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赤い糸はスパイシーな香り 第11話

 無色透明なお湯を、掌で何度となくすくっては腕や肩へと掛ける。スベスベになった肌に思わず笑みがこぼれる。少し熱めのお湯でほどよく温まった私の肌はほのかに紅く染まり、大きな窓の外に見える夕陽と競っているようだった。
 浴衣に袖を通して帯を締めると、素肌に触れる浴衣の肌触りが心地良い。うなじを伝う汗を手ぬぐいで拭いながら浴場を出ると、雅也がベンチに腰掛けてスマホの画面を眺めていた。
「ごめん、待たせちゃったね」
 私の声に気付いて顔を上げると、
「あ、いや、ついさっき出てきたところだよ」
 そう言って微笑みながら立ち上がった。雅也の腕を取ると、ひんやりとした感触が掌を通して伝わってきた。私のことを気遣ってくれたのかと思うと、申し訳ない気持ちと、雅也の弱さみたいなものを感じて、胸がざわざわした。
「ねえ雅也、私にそんなふうに気を遣うのは優しさじゃないよ」
「えっ?」
「ずっと待っててくれたんでしょ? こんなに冷たくなってるじゃない」
「……ごめん」
「ううん、いいの。雅也が優しいのは誰よりも良くわかってるよ。私には雅也と二人の未来が見えてるんだから」
 雅也は私の手を強く握って、ありがとうと言った。
 
 部屋に戻って夕食を済ませると、仲居さんがお布団を敷きにやってきた。部屋にはベッドもあるのだけれど、やっぱりお布団の方が温泉らしくていい。手際良くお布団を敷いていく仲居さんを見ながら、食事といいお布団といい、何から何までやってくれる様子に『至れり尽くせり』とはこのことだと感激していた。
 私はバルコニーにつながる窓を開けて、少し冷たい空気を入れた。雅也と並んで、バルコニーから眼下を流れる飛騨川の水音を聞きながら、下呂の温泉街の夜景を楽しんでいた。
 私は雅也にこれからのことを訊いてみたいと思っていた。雅也は私に、ことあるごとに気遣いや思いやりや優しさを見せてくれる。それに対して不満はないのだけれど、未来のことは何も話そうとしない。もしも雅也との関係が壊れてしまったとしても、次の恋に踏み出す時間は十分にある。それでも、雅也だっておぼろげにでも考えていることがあるはずたと思ったからだ。
「ねえ、私たちってこれからどうなるのかなぁ」
「ほのちゃん、その話なんだけど、もう少し時間が欲しいんだ。断言はできないけど、地元に帰れるようになるかも知れないんだ」
「本当なの?」
「社長がサテライトオフィスを立ち上げようかって言ってるんだ。もしそれが実現したら帰れるかも知れない」
 雅也は、何度も確定ではないと念押しをしていたけれど、私は単純に期待してしまっている。やっぱり遠距離は辛いし、淋しい。
「それって、福井にってこと?」
「うん。僕だってほのちゃんのことは大切に思っているし、将来のことも描いているよ。その時にはちゃんと話すよ」
 私は雅也の顔を見て甘えるように言った。
「その時じゃなきゃだめ?」
「そんなことはないよ。僕の気持ちはどれだけ時間が流れても変わらない。福井に戻ったら結婚しよう。だから、その時まで待っててほしい」
 私はゆっくりと雅也の胸に顔を埋め、「ありがとう」と呟いた。
 冷たい夜風に吹かれて、雅也のあたたかい胸に抱かれながら、夢の中にいるような気分でそっと目を閉じると、嬉しくて涙が一筋頬を伝った。
 
