すずきりょうた

先祖や明治大正の歴史などをまとめています。CONTAXT2とT3で写真を撮っています。…

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先祖や明治大正の歴史などをまとめています。CONTAXT2とT3で写真を撮っています。https://www.carnation.jp/

マガジン

  • 燈「吉田多喜雄探し」

    • 49本

    高祖父吉田多喜雄を探せ。 明治11年鹿児島生まれの高祖父「吉田多喜雄」に関しての記事。

  • 燈「先祖巡礼」

    • 63本

    吉田家の鈴木良太と安藤家の藤小雪庵が現代に「燈(あかり)」を灯す、子孫たちによる先祖を巡る日記。

最近の記事

神宮外苑や明治公園などの歴史の痕跡を辿る- 順正寺跡地、練兵場の境界石など

前回のこちらの記事の続きで実際に同じ場所を歩いてみました。国立競技場駅、千駄ヶ谷駅方面から外苑西通りを下り外苑前に向かいました。 まずは明治時代に徳川邸があった場所現在は東京体育館などがあります。目の前の道路外苑西通りで暗渠となった渋谷川です。 国立競技場を背にして、赤い部分から撮っています。規模は縮小されたとはいえ、かなり広大な土地です。 外苑西通りを下っていきます。この歩道は広くて人も少ないので非常に良いです。歩道には人工的に作られた水の流れがあります。渋谷川をイメ

    • 明治時代の外苑前や千駄ヶ谷周辺のこと - 千駄ヶ谷町原宿や徳川邸など

      現在の外苑前から外苑西通りを国立競技場へ向かったあたりの地形の今昔を調べています。明治時代はこの辺りは千駄ヶ谷村と呼ばれ「原宿」という住所がまだ残っていました。高祖父の明治30年代の本籍がその「千駄ヶ谷村大字原宿」(大字は原宿、字に北原宿と南原宿が存在していました)だったため当時の雰囲気を探るため調べています。 練兵場の左側に「順正寺」という寺があります。ここに吉田家の墓がありました。高祖父多喜雄の弟鴻治の墓です。順正寺は関東大震災後、昭和6年に世田谷の千歳烏山に寺ごと移転

      • 増上寺黒門(旧方丈表門)の歴史

        芝の増上寺を通りかかった時に有名な三解脱門の横に増上寺黒門という門がある。この黒門もかなり存在感がある慶安年間(1648~1652年)に建てられたと言われている。この門は表側の飛檐垂木、破風板、瓦は補修されたが、その他の部分は当時の姿のままだろうか。 元々は増上寺の横、現在の御成門小学校やみなと図書館のあたりにあった方丈(住持の居所)の表門として使われていたものを1980年に現在の位置に移築されたようだ。 木の状態が素晴らしく、元は高価な漆塗で真っ黒だったので黒門と呼ばれ

        • 神戸市電と明治時代の路面電車の歴史など

          明治43年から昭和46年まで神戸市内を走っていた神戸市電とルーツとなっている「神戸電気鉄道株式会社」について調べた。 大正元年の神戸市職員録という資料の中の「神戸電気鉄道株式会社」の名簿欄に車両工学士として高祖父・吉田多喜雄の名前と住所、出身の鹿児島の記載があった(当時は奥平野というところに住んでいたようだ)それまで電気技師と伝えられていた高祖父がここでなぜか車両工学士として登場した。「電力と鉄道」この両方に携わるということは当時は自然な流れであったのか? 神戸電気鉄道株

        神宮外苑や明治公園などの歴史の痕跡を辿る- 順正寺跡地、練兵場の境界石など

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        • 燈「吉田多喜雄探し」
          49本
        • 燈「先祖巡礼」
          63本

        記事

          伊東の鉄道や汽船の歴史など

          伊東には大正後期に建てられた先祖の墓があり子供の頃から旅行を兼ねて墓参りに行っています。子供ながらになぜ伊東なのかと思っていましたがそちらの詳細はポッドキャストで話しました。都内から電車に乗り熱海から伊東まで海沿いを走る伊東線に揺られながら、我々の先祖はどのような交通手段で伊東に向かったのだろうと気になり調べてみました。 国会図書館デジタルにて「伊東町交通史物語」という資料を見つけました。 (著者:伊東線全通記念式委員部 編 出版者:伊東線全通記念式委員部 出版年月日:昭和

