見出し画像

赤い糸はスパイシーな香り 第12話

「こんにちは」
 お店の戸を開けて、雅也のお父さんに言った。
「おかえり、ほのかちゃん」
 お父さんはニッコリと微笑みながら答えてくれる。雅也がたくさんの荷物を抱えて入ってくると、
「おう、ご苦労さん! ハンコいるんだろ?」
 と、戯けてみせた。私はそんなお父さんと雅也の姿を見ていて、泉川家の人たちはみんないい人ばかりだと思った。ここにお母さんがいたらと思うと、目の奥に熱いものを感じて、瞼を閉じた瞬間、目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
 私は中指の先で涙をすくったあとで、「お母さんにお線香を」と言って、高山で買ってきたお菓子を手にとった。お父さんは少し伏し目がちに、「ほのかちゃん、ありがとう。君は本当に優しい娘だね。俺はいつでも歓迎するからね」と言ったあとで、頭を掻きながら、「ちょっと気が早かったか。調子に乗りすぎた」と笑った。
 
 雅也に連れられて、お店の奥の座敷に入ると、お爺ちゃんとお婆ちゃんがあれこれと話しながら寛いでいた。
「こんにちは」
 と声を発すると、お婆ちゃんは私の方を振り向いて、今度は座布団ごと体を回転させてから、
「おや、たしか……ほのかさんだったわね。彩加あやかの時には世話になって」
 と、小さな体をさらに折り曲げて、「あの時はありがとうね」と言った。
 そんなお婆ちゃんの姿を見ていて、二人の子どもを自分たちよりも先に亡くしてしまった心の中を思うと、胸が苦しくなった。自分の中でどんなふうに折り合いをつけて毎日を過ごしてきて、これからの毎日を過ごして行くのだろうかと、そんな思いが私の中を駆け巡る。
 雅也に促されてお仏壇の前に座ると、写真の中で薄っすらと笑みを浮かべたお母さんと目が合った。お線香に火を点けると、ゆらゆらと煙が立ちのぼるのと同じに、甘い白檀びゃくだんの香りが部屋の中に拡がっていく。もう一度写真に目を向けて、手を合わせてゆっくりと瞼を閉じると、「お父さんのことは好き?」という、少し高い声が私の中でこだました。
 あの時、お母さんがなぜあんなふうに言ったのか、私には一向に謎だけれど、そんな思いとは裏腹に、私の心の声は「雅也くんと幸せになります」と叫んでいた。
 
     ◆
 
「ねえ美咲、今日って仕事何時まで?」
 私はお昼休みに美咲の電話を鳴らした。美咲の声を聞くのも久しぶりだし、電話とかじゃなくて、会って話がしたかったからだ。
 美咲はパパの会社に入って三年目。今は本社のガソリンスタンドにいるらしい。
「今日は七時までだけど、どうした?」
「久しぶりに会わない? 話したいことも、相談したいこともあるしね」
「いいけど。じゃごはん行くか! 居酒屋でも、パァーッと!」
 私はいかにも美咲らしいなと思いつつ、わかったと答えて電話を終えた。
 
 美咲に連れてこられた居酒屋は、チェーン店のような大きな所ではなく、カウンターとテーブル席が三席あるだけの小ぢんまりとしたお店だった。
「よく来るの?」
 私がお店の中を見回しながら訊くと、
「時々ね。ここのお店は、部長……あっ、ほのかのお父さんね! 連れてきてもらったんだよ。入社してすぐに。それからはちょくちょくかなぁ」
 美咲は着ていたデニムのジャケットを脱ぎながら言った。私は(パパはこういうお店で飲んでるんだ)と、ぼんやりとカウンターで一人で飲むパパの姿を想像していた。
 運ばれてきたビールのジョッキをカチッと合わせて、一口喉に流し込むと、シュワシュワした感覚が、私の脳から『疲れた』という単語を消していく。
 美咲は、ポーチからタバコの箱と百円ライターを取り出し、「吸っていい?」と訊いてきた。いいよと言うと、慣れた手つきで人差し指と中指に挟み、その先にライターで火を点けた。
「で、話って?」
「うん……。雅也に結婚しようって言われた」
 美咲は、一口吸っただけのタバコを、ゴホゴホとむせながら慌てて灰皿で揉み消して、
「マジ? 良かったね、おめでとう。びっくりしてタバコ消しちゃったよ」
 と笑った。私は「ありがとう」と言ったあとで、雅也の仕事が一段落したらだけどねと付け加えた。
「ほのかってさぁ、話の順番おかしくね? あの頃とおんなじだな。普通さ『仕事が一段落したら結婚しようって言われた』だろ?」
 二人で声を出して笑った。
 テーブルの上に並んだ料理を口に運びながら、美咲のこともいろいろ訊いてみる。パパは美咲の話なんて一切しないし、私がお願いしたこともあって、以前からずっと気になっていたのだ。
「仕事の方はどうなの?」
「そうね。楽しくやってるよ。今はサブマネージャーなんだ」
「そうなの? 凄いじゃない!」
「部長も本社のスタンド出身ってこと、ほのかは知ってるの?」
 私がパパの仕事を理解した頃にはすでに副部長だったし、仕事の話もしたことがなかったから初耳だった。
「えっ! そうなの? 知らなかった……」
「部長がね、『この店はエリートコースだからがんばれよ』って。やっぱりね、女だけど店長やってみたいと思うから、今は仕事にちゃんと向き合ってる」
 そんなふうに言う美咲のことを格好いいと思うと同時に、美咲の言葉は、自分の仕事への取り組み方を反省する機会となった。
 ヤンキーだった美咲が、今は店長を目指している。人生はいつからだってやり直しができるし、人は変われるんだと思った。
「ねえ美咲……」
「ん?」
「プロポーズされたこと、パパには言わないでね」
「わかってるって!」
 私たちは、笑顔でもう一度ジョッキを鳴らした。
 
