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赤い糸はスパイシーな香り 第5話

 水曜日は弓道部の練習は自由参加らしい。活動拠点の市営弓道場が、ローテーションの谷間で使えないのだそうだ。
「今日は部活出るの?」
 私には出ないという確信があったから、少しニヤニヤしながら訊いた。
 雅也はどちらかというとヤンチャな感じだけれど、私には最近の雅也がヤンチャを着飾っているように思える。シャイな感じと言った方がしっくりくるかな。もう少しグイグイきてくれるといいんだけど……。
「どうして? どこか行きたいところとかあるの?」
「そうじゃないけど、どうするのかなぁと思って」
「じゃ、今日は休養日ってことにするかな」
 ものすごく嬉しそうな顔で言うと、私の方を見て肩をすくめた。夏の大会に向けて練習が必要な時期なのに、こんなに余裕を見せていていいのだろうかと思ったのだけれど、思いとは裏腹に口から出たのは私の欲望でしかなかった。
「じゃあさ、雅也の部屋に招待してくれる?」
「えっ! 今から?」
「そう! エッチな本とかあるから無理とか?」
 雅也はフッと言って笑いながら、
「そんなことはないけど、いつもはお爺ちゃんのお店の方に行って、父さんと一緒に帰るんだよね」
 と説明してくれた。
「それで、どうなの?」
「別に構わないけど。断る理由もないし」
「それじゃ決まりね!」
 雅也はズボンのポケットから携帯を取り出し、お父さんに直接帰ると連絡している。私と同じでスマートフォンを持っていて、しかも上手に使いこなしていた。
 私は、雅也に「少し待っててほしい」と伝えて、駐輪場へと向かった。カギの掛かっていないオレンジ色の自転車を見つけると、うっすらと埃をかぶったサドルを手で払い、雅也の待つ場所へと戻った。
「さあ、乗って!」
「乗ってって、誰の?」
「誰のって、私のに決まってるじゃない! こういう時のために学校に置いてあるのよ」
 私は雅也を自転車の後ろに乗せて、最初はフラフラしながらも、なんとか走りだした。途中、何度も雅也から「代わろうか」と言われたけれど、大丈夫だと言ってひたすら漕ぎ続けた。雅也に負担を掛けて、弓道に影響が出るのが嫌だったのだ。それともうひとつ。ただ楽しかった。二人乗りをしたことも、自転車を拝借したことも。
 
 雅也の家は、大きな通りから何本か通りを横切った住宅街にあった。白い壁の二階建てで二台分のカーポートまであった。
「あれ? 母さん帰ってるよ」
 カーポートに一台の車が停まっているのを見て雅也が言った。
「ちょうどよかったじゃない。雅也もヘンなことできないし」
「そんなことしないよ」
「え? しないの?」
「それじゃ、する?」
「するわけないでしょ!」
 二人で笑いながら玄関を入ると、こちらを窺うように雅也のお母さんが顔を出した。
「あら、雅也どうしたの? え? お友だち?」
 普段より早い帰宅に加えて、私の登場に本当に驚いている様子だった。でもそれは私も同じだった。とても綺麗なお母さんで、雅也の端正な顔立ちはお母さん譲りなのだと思った。
「はじめまして。雅也くんと同じクラスの安田ほのかです」
「そう、ほのかちゃんって言うの。かわいい名前ね」
「ありがとうございます。父が付けてくれたんです」
 初対面で緊張も少しあったけれど、私は笑みを作って言った。
「すみません、突然お邪魔してしまって。ご迷惑じゃなかったですか?」
「そんなことないわよ。それより雅也、お父さんには連絡したんでしょ?」
 そう言うお母さんの声は、少し高くて綺麗な顔によく合っていると思った。雅也は「したよ」と言って、私を二階の部屋へと促した。
 私がお母さんに「お邪魔しまーす」と言うと、「雅也の部屋くさいわよ」と、ペロッと舌を出して、お母さんは微笑みながら言った。
 
 雅也の部屋は思っていた以上に整理されていた。部屋の隅には以前に弓具店で見た矢が何本も束ねられて置いてあった。
「部屋、綺麗にしてるんだね。私の部屋より綺麗かも」
「使ったら片付ける、それだけやってれば散らかったりしないさ」
「雅也の言うとおりなんだけど、それが難しいんだよね」
 私が雅也の部屋に来たのは、学校で見るだけでは本当の姿はわからないし、人として自立できているか見定めるためだ。見掛け倒しなんて御免だから。予想に反して綺麗に片付いている部屋に拍子抜けした私は、雅也に掛ける言葉を探していた。
「実はさ、携帯買ってもらったんだ」
 私はポケットからその電話を取り出した。
「おっ! スマホじゃん! 番号教えてよ」
 雅也と肩を並べて座り、電話番号を交換し、メッセージアプリでも友だちになった。雅也から『てすと』とメッセージが来て、私が『きらい』と返すと、大きな口を開けて笑っているスタンプが表示された。
「嫌いってなんだよ。一瞬ボクのことかと思ったじゃないか」
 私はおどけて、
「そうだよ、そうに決まってるじゃない。試験のことだと思ったの?」
 と言うと、「僕のことは嫌いにならないでほしいな」と言って私は肩を引き寄せられ、抱きしめられてしまった。あまりに突然のことで心の準備もできていなかった私は、その後に起こる出来事に抵抗することすらできずに、あっという間に唇を奪われてしまった。目を閉じることすら許されぬままに……。
「そこは弓道のようにスローな方がよかったんじゃない?」
「ごめん……」
 そう言う雅也の膝に手をついて、私はゆっくりと雅也の顔に唇を寄せた……。
 
 小一時間も話していると、帰るのが億劫になる。それでも帰らないわけにはいかないし、私は重い腰を上げた。
「そろそろ帰るよ。雅也の言っていたとおり、お母さんの髪もサラサラだったね」
「最近は触ったことないけど、やっぱりほのちゃんの方がサラサラだよ」
 そんなことを話しながらリビングに下りると、お母さんが椅子に座って、手を組んだ状態で何か考え事をしているようだった。
「母さん、どうしたの? ボーッとして」
「あら、もう帰るの?」
 私にはお母さんが作り笑いで私に接しているのが見て取れた。来た時に見たお母さんとは別人のようだと思った。
「すみません、お邪魔しました」
 できるだけ明るい声色で言うと、お母さんは突然に、
「ほのかちゃん、お父さんのことは好き?」
 と言葉を投げかけてきた。そんなふうに訊かれて私は「はい好きです」と答えたのだけれど、返ってきた言葉は「そう」という素っ気ないもので、私にはお母さんの真意を汲み取ることはできなかった。
「お母さんは若くて綺麗で羨ましいです」
「あら、そんなこと。ほのかちゃんのお父さんとそんなに変わんないわよ」
「そうなんですか? 父は四十三歳ですけど、お母さんはそんなふうに見えないですよ」
 ママではなく、パパのことばっかり話すのはどうしてなんだろうと思ったのだけれど、この時はまだ気にも留めていなかった。この時はまだ……。


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