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赤い糸はスパイシーな香り 第14話

第4章 『不安定な心』

「今日は早く帰って来れる?」
「そうだな。そんなに遅くはならないよ」
 雅也はそう言ってジャケットを羽織ると、私の肩に手を置いてから「行ってきます」と言って頬にキスをしていった。私は背中越しに、「スパゲッティサラダ作って待ってるね! 行ってらっしゃい!」と、とびきりの笑顔で見送った。
 結婚するまで知らなかったのだけれど、雅也はスパゲッティサラダが大好きで、たくさん作りすぎてもペロリと食べてくれる。しかも、スパゲッティサラダはパパの好物でもある。以前パパから「付き合ってた彼女が作ってくれたスパゲッティサラダが美味しくてな」なんて話を聞いたことがある。娘に過去の恋愛の話をするなんてと思ったことを思い出した。 
 洗濯機をまわし、部屋の掃除をしながらパパの話を思い返してみた。スパゲッティサラダが好物だと言っていたのに、ママがそれを作ったのを見たことがない。それってどういうことなんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、私は掃除機を止めてソファに身を沈めた。
 
 ほんの少し休んだつもりだったのに、一時間もうたた寝をしてしまった。日曜の代休で平日に休みをもらっても、一人じゃ無駄に時間だけが過ぎていくような気がする。
 リビングの本棚にしまってあるアルバムを手に取った。大判で、重くて、収納に困るやっかいものだけれど、一度開いてしまうと一気にその当時にタイムスリップして、時の経つのを忘れさせてしまう。結婚式の時の写真だ。つい二年前のことなのに、私も雅也もずいぶんと幼く見える。
 あの頃は未熟ながらも何かしらの夢を描いていたはずなのに、日々の忙しさに身を任せすぎるあまり、それらの一つさえも思い出せない。きっと『笑顔の絶えない明るい家庭』とか、そういった類いの漠然とした夢だったのだろう。具体的でないだけに、時の流れとともに薄れてしまったのかもしれないと思う。
 アルバムの最後のページには、小さなブーケを手に持ち、雅也の腕に抱かれながら、とびきりの笑顔で微笑む私たちの写真が、キャビネサイズに引き伸ばされて貼ってあった。
 私は、今の自分がこんなふうに笑えているのか自信がなくなり、思い出にフタをするようにアルバムを閉じた。
 
 平日だというのに、ショッピングセンターは大勢の買い物客で賑わっていた。食料品以外に特に必要な物はないのだけれど、気分転換も兼ねてあちこちのショップを見てまわる。
 ブティックのトルソーにディスプレイされた洋服や、その足許に飾られた靴を眺めながら、「最近新しい服なんて買ってないなぁ」とひとりごちた。視界に飛び込んでくるものは、そのどれもが私の目には新鮮に映り、時代の流れに取り残されている気さえした。
 両足で彷徨を繰り返すばかりの私は、時間を無駄に費やしている気がして、夕飯の献立へと頭を切り替えた。それでも目から入ってくる情報の方が優先されてしまい、スパゲッティサラダ以外のレシピが思い浮かぶことはなかった。
 ふと私の目に飛び込んできたのは、雑貨店の店先に並んだ小さな写真立てだった。アルバムの中で眠っていた私たちの笑顔。あの笑顔はあの場所にいてはいけない気がして、店の中に足を踏み入れた。私は両手の指で四角形をつくり、
「すみません、これくらいの写真を入れるフレームってありますか?」
 と、頭にバンダナを巻いたカントリーテイストのラフなスタイルのお姉さんに声をかけた。
「キャビネサイズかぁ……。ウチは木製のフレームがほとんどだからなぁ。この手のものだったら、見た目は小さくなっちゃうけど、写真はそのまま入ると思うよ」
 と言って、裏蓋を開けて見せてくれた。
 周囲に装飾が施されているものや、ステンシルでペイントされているもの、色も濃い茶色のものもあれば、木目を生かしたナチュラルなものなど、どれも素敵で、数もたくさんあって目移りしてしまった。私は、散々迷った挙げ句、木の香りが残る無垢のフレームを家に連れ帰った。
 夕飯の支度を終えて、トートバッグの中のフォトフレームを手に取った。朝しまったばかりのアルバムからあの写真を抜き取り、フレームに収めた。サイズも見栄えもピッタリだった。私はそこにいる自分に向かって「かわいいじゃない」と言ったあとで、(こんな笑顔をたくさん雅也に見せてあげたい。そんな家庭でありたいな)と、ひとり思っていた……。
 
     ◆
 
 いつまで待っても帰ってこない雅也にイライラしながら、テーブルに頬杖をついて出来上がった料理を眺めていた。テレビからはバラエティ番組特有の笑い声が漏れ聞こえ、CMになれば小さな音楽にナレーションが重なって私の耳に届いてはいるが、頭の片隅にでも残ることはない。時折指でつまみ食いをしては気を紛らわせていた。
 夜九時になっても帰ってこない雅也のことが心配になって、携帯を手に取った。呼び出し音が一回……二回……。
「もしもし……」
 あれ? 雅也の声じゃない。慌てていて間違えたかな? と思い、
「すみません、間違えました」
 そう言って切ろうとすると、
「あ、ちょっと待って下さい! ひょっとして奥さまですか?」
 何を言われているのかわからないままそうですと答えると、
「良かった、やっと連絡がついて。泉川さんの奥さまですよね? 私は警察の者です」
 私の頭は混乱し始めた。警察って何? 雅也が何かしたの? 携帯を耳に当てたまま身動きができなくなっていた。
「ご主人、事故に遭われまして、病院で現在治療を受けておりますが、大変危険な状態です。今すぐ来ていただくことは可能ですか?」
 私は「はい」と言って電話を切ったのだが、頭が真っ白になってどうしていいのかもわからずに、ただ呆然となっていた。
 ふと我に返って、すぐに雅也のお父さんに連絡をした。それからパパに電話を入れて、迎えに来てくれるようにお願いした。
 パパが迎えに来るまでの間、私はずっと、神様と雅也のお母さんに祈っていた。
(お願い…… 雅也をたすけて……)
 