     ◆
 
 雅也からプロポーズされたことを、美咲に話してからどれくらい経っただろうか。私はパパとママに話そう話そうと思いながらずっと切り出せずにいた。
「ただいま〜」
 いつもより少しだけ遅く帰宅すると、玄関には二つの靴が脱ぎ捨てられていて、パパもママもすでに帰っている様子だった。私は靴を脱いで、上がり框に膝をつき、無造作に佇む〝靴たち〟を揃えた。
 リビングに入ると、パパはお風呂上がりなのか、首からバスタオルをぶら下げてビールを飲んでいて、ママは夕飯の支度をしていた。「おかえりなさい」ママが振り向いて言うと、「ごはんまだでしょ? すぐ用意するから、着替えてらっしゃい」と続けた。
 自室に入って、すぐにベッドに仰向けに沈み天井を見上げると、一日の疲れが私の体に伸し掛かる。大きなため息をひとつついてから体を起し、ベッドの端に座って、着ていた服を一枚ずつ脱いでいく。下着姿になって、もう一度ベッドに、今度はうつ伏せに倒れ込む。素肌に触れる布団の冷たさが心地良く感じた。
 部屋着に着替えてリビングに下りると、既に食事の支度が整えられていて、ママは食卓に座って遠くのテレビを眺めていた。
「ごはん食べるでしょ?」
 と言って、立ち上がろうとするママを制して、私は、
「パパもママも、ちょっと聞いてほしいんだけど……」
 と言い、パパにも食卓に座るように促した。
「どうしたんだ? 怖い顔して」
 パパは私の顔を覗き込むように言った。私はひとつ大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐き、顔を上げた。
「この間のお休みの時に、雅也と温泉行ったでしょ? あの時に……プロポーズされた……」
 言ったあとで、どこか申し訳ない気持ちになった。ママはじっと私のことを見つめていて、パパは俯きがちに「そうか……」と言った。
「すぐにってわけじゃないの。雅也のところの社長さんが、福井にサテライトオフィスを立ち上げるらしくて、こっちに戻ったらって話なんだけど……」
 しばらく間があってから、ママが言う。
「ほのかはどう思ってるの?」
「そりゃ嬉しかったし、雅也と結婚したいって思ってる。ただ、私たちまだ二十歳だし、パパやママのことを思うと……」
 そう言いかけた時にパパが、少し気持ちを高ぶらせながら言った。
「そんなことはいいんだ。パパもママも、ほのかが幸せになるためだったらどんなことだってするし、応援もするんだから」
 その一言で私の涙腺は崩壊してしまった。ママが体を寄せて、涙混じりの声で、
「ほのか、おめでとう」
 と言うと、私の中から溢れる涙は、ポロポロとただこぼれ落ちるだけで、私にはどうすることもできなくなっていた。
「本当はね……、こっちに戻ってから話すって雅也は言ったの。でも、ずっと遠距離だったし、淋しくて……。その時じゃなきゃだめ? ってわがまま言ったら、気持ちは変わらないから結婚しようって……」
「そう……」
 ママは私の背中に、優しくそっと手を置いてくれた。
「ママ……。私のこと産んでくれてありがとう……。私、パパとママの子供に生まれて良かったって思ってるよ」
 少し上を向いて、洟を啜りながら、それでも笑いながら涙目になってママは言った。
「何言ってるの、この娘ったら」


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?