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赤い糸はスパイシーな香り 第15話

 病院に搬送されてから二週間、雅也はICUで過ごした。その間にも私にはやらなければいけないことがたくさんあり、これまでのように悲しんでばかりいることはなくなった。
 私の職場はもちろん、雅也の職場とも今後のことについて話し合う時間が増えた。それに加えて、警察や保険会社との話もあった。一番大変なのは家のこと。これまでのようにマンションというわけにはいかない。エレベーターもなければ、エントランスにスロープもない。車椅子での生活となると、それまでは気付かなかったものが障害物となって立ちはだかる。とても私一人では対処できない。私は家族や、雅也のお父さんとも相談しながら、ひとつひとつクリアしていこうと思っていた。
 
 その日、私が病院へ行くと、パパとママ、それに雅也のお父さんも来ていて、初めてみんなが揃うことになった。ちょうどこの日は雅也が一般病棟の個室に移される日で、看護師さんたちが慌ただしく動き回っていた。その様子を雅也も目をあちこちに動かして見つめていた。
「とうとうここともお別れだな」
 雅也がポツリと言った。私は明るく、
「どう? 寂しい?」
 と訊くと、雅也はじっと天井を見つめたまま、ポツリと呟くように言った。
「ここでは生きることと死ぬことがいつも隣合わせで、ドクターっていう仕事の重さを実感するんだ。それに比べると僕たちの仕事ってなんだか軽いなって感じちゃう」
 予想もしなかった答えに、(少しずつ現実に戻ってきているんだな)と思って少しだけれど安心した。でもまだ私には雅也に伝えなければならない大きな仕事が残っている。
 
 看護師さんと入れ替わりにドクターが雅也の様子を見にきた。
「泉川さん、気分はどうですか?」
「先生、それより僕の奥さんどうですか? かわいいでしょ?」
「そりゃ、医局の先生たちもその話でもちきりですよ。これまでのように見られなくなると思うと寂しいね」
 雅也は満足そうにしていた。私には先生が雅也の心が落ちないようにとの配慮に聞こえたのだけれど、雅也の嬉しそうな顔を見て、そんなことはどうでも良くなった。
 雅也はそんな先生の姿を横目に見て、
「僕、ここに来てもう二週間ですよね。足が思うように動かないんですけど、ちゃんと動くようになりますか?」
 と、先生に訊いた。
 先生は私の目を見ていたが、それでも告知の判断に迷っている様子だった。雅也は、
「僕がこんな姿になって、ほのちゃんはたくさん泣いたし、辛い思いもしてきたはずだ。これ以上ほのちゃんにも家族にも辛い思いはさせたくないんだ。もう動かないのなら、先生そう言ってよ」
 と、吹っ切れたように先生に詰め寄った。
 こんな状態になっても、それでも私たちのことを気遣ってくれる雅也を見ていて、私は『雅也なら大丈夫』という根拠のない気持ちになった。
 先生が話しかけようとした時、私は先生の腕を摑んでそれを制した。先生の目を見て、ひとつ頷いてから、
「雅也、ちゃんと聞いてね。事故の時、雅也は背中から撥ねられて脊髄を損傷したの。だから、足は動かない。これからは車椅子ってことになるわ」
 私は心臓がはち切れそうな思いで告げた。雅也は、天井を見つめたまま目尻から一粒涙をこぼし、
「そっか……。どうせそんなことだろうと思ってたよ。ほのちゃん、辛い話させちゃってごめんね」
 と呟いた。そして、目だけを動かして先生の姿を探すと、
「先生、僕の命、繋いでくれてありがとうございます」
 そう言って先生に右手を差し出した。
 