          伊東の鉄道や汽船の歴史など

          埼玉の加須とうどん - 巡巡 #018

          先日スーパーでふと目についた「加須うどん」という商品。加須は埼玉にある地名で高祖父多喜雄の最後の住所で、戸籍謄本を取りに一度だけ行ったことがあった。朝だったのでわからなかったが、どうやら加須周辺にはうどん屋がいくつもあったらしい。加須うどん会なるものもあったサイトによると「江戸時代の始め、川の氾濫によって肥沃な土が運ばれ、小麦の栽培に適した地だったとされており、米より小麦の栽培が盛んだった」当時は中山道と日光街道を結ぶ宿場町で、関東三大不動尊の一つ「不動ヶ岡不動尊 総願寺」の

          埼玉の加須とうどん - 巡巡 #018

          択捉島(北方領土)にある戸籍の取得方法

          現在、北方領土で保管されていた戸籍の管轄は釧路地方法務局で、そちらに必要書類を申請して郵送で取得します。(歯舞群島は根室市が保管)ほかの戸籍の取得方法と変わらず、直系であれば証明できる戸籍謄本と身分証明書とPDFの申請書を同封。代理人であれば委任状が必要です。 以前書いた以下記事で自分の高祖父の明治の本籍が「択捉島沙那郡留別村」だったため、除籍謄本を申請したのだが自分の場合はもうなかった。理由は一部しかないため、その一部に高祖父の謄本がなかった。明治の戸籍なのでなくても仕方

          択捉島(北方領土)にある戸籍の取得方法

          明治生まれのひいおじいさんが映っているビデオを見つけた

          明治生まれの人は日本にはほとんどいないんじゃないかと言われている2023年、もし明治44年生まれの人でも111歳。 うちのひいおじいちゃん吉田清夫が明治39年に生まれ平成8年(1996年)に90歳で亡くなった。僕がちょうど高校に入学した頃だったと思う。生きてたら117歳。最後まで色々と周囲を困らせることもあったらしいが、ちゃんと話を聞いておきたかったなと思う今日この頃…。なんと最近になってその清夫が映っているビデオを見つけた。 吉田清夫は先祖巡礼(ポッドキャスト)や以下の

          明治生まれのひいおじいさんが映っているビデオを見つけた

          明治40年小坂鉱山の災害事故のことなど - 巡巡 #017

          多喜雄の妻、僕のひいひいお祖母さんだが、この方は若くして亡くなっていた。戸籍ではなぜ亡くなったかはわからなかったのだが、除籍謄本にその場所が記載されていた。それが「小坂鉱山」であった。 明治40年頃、多喜雄は東京から秋田にいた。僕のひいお祖父さんの吉田清夫を四谷で産んだ翌年のことだ。 上の写真は多喜雄と結婚した明治37年頃だろうか。 結婚してわずか3年、27歳でこの世を去ってしまったはつさん。絶望的ともいえる環境で残された多喜雄と小さい清夫はその後どんな人生をおくったのだ

          明治40年小坂鉱山の災害事故のことなど - 巡巡 #017

          明治時代の択捉島に何があったのか - 巡巡 #016

          多喜雄に関して、うちの家族に聞いても特に情報は得られなかったので、自分で調べることにした。2014年に亡くなった祖父に聞けたらなと悔やむ。そもそも祖父は多喜雄と接点があったのだろうか?多喜雄は昭和18年に65歳で亡くなっていて、祖父は昭和9年に生まれている。会っていたとしても小さいからあまり記憶になかったか、僕は聞いたことはない。自分のじいちゃんのおじいさんの話を聞くことは少ないかもしれない。 まず僕が調べたのは現在の択捉島に本籍があったことだ。明治20年代の中頃から後半に

          明治時代の択捉島に何があったのか - 巡巡 #016

          吉田多喜雄の出会い - 巡巡 #015

          ひいひいお祖父さん、吉田多喜雄。明治のはじめの人なので出会いと言ったものの、もちろん会ったことはありません。最初に知ったのは2015年くらい、ふと思い立って始めた先祖探しの第一歩、戸籍収集の時だった。筆頭者の本籍を辿って、時代が繋がっていく感覚が楽しかった。残っていれば150年から200年くらいは遡れるので、江戸時代の5代6代前の先祖を知ることができる。 知ったところで…とハッと冷めてしまうことも無きにしも非ず。しかし先祖を知ることで場所や出来事、ふとした小さなことでも深み

