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明治40年小坂鉱山の災害事故のことなど - 巡巡 #017

多喜雄の妻、僕のひいひいお祖母さんだが、この方は若くして亡くなっていた。戸籍ではなぜ亡くなったかはわからなかったのだが、除籍謄本にその場所が記載されていた。それが「小坂鉱山」であった。

吉田はつ(旧姓坂田)

明治40年頃、多喜雄は東京から秋田にいた。僕のひいお祖父さんの吉田清夫を四谷で産んだ翌年のことだ。
上の写真は多喜雄と結婚した明治37年頃だろうか。

結婚してわずか3年、27歳でこの世を去ってしまったはつさん。絶望的ともいえる環境で残された多喜雄と小さい清夫はその後どんな人生をおくったのだろうか。この出来事をきっかけにもっと調べたいと思うようになった。

ちなみに家族ははつさんが早くして亡くなったこと以外の理由を知らなかった。

今から100年以上前の出来事ではあるが気がつかなった間もこの事実が土に埋まったまま、そこにあったということに責任感やら申し訳なさを感じる。

早速小坂鉱山について書かれた本や資料を読んでいった。当時の日本において最盛期であった鉱山事業、小坂鉱山に至っては鉱山額は全国一位だった。街もかなり賑やかだったことが想像できる。Googleマップで現在の小坂町をみると少し閑散としている。

明治の小坂鉱山の写真は国会図書館デジタルコレクションで見れます。藤田組小坂鉱山精錬所写真

資料で多喜雄に繋がりそうな情報は見当たらなかったが、はつさんが亡くなった明治40年の同じ時期に小坂鉱山で貯水池の堤防決壊事故が起こっているのを見つけた。時期的にはつさんはこの事故によって亡くなったか?

小坂鉱山精銅場

詳細を知るべく現在の秋田県小坂町な役所にメールで問い合わせてみた。すると数日後に「小坂町町史編さん室」の方から返答があり該当の書類を送って頂けることになった。後日分厚い封筒が届く、中には秋田県の公文書が綺麗に綴じられて入っていた、付箋がいくつかついていてページをめくると、吉田多喜雄と吉田はつと名があった。

郷土研究(小坂町市総合博物館郷土館)

どうやら多喜雄とはつさんに対して見舞金が支払われている。家財の見舞金、初さんは怪我の見舞金。金額から推測すると大きな怪我ではなかった可能性が高い。亡くなった日が数ヶ月先だったのと、災害での被害者の人数が合わないので災害の被害で亡くなった線は薄くなった。ちなみに災害時の市街図によると三沢傳兵衛さんという方の家に住んでいる様子がわかった。どんな生活だったのだろうか?

小坂鉱山明治40年災害時の市街図

となるとはつさんは病気だろうか?そもそも吉田多喜雄は何をしに家族で小坂鉱山へ行ったのだろうか。この頃はまだ知らない。

負傷者に対する見舞金

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