     ◆
 
 雅也のリハビリが始まるにあたって、ドクターからカンファレンスをしたいと言われた。私は一日でも早く始めたいと思っていたから、一番早い日程でお願いしたのだった。 
 案内された部屋には、車椅子を上手に操る青年が待っていた。ドクターから、雅也と同じ箇所で脊損を受けたのだと聞かされた。私たちと同じか少し年下の印象の青年は、山之内一樹やまのうちかずきと名乗り、車椅子生活は四年目だという。
「はじめまして。泉川です。よろしくお願いします」
 私が緊張気味に言うと、彼は少し笑みを浮かべながら、
「僕はフランクな話し方しかしないので、固くならなくて大丈夫ですよ。お互い歳も近いことだし」
 と、優しく言ってくれた。ドクターは、山之内さんの説明はわかりやすいから、自分の出る幕はないと言って、部屋を出ていこうとした。私がとっさに、
「あの、ちょっと……」
 と不安げに細い声を出すと、
「そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。彼はあなたを襲ったりはできませんから」
 と、ニコニコしながら後ろ手にドアを閉めた。
 山之内さんは、「それじゃ始めましょうか」と、器用に車椅子を操作して私の向い側に移動した。
「泉川さん、お子さんはいるんですか?」
「いえ……」
「そうですか。もしも子どもがほしいと思っているのなら、今のうちにご主人の精子を冷凍保存しておいた方がいいよ。体外受精以外に方法はないからね」
 私はリハビリの話だと思っていたのに、いきなり体外受精の話を始める彼に対して、(本当にこの人で大丈夫なのだろうか)と思っていた。
「どうして僕がこんな話をするのか不思議に思ったでしょ?」
「……」
「脊髄を損傷すると下半身不随になる。そんなふうに思ってない? 下半身不随なんて簡単な言葉で片付けられるようなことじゃないんだよね」
「どういうことですか?」
「おヘソの辺りから下の神経が断絶されてるから、脳からの信号が届かないんですよ。その逆も同じ。だから、奥さんは二度とご主人とセックスすることはできないんです。仮にできたとしても、ご主人の下半身には感覚がないから、勃起することも射精することもないです。だから子どもを授かることはないんです。だから最初に体外受精の話をしたんですよ」
「そうだったのですね……。今は子どものこととか考える余裕もないです……」
 もちろん、いつかは子どもを授かって、楽しい家庭をと思ってはいたけれど、そんな未来さえもなくなってしまったんだと、重い現実を叩きつけられたような気がした。神経が断絶されていると、足を切りつけられても何の感覚もないのだという。障害がなくて普通に生きていると、わからないことばかりなんだと思い知らされた。
 山之内さんは、メッセンジャーバッグの中から、A4サイズの紙が何枚か束ねられた書類を取り出し、私の手元へと滑らせた。大学生のレポートのように、人体の図などが書かれていて、わかりやすく説明書きされていた。
「それじゃ、次の説明をしようか」
 そう言って彼は資料を一枚めくった。綺麗にワープロで書かれた資料は、大きな見出しや、その一つ一つの説明が丁寧に書かれていた。
「これが一番大変なんだけど、おしっこ、うんちができません。つまり垂れ流しってわけ。感覚が無いからいつ出たのかもわかりません。臭いがして初めて漏らしたことに気付くんです。もちろん紙おむつでも対応はできますが、本人的にはこれが一番ショックです」
「それじゃ、あなたも……」
「僕はある程度コントロールできています」
「それはコントロールできるようになるのですか?」
「少しニュアンスが違うんだけど、摘便てきべんと言って、指で掻き出すんです。自分でできるようになるまでは、これが一番情けないです」
「そうなんですね……」
 私は、山之内さんの口から発せられる言葉に頷いていたけれど、頭の中で懸命に整理しようとすればするほどわからなくなり、雅也がリハビリをする姿を想像することさえ難しくなっていた。
 車椅子を操作するにも、機能している上半身を上手く使えるようになる必要があるし、腕力も必要になってくる。着替えをするにも体の柔軟性が必要なことなど、障害を受け入れて生活していくためにやるべきことの多さに、無意識にため息が漏れてしまった。そんな私のことを優しい眼差しで見つめながら、山之内さんはゆっくりと呟いた。
「これからの数年は、ご主人には介助が必要になります。そうしていくうちに、きっとご主人はあなたのことを拒絶するようになると思います。声を荒げることもあると思います。僕もそうでした。申し訳ないという気持ちと、上手くいかないイライラがそうさせるのですが、それはあなたが受け入れるしかないんです。僕で良ければ相談に乗りますし、焦らずゆっくりとケアしてあげてください」
 聞いているだけで、目の前の彼がゆらゆらと揺れ始め、私は照れ笑いのまま天井を見上げて、
「何も始まっていないのに、今からこれじゃだめですね」
 と洟を啜りながら言うと、
「みんな最初はそうだと思います。僕の母もそうでしたよ」
 と、優しく微笑んでくれた。
 障害を抱えてしまった本人は、なるべく人の手を借りずにできることはやろうと思う。でも上手くできなくてイライラする。できないことは介助が必要になってくるのだけれど、それは介助する人の自由や時間を奪うことになり、申し訳ないという気持ちが生まれてくる。そうやってジレンマに陥っていくんだと教えてくれた。
「結局、自分は介助が必要な人間なんだということを受け入れるしかないんです。そこに辿りつくまでが大変なんですけど……」
 過去の自分を振り返るかのように、俯きがちに彼は言った。バッグに資料を片付けながら、
「やっぱりこれだけは言っておこうかな」
 と言って車椅子を操り、私の隣で止めた。
「あの、目線のことなんですけど、いま奥さんは椅子に座ってますよね。これはいいんです。じゃ、椅子がなかったらどうですか?」
 私は立ち上がり、椅子をテーブルの下に片付けてから、彼の目線に合わせるように「