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4/30①「正直と嘘について」

あらゆる徳目とされるものは、実はそれ自体が特別なものとして、元来あるのではなく、現実的な利益を追求するための、原則として、高度に抽象化された概念である、と今は思っている。

前にそんなことにも触れた。


今日は最も一般的な徳目の一つ、「正直であること」「正直でないこと」について考えてみる。

当たり前の様に思えることを、今一度点検することで、何か新しい発見があればいいな、と期待している。


正直であることの、何が良いのだろうか。これについて考えるにあたって、対偶の、嘘をつくことの何が悪いのだろうか、を考えてみる。


一度嘘をつくと、その嘘を正当化するために、更なる嘘をつく必要が生じることが、多い。

嘘をつくというのは、疲れるものだ。本当のことを、ありのままにただ語る、ということに比べて、嘘をつくということは、新たな物語を創出することでもある。

もちろん、その物語は虚構である。そのことは、きっと誰よりよりも、本人が一番認識していることだろう。その、現実と虚構とのギャップが、常に頭にある、これが、嘘をつくということの、ストレスの原因だと思う。


さらに、嘘がバレると、当然信用を失う。それを追って、信頼を失うことも多い。

信用を失えば、取引や契約が出来なくなり、貧して、鈍する。信頼を失えば、他人と関係を築けなくなり、寂しくなる。自分のことさえも、わからなくなっていく。


今は、人生、少なくとも男の人生において、普遍的に大事なのは、「健康」と「友達」と「貯金」だと思っている。嘘をつくという行為は、これらの全てにおいて、マイナスの影響を及ぼすと考えられる。


さて、今度は「正直であること」について考える。正直であることとは、ある人の言葉を借りれば、「現実を言葉にする」ことだ。

これは、行動については、わかりやすい。それは、具体的に目に見えるからだ。だけれどそれだけでなく、思考や、感情についても言えることだと思う。

なぜなら、思考や感情も、行動と同じぐらいに、その人を構成する要素だと思うからだ。仏教では、行動・言葉・心情を一致させるということを、「身口意一致」と表現し、有り難られているらしい。

この言葉が、俺は好きだ。ただ、それは道徳的なことではあるとは思うが、根本的には、ただストレスや不安を感じやすい過敏体質であること、あるいは他人の嘘に気づきやすい、直観が強いタイプであること、からきているのだとも、認めている。


嘘をつくことが、ストレスにつながるのも、結局は、「信」を失うことへの恐怖、からきているのだろうと思う。きっと多くの人が、孤独が怖いのだ。もしかしたら全員かもしれない。

だから、必死で隠し、取り繕うとしてしまう。ある意味、アルコールや薬物への依存症にも似ているのかもしれない。だとするなら、最初が肝心だ。

最初の嘘をつかなくて済む様な、そんな生き方こそ、友達や信用を大事にする生き方につながると思う。特に、不安やストレスを感じやすい、神経症的な人にとっては。



【問いで遊ぶ】
・方便と詐欺の境界はどこか?

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