はします(メタルはギターのコピーはしていましたが、音楽的に深堀までは行けていなかったと思うので)

それともう一つ、私が初めてブルースを強く意識したのは、以前、「ギタリスト列伝」の方でも書きましたが、友人ATがレンタルで借りてきてくれた映画「クロスロード」のロバート・ジョンソンでした(こちらの流れは「ギタリスト列伝」のロバジョン編に重複するので、省略します)。

この2つが重なってブルースと黒人音楽に強くはまっていきましたね。
今、うちのチャンネルで取り上げている曲は、クラシックロック中心なので「黒人音楽」と、書いても重ならない部分もあるかもしれませんが、10代の頃、そういう感じでしたね。そこから、また、ロック全般に戻ったという感じではありました。なので、60年代デビュー組の大御所のミュージシャンの若い頃の体験を追体験したのに近い感じではあったのかもしれません。

私が黒人ブルースマンに強く惹かれた理由は、黒人のタフな人生にも自分なりに共感したのはあるかなと。
「ひどい目に遭っても、タフに乗り切る」というか、あのメンタル、強さ、タフさ!

そこにも惹かれました。

それで、当時、吉村レコードさんというのが大阪にはありまして、ほんとによくいきました。吉村さんには、すごくかわいがってもらいました。
新しい輸入盤がはいってくると、視聴もできるので、たくさん聞いて、気に入ったのを5枚くらい選んで買っていました(その選び方も工夫してましたが、それは、また別の機会に)。

他にもいろいろ、レコード屋さんに通っていましたね。

その頃、仕事の方は、友人数人で、パナソニック(当時はこの名前ではなかったかもしれませんが)の海外輸出コンテナへの積み込みの日雇いに行っていました。

後年、建築系の仕事もしましたが、あの当時の私には、それも無理。「親方に怒鳴られるような仕事であること」「覚えることが多い系(手に職をつけようとしたら)」「怪我をしたら楽器が弾けなくなる」とかの理由もあったので、選択肢に入ってませんでした。

責任も重くなく、窮屈でもなく、それで、手軽にお金を手に入れられるということで「日雇い労働」に励んでおりました。

その他での定番でいえば、「飲食系(以前書いたゲイバーのウエイターは、ちょっと別物・別枠と考えるべき?」でしょうが、そういう定番のアルバイトですら、私には合わなかったので、これは当時、ありがたかったですね(というか、長髪だったので余計に無理だった)。ひたすら積み込むだけですから。それと、ある程度働いたら現金を手にできるのもよかったですね。

正社員とかである必要もありませんでしたし、そもそもあの時代(私が10代の頃って、いわゆるバブル全盛期だったんでしょうね)でも、高卒の資格のない私を正社員で雇うところは少なかったですし、あっても、あの当時の自分が、まともな職業をやれたとは思えません(笑)。

かといって、この積み込み、大変ではあったんですけどね。特に夏場は厚いので(笑)。コンテナにはロングとショートがあり、ロングは特にきつかったですけど、若くて力が有り余っていたので、1-2年は、これを続けてましたね。

そこには、とある駅前の事務所(うちから自転車でいける距離にあった)に朝行くだけ、そうすると、送迎の車がいて、その車に4-5人、押し込まれて、コンテナの積み込みの倉庫まで運ばれます。
車の中の雰囲気は空気が重く、どよんとしてることが多かったような気がします。車で30分位だったはずですが、移送中は、無言で周りに合わせてました。なんとなく元気いっぱいに振舞うと、怒られそうだったので(笑)
到着したら、後は、ひたすら積み込むだけです。

この日雇いにはいろんな人がいましたので、いろいろ学びましたね。特に、そこで知り合った画家のSさん、後年、この人が沖縄に渡ったんですよね。それで、アメリカに行く前にここで腕試しをしようと思ったひとつのきっかけになって沖縄行きを決めたんです。

今でも思い出しますが、そこ、朝、A,Tとそこに向かうんですが、その事務所に行くには、JR(多分、まさに「国鉄」がJRに変わったころだったはず)の大きな「開かずの踏切」を通らないといけないんですが、ひどいときは10分くらいあかないんですよね。

そうすると、だんだん行く気がなくなってきて、Aと顔を見合わすんですが、そうなると以心伝心、アイコンタクトで「きょうはやめとこか」となるんですよ。日雇いなので、良くも悪くも、ちょっとしたお金はすぐに手にできるので、そうなるとコースはレコード屋!

ちょっと早すぎる時間帯なので、適当に時間をつぶしてから開店の時間に合わせて店へ、というのが定番コースだったという感じでしたね。

大まかな流れとしては「シカゴブルース」「デルタブルース」「テキサスブルース」なんかをよく聞きましたね。「何を聞いていたのか」の詳細は②に譲って感じでいくことにします!

この間、整理していたら、その頃の写真がでてきたので、貼っておきます。
これ、今も使っているTelecasterですね。わかりにくいですが、それでも、このギターが新しいことがわかりますね。
これを持っているということは、17から18歳の頃の写真かと思います。







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