見出し画像

赤い糸はスパイシーな香り 第8話

 夏休みが終わり、いつもの電車に揺られながら美咲と学校へ行く日常が始まった。いつもと違うのは、進路のことが話題の中心になったことくらい。
「ほのかは進路決めた?」
 美咲はポニーテールに結った髪を触りながら訊いてきた。もちろん就職はするけれど、まだ何にも決めてはいない。
「ほら、うちのクラスのヨッシーだけど、初めて三年生を受け持つらしいのよ。だから就職とかの要領もわからないんじゃないかな。まだ何にもそんな話しないよ」
「マジなの? うちの担任は五月頃から言ってたわよ」
 私は、真剣に就職の話をしてくる美咲に、なぜかおかしさが込み上げてきた。リリィと今の美咲とのギャップが大きすぎて、笑いをこらえるのに必死だったのだ。
「それで、どんな職種にするか決めたの?」
 美咲はそう言う私に、少しだけ深く座り直し、
「別に私は、一生フリーターでもいいかなって思ってるんだ」
 と、遠くを見つめるような素振りで言った。それから膝の上に置いた鞄に目を落とし、ポツリポツリと自分を見つめなおすような口振りで話し出す。
「私はさ、普段から真面目なタイプじゃないし、成績だっていい方じゃないから、採用する方も要らないんじゃない? いくつも受けて、落とされてばっかりじゃへこむじゃない。だからフリーターとかの方が気が楽かなぁって」
 私は、美咲の考え方も一理あると思いながらも、将来を考えた時にはフリーターではダメだなと思った。美咲には「就職先が決まらなかった時には奥の手を用意してある」と伝えて、今は美咲のやりたいことを探すように促した。なぜかその時は、私が奥の手を使うことはないという根拠のない自信があったのだ。
 
 放課後、私は職員室に呼ばれた。ヨッシーはノートパソコンのモニターを眺めながら、進路のことを聞いてきた。
「安田さんは就職先の希望は出したの?」
「いいえ、まだです」
「まだって、気になっているところとかはあるの?」
「まだ何も……」
 私がそう言ったところでヨッシーは、学校側の事情を淡々と話し出した。
「学校はね、就職内定率を追いかける傾向にあるわ。これは進学も同じね。だから学校としては、内定がもらえそうな生徒を推薦していくわけ。人気の企業はどんどん埋まって行っちゃうわよ。少しでも興味のあるところがあれば、進路指導の先生に相談してみなさい」
 私はヨッシーの話を聞いていて、結局学校のメンツのために生徒を選別しているのではないかと思った。行きたくもない会社に勤めて、『自分には合わない』という理由で早期に退職していく。そうやってフリーターは作られていくのかと思うと、実はフリーターは学校によって生み出されているのではないのかという気にさえなった。
 進路指導室の前に貼り出されている求人一覧を眺めていると、その中にパパが勤める会社名を見つけた。営業二名、経理一名と書かれている。もちろんパパの会社は選択肢にはないけれど、たくさんの企業の中から、自分の人生を決めるかも知れない選択を迫られているのかと思うと、余計に決められなくなる。
「そこの会社、営業職に女子の採用はないのかなぁ」
 私がそう言う声に釣られるように振り返ると、美咲が作り笑いを浮かべながらそこに立っていた。
「あら美咲だったの? 誰かいるなあって思ってたんだけど」
「私さぁ、バイクとか車とか好きだし、ガソリンスタンドとかだったら楽しく仕事できそうな気がするんだよね」
 私は、就職のことを考えるようになってから生き生きとしている美咲のことを羨ましく感じていた。
「もし本気なら訊いてあげるよ」
「え?」
 美咲はキョトンとした顔で私の顔を覗き込んだ。
「パパがね、その会社の石油部にいるんだ」
 