     ◆
 
 飛騨高山の朝は早い。私たちは少し早めの朝食を摂り、お世話になった旅館を後にして高山へと向かった。
 まだ八時を少し回ったところだというのに、多くの観光客が朝市へと繰り出し、朝採れの野菜や工芸品を並べた店が並んだ通りは、たくさんの人で溢れていた。
 駐車場に車を停め、多くの人で賑わっている宮川朝市に向かった。高山市内を流れる宮川沿いにたくさんの店が並び、その店先では主に女性が足を止めて品定めをしていた。
 私は、初めて見る朝市の光景に興奮しながら、お祭りの屋台を眺めるように、ゆっくりと歩いていた。雅也が私の手を引いて覗いた店は、たくさんのお漬物を並べた店で、少しずつ試食もさせてくれた。どれも美味しくて迷ったのだけれど、赤かぶら漬ときゅうりの漬物を買った。雅也はと言えば、ご主人に、地酒の買えるお店はないかと訊ねて、その場所を教えてもらっていた。
「この道を真っ直ぐ行くと国道に出るから、それを左に曲がって一本目を右に曲がると、高山のすべての酒蔵のお酒を扱ってる店があるよ。表に杉玉があるからすぐにわかるよ」
 雅也は「ありがとうございます」と言って頭を下げていた。
「お漬物美味しかったね」
 歩きながら私が言うと、
「どうして二つずつ買ったの? ほのちゃんのご両親って、お漬物好きなの?」
 と、雅也は不思議そうな顔をして訊いてきた。
「何言ってるの! お漬物は好きだけど、一つは雅也のお爺ちゃんたちの分よ!」
「えっ?」
 雅也は突然立ち止まり、ゆっくりと笑みを浮かべて、
「ほのちゃんて凄いね。いろんなところに気を遣って。僕は思いつきもしなかったよ」
 そう言ったかと思うと、「ありがとう」と言って私の頭を撫でた。
 
 お漬物屋のご主人から教えてもらった店はすぐに見つかった。茶色の杉玉が店先に下がっていて、店の中にはたくさんの地酒が並んでいた。聞くと、高山にある酒蔵のお酒は全て取り揃えてあるという。
 雅也が店主にお土産にオススメのお酒を訊ねると、
「それじゃコレがいいんじゃないですか」
 と言って、茶色い瓶のお酒を勧めてくれた。雅也は「それじゃ」と言って、一升瓶と四合瓶の二本を買って、「小さいのは、ほのちゃんのお父さんにね」と言って微笑んでいた。
 私が店主に、
「お酒に合う和菓子というと、どんなものがいいでしょうか?」
 と訊くと、店主は、
「おねぇちゃん、わかってるねぇ〜。日本酒には和菓子も合うんだよねぇ。表の国道を駅の方に行くと、右手に和風な造りの和菓子屋さんがあるから、そこでいろいろ訊いてみるといいよ」
 と教えてくれた。私は、
「ありがとうございます。また高山に来たときには寄せていただきます」
 と言って頭を下げると、店主は、
「ぜひお待ち申しております」
 と、両方の膝の上に手を置いて、深々と頭を下げていた。
 店を出ようとすると、雅也が思い出したように、
「あっ! 社長にも一本買って帰るよ」
 と、四合瓶をもう一本手に取った。
 
 宮川に架かる橋を渡ると、お目当ての和菓子店はすぐに見つかった。和風で木造りの、いかにも和菓子処といった風情の店構えだった。
 店内のショーケースの中には、美味しそうな和菓子がたくさん並べられていたが、中でも私の目を引いたのは、おまんじゅうの上に猫の顔があしらわれたお菓子だった。
「ねえ雅也、これ見て! かわいい」
 私がショーケースに顔を擦り付けるように見ていると、店員さんがお菓子の説明をしてくれた。
「ひとつひとつ手作りですから表情も微妙に違いますし、皮生地もあんもそれぞれ違うんです。美味しいですよ」
 私は迷うことなく、
「じゃ、これを二つもらえますか」
 とお願いした。雅也が「これ美味しそうだな」と言ってモンブランのような和菓子を眺めていると、
「こちらでお召し上がり頂けますよ」
 というので、二つお願いした。
 口に含むと、口いっぱいに栗の風味が広がり、中には粒あんと生クリームが入っていた。美味しい! その一言に尽きる!
 私は店員さんに「どれくらい日持ちしますか?」と訊ねると、「生ものなので明日までには召し上がってください」と教えてくれた。
 私は雅也の顔を見上げて、
「お爺ちゃんたちって甘いもの大丈夫?」
 と訊いた。
「二人とも甘いものは好きだけど、どうして?」
「じゃ、コレお母さんにお供えしてあげようよ」
 そう言うと、雅也は「ありがとう」と言って微笑んでいた。
 お会計をしていると、柱にぶら下げられている赤いキーホルダーが目に入った。
「これ、さるぼぼですよね?」
「そうです。この地方の工芸品で、お土産に皆さん買って帰られるみたいですね。ウチにもありますよ」
 と言って、店の隅の方を指差した。私はさるぼぼを手に取ると、思わず「かわいい」と口にした。すぐ横にはちょっと目つきの悪いさるぼぼもいて、思わず笑みがこぼれた。
「それは、わるぼぼって言うんですよ。最近になって出てきた商品です。ウチには置いていませんが、黒いのもあるんですよ! スーパーわるぼぼっていうんですけどね」
 と言って笑っていた。


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