 病院へ向かう車のラジオからは、カーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』が流れていたが、とてもそんな明るい気持ちにはなれず、パパが話し掛ける言葉すらも耳に届いてこなかった。
 私は助手席でただ俯き、じっと祈るように両手を組んで握っていた……。
 
 病院に着くと、すぐさま制服姿の警察の人が駆け寄ってきて、
「泉川雅也さんのご家族の方ですか?」
 と話し掛けてきた。そうですと答えると、誰もいない広いロビーの一角に案内され、事故の詳細について話し始めた。
「目撃者の話によりますと、ご主人は歩道を歩いていて、交差点で起きた事故の反動で、弾き飛ばされた車に撥ねられたようです。全身を強く打っていて、搬送された時には意識がなかったそうです」
 そんな説明をされる間も、私はどこを見るでもなく、ただ祈ることしかできなかった。雅也のお父さんは私の肩にそっと手を置いて「大丈夫だよ」と言ってくれた。
 救急外来の、長椅子が整然と並べられただけの、薄暗い空間に座って、音のない世界の中に自分の呼吸音だけが聞こえる、そんな時間をやり過ごしていた。
 程なくすると、警察の人が雅也のバッグや財布、携帯電話が入った透明の袋を持ってきた。それともう一つ、セロハンと薄い紫色の紙に包まれ黄色のリボンで飾られた、少し汚れてしまったブーケも……。
 私はその形の崩れたブーケを見た途端に、それまでの緊張状態から解き放たれ、止めどなく溢れ出る涙をどうすることもできなくなっていた。
 
 遠くで聞こえるキュッキュッという足音が、段々と近づいてくる。そして私の視界に白衣を纏った男性が入ってくる。私の前で歩みを止めると、私のことを見下ろすように言う。
「泉川さんのご家族の方ですか?」
 私はその場に立ち上がり、
「雅也の妻です。あと雅也の父と、私の父です」
 取り乱さないようにしっかりとした口調で言うと、ドクターはゆったりとした口調で、こちらへどうぞと私たちを救急外来の隣の小部屋に案内した。そこは六畳ほどの、テーブルと椅子だけが置かれている空間で、決して居心地の良い場所ではなかった。
「ご主人は現在ICUで治療をしています。頭を打っているようでしたが、検査の結果、脳には異常はないと思われます。骨折は十数ヶ所に及びますが……」
 そう言ったところでドクターは一呼吸おいて、ゴクリと喉を鳴らして、じっと私の方を見つめて続けた。
「ただ、背中側から撥ねられた事で脊髄を損傷しています。命に別条はありませんが、両足に麻痺が残ると思います」
「どういうことですか?」
 もっとわかりやすく言えと言わんばかりに詰め寄ると、
「つまり、ご主人はご自身で立つことも歩くこともできないということです」
 ドクターは俯きがちに冷たく言った。
 麻痺が残ると言われた時点で覚悟はできていたつもりだったが、改めてその事実を突きつけられると愕然となってしまった。
 私は足が動かないという事実よりも、それを雅也に伝えることの方が苦しくて、言葉を失くしてしまった。
「今言えることはそれだけです。今後のことや詳しい説明は、意識が回復してからすることにしましょう」
 形式的な言葉だけを残してドクターは部屋を出て行った。
 私は冷たいテーブルを前にただ項垂れるだけで、今後のことを考える余裕すらなく、呆然とするほかなかった。雅也のお父さんは頭を抱え、パパは私の肩を抱き寄せてくれた。
「今日は雅也がプロポーズしてくれた日なの。だから雅也の好きなもの作って待っていたのに……」
 そこから先は涙が溢れて言葉にならなかった。テーブルの上に置かれた、クシャクシャになったブーケが、余計にその場の空気を重くしている気がした……。
 
 翌朝、雅也の意識が回復したと看護師の女性が私を呼びに来た。私はICU用の薄い黄色のガウンを着て、雅也の待つベッドへと案内された。頭に幾重にも包帯が巻かれた雅也が横たわっていた。
「ほのちゃん、ごめんね。こんな姿になっちゃったよ」
 私はその言葉にはもちろん、雅也が生きてこうして話しかけてくれることに安堵して、その場に泣き崩れてしまった。
「ほのちゃん、泣かないで。僕はちゃんと生きてるよ。今はあちこち痛くて、どうなってるのかわからないけど、ちゃんと生きてる。だから泣かないで」
 こんな姿になっても、私のことを気にかけてくれる雅也に、これから残酷な告知をしなければならないのかと思うと、私には雅也にかけてあげる言葉を見つけることはできなかった。


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