          吉田多喜雄の出会い - 巡巡 #015

          吉田多喜雄の痕跡探し- 巡巡 #014

          少し時間がかかるかもしれませんが、新たにマガジンを作りました。 このマガジンは高祖父「吉田多喜雄」(ひいひいおじいさん)に焦点を絞った記事を残したいと思います。 吉田多喜雄は明治11年5月20日に士族吉田清廉の長男として鹿児島県鹿児島市荒田町で生まれました。10代後半までに上京をし、国の勤め人だったとされています。 なぜ多喜雄なのかと言うと、自分がやっているポッドキャスト「先祖巡礼」で遡れる最後の戸籍謄本が彼であり、彼をきっかけにさらに吉田家を知ることが出来そうな点。その

          吉田多喜雄の痕跡探し- 巡巡 #014

          一般用米穀類購入通帳を発見 - 巡巡 #013

          一般用米穀類購入通帳(以下・米穀通帳)が祖父母の家から出てきた。昭和35年から36年の一年間使用していた米穀通帳だ。戦前から戦後にかけて食糧難に際し行われた、食糧統制というもので、この通帳がないと国から配給される米が買えなかった。始まったのは昭和17年の「食糧管理法」の制定あたりからだろうか。完全に制度がなくなったのは昭和57年とのことで、僕は2歳の時で、母はこの制度を使った事ないらしい。なのでこの36年頃から曖昧に終わっていったのかなと思う。当時は身分証明書にもなったらしい

          一般用米穀類購入通帳を発見 - 巡巡 #013

          吉田清成と鎌倉|海浜院や別荘 先祖の足跡を探して - 巡巡 #012

          吉田清成は白金志田町の屋敷の他に鎌倉に別荘があった。明治20年ごろ清成が元老院議官・柩密顧問官時代に華族に命ぜられる。その流れでこの別荘を持つことになったのだと推測される。しかし清成は以前から肺を患っており明治24年8月3日に亡くなってしまう。当時の鎌倉滞在記録には晩年の清成と家族の生活が描かれている。以下明治29年の相模国鎌倉名所及江之嶋全図より。 吉田清成関係文書7によると鎌倉郡乱橋材木座村字大門の番地の中の官林の土地を道路建設の為に明治20年12月に返地している。官林

          吉田清成と鎌倉|海浜院や別荘 先祖の足跡を探して - 巡巡 #012

          軍用犬研究と警察犬の始まり 陸軍大尉吉田彦治という人物について- 巡巡 #011

          先日先祖巡礼のポッドキャストにてうちの家系の戸籍に載っていた、明治の叔父さんが日本の軍犬・警察犬に至る研究の第一人者「陸軍大尉・吉田彦治」であったという話をしました。 明治37年に陸軍士官学校を卒業後、明治40年に陸軍大学校を出ています。将校を目指したり、出世コースを進んだエリート軍人だったのかなと思います。(国立公文書館アジア歴史資料センターより)その後、千葉の陸軍歩兵学校の歩兵学校教導隊所属します、大正元年のことで大正3年「軍犬ノ養成並使用法ノ研究」という資料を発表して

          軍用犬研究と警察犬の始まり 陸軍大尉吉田彦治という人物について- 巡巡 #011

          谷中霊園の白と黒の2匹の猫など - すず記

          ちょっと前に徳川慶喜の墓を見に行こうと谷中霊園の中を迷っていたところ珍しい光景に出会う。白と黒の猫だ。この組み合わせとシチュエーション、このお墓の方は猫と何かしら縁があったのだろうかと思わずにはいられない光景。近寄っても逃げなかったので、1枚写真を撮らせて頂いた。もし飼い猫なら名前はシロとクロじゃないだろうか。目を閉じ微動だにせず、この子たちはどこから来てどこへ帰るのか…。この谷中周辺は猫が多いと言われているけど、ほとんど見ない。お墓は静かで段も多く猫には過ごしやすい場所なの

          谷中霊園の白と黒の2匹の猫など - すず記