     ◆
 
 街路樹が少しずつ紅く色付く頃、私は第二希望だったハウスメーカーから内定の通知を貰った。主に事務職だけれど、場合によっては接客とかもあると、会社情報には書いてあった。おまけに休日出勤もある。『休日出勤』という文字に嫌な予感しかしなかったが、ひとまず内定を貰えて一安心といったところだ。
 美咲はというと、パパの口利きによって、採用試験当日に出席さえすれば、採用される手筈になっている。私がこの話をした時、美咲はもっと驚いたり、少しくらいは遠慮したりするのかと思っていたけれど、「じゃ、おねがい!」なんて言われて拍子抜けしたことを覚えている。
 私は、就職について気にかけてくれていた咲良さんに、内定をもらったことを報告しておこうと思ってスマホを手に取った。
「おつかれさまです。ほのかです。今日は咲良さんに報告があって……」
「あら、久しぶりね。元気だった? どうしたの?」
 咲良さんは、その声のトーンからも、私と仕事の話をしていたことも忘れているようだった。
「私、ハウスメーカーに内定もらいました。一応報告だけしておこうと思って」
「そうなの? おめでとう。でもちょっと残念。ほのかちゃんと毎日女子トークしながらの仕事だったら楽しかったのになぁ」
 あははと笑いながら咲良さんは言った。私は咲良さんに、
「またいろいろ相談とかしてもいいですか?」
 と言うと、
「そうね、いつでも大丈夫よ。どうせ暇なんだし。それから、いつかほのかちゃんの彼も紹介してね」
 と、同級生のようなノリで言った。
 電話を切ったあとで、私はどこか寂しいというか、大切なものを失くしてしまったような気になって、モヤモヤした気分になった。
 
 夜、スマホを手に取り、雅也に電話をする。学校では会えるけれど、最近は終業するとそそくさと一人で帰ってしまう。何か隠しているような感じがして気持ちが悪い。電話は三回呼び出したところで突然切れた。え? と思ったのだが、大事な用事でもあるのかと思って、そのままスマホをベッドに放り投げてお風呂の支度をしていると、スマホがブルッと震えた気がした。
『ごめん、あとで連絡するよ』
 たった一行のメッセージだった。私は再びスマホをベッドに放り投げて浴室へと向かった。
 
 頭にバスタオルを巻いてリビングに行くと、ちょうどパパが仕事から帰ったところだった。
「おかえりなさい。最近帰り遅いね」
 私が濡れた髪を拭きながら言うと、
「ただいま。いろいろとやることがあってな」
 パパはいつになく疲れた表情で答えた。時折ため息をついたり、椅子にもたれたまま背伸びをしたり、その様子からもパパの疲れようは手に取るようにわかった。
「お仕事が大変なのは仕方ないけど、体壊さないようにね」
「ほのか、ありがとうな」
 私は、元気のないパパの姿を見ているのが苦しくてそう言ったのだけれど、食事の支度をしているとはいえ、何も話そうとしないママには違和感しかなかった。
 
 ベッドに転がってスマホを手に取ると、すぐさまスクリーンに『雅也』の文字か浮かび上がり、雅也からの着信を知らせていた。
「はーい、おつかれ」
 私がすぐに受けたからか、雅也は少し驚いた様子で、それでも絞りだすような声で呟いた。
「さっきはごめん。ていうか、最近ずっとだよな」
「本当だよ。あんまり放置すると他の人のところにいっちゃうぞ!」
 私は、そんな気持ちなんてさらさらないのに、雅也の気持ちをうかがうように突き放した言い方をした。
「ちょっと、勘弁してよ。明日は時間作るからさ」
「冗談だよ。それより就職活動はどうなの?」
「その話も明日ちゃんとするよ」
 雅也は確かに言った。明日は時間作るって。就職活動の話もちゃんとするって。
 でも……。
 翌日、雅也は学校に来なかった……。
 
 朝から隣の席の雅也がいないことなんて、これまでにもそんなにはなかった。朝はよほどのことがない限り私よりも先に登校していて、私が席に着くと「おはよう」と言って私の髪に指を絡めてくる。それが当たり前の日常だった。でも今日は、机も椅子も、いつもと同じ場所に身動き一つせずに佇んでいる。
 私には、約束を反故にされた不信感もあったが、それよりも雅也の身に何かが起きたのではないのかという不安が頭の中を駆け巡り、心臓が落ち着きをなくしていくのを全身で感じていた。
 既に就職の内定を貰っている生徒にとっては、毎日の授業なんてプロ野球でいう消化試合のようなもので、椅子に座っているだけで単位がもらえる退屈な時間でしかない。私もその一人。
 一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 先生が退室すると、私はすぐに雅也にメッセージを打った。
『ねえ、雅也どうしたの? 何かあったの?』
 返信はなかった……。次の休み時間にも。
 私の頭の中は『不安』という実体のないものに支配され、もはや平静を装っていることができなくなっていた。心臓は暴れ出し、手からは嫌な汗まで出始めている。
 私は教室を出て、隣の教室に美咲の姿を探した。
「美咲!」
 教室中に響くような声で叫んでいた。美咲は私の姿を見つけると、一目散に私の元に駆け寄ってきて、
「どうしたんだよ、ほのか。なんか顔色悪いぞ」
 と、私の両腕を摑みながら言った。
「雅也が……。雅也が来ないんだよ。昨日電話で、今日ちゃんと話そうって言ってたのに。メッセージも既読にならないの」
 私は胸を締め付けていたものを、美咲にただぶつけるしかなかった。美咲は私の頭を撫でながら、大丈夫だよと言って、優しく肩を抱いてくれていた。
「とりあえずお昼休みまで待ってみようよ。連絡あるかもしれないじゃん。保健室で寝ててもいいんだぞ」
 美咲はそんなふうに言って、私に深呼吸するようにと背中をさすってくれた。
 
 三限目が終わる少し前、教室の戸をノックする音が聞こえたかと思うと、体操服姿の女子生徒が顔を出し、
「すみません。安田さんっていますか?」
 と言って、教室の中を見回していた。私は立ち上がって彼女の方に視線を向けた。
「小林先生が、今すぐ体育教官室に来てほしいと言ってました」
 彼女の声を聞いた私は、すぐに教室を飛び出し、ヨッシーのところに向かって走り出していた。
 体育館の隅にある体育教官室の前に立ち、二度ノックをして鉄製の扉を開ける。ヨッシーと目が合うと、ゆっくりと席を立ち、神妙な面持ちで私を応接室のような部屋へと促した。椅子に座るなりヨッシーは、
「安田さん、泉川くんのこと聞いてる?」
 と訊いてきた。私は首を横に振って、朝から連絡が取れていないことを伝えた。それから私は、胸を押さえながら、
「雅也はどうしたんですか? 大丈夫なんですか?」
 と先生に問い詰めた。ヨッシーは少し間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
「泉川くんのお母さん、今朝お亡くなりになったそうよ」
 私は愕然とするのと同時に、自然と涙が溢れてきて、言葉を発することができなくなった。
 雅也の家に行った時に一度だけ会ったことがあるけれど、とても綺麗で優しそうなお母さんだった。あれから半年しか経っていないのに、こんなことって……。
 ヨッシーは私に、「今日はもういいから彼のそばにいてあげなさい」と言ってくれた。こういう気配りは、女性ならではのものなのだろうかと思いながらも、ヨッシーが担任でよかったと思った。
 私は教室に戻って帰り支度を整えると、廊下からこちらをうかがう視線を感じた。美咲だった。
「ほのか、どうしたの? そんなに慌てて」
 私は美咲の手を取って、廊下の端まで早足で連れて行く。
「ちょっと、痛いって! どうしたんだってば」
 そう言う美咲を前に、私は一つ深呼吸をしてから、
「雅也のお母さんが亡くなったって……」
 私は絞り出すような声で言った。美咲は何も言えずに、震える私の体をぎゅっと抱きしめてくれた。そして先生が言ってくれたように、
「ちゃんと彼に付いててあげなよ」
 と言ってくれた。私は美咲に「ありがとう」とだけ伝えて、急いで学校を後にした。
 
 駅のホームから見える公園の木々は、もうすっかり秋色に姿を変えて、時折吹く冷たい風にざわざわと音を立てている。私の心を見透かすように、大きくなったり小さくなったり……。私は電車を待つ間にパパに電話を掛けた。
「もしもし。パパ、今日は少し帰りが遅くなるかもしれないから」
「そうか。何かあるのか?」
「……」
「ほのか? どうしたんだ。ほのか?」
 大好きなパパの声を聞いているうちに、あの日雅也のお母さんに言われた「お父さんのことは好き?」という言葉を思い出して、目の前の景色が少しずつ揺れて、ぼやけていくのを感じていた。瞳から一筋の涙が頬を伝って、涙声になりそうなのを必死でこらえながら、一つ大きく息を吐いてからスマホの向こうのパパに話し掛けた。
「パパ……。雅也のお母さん、死んじゃったって……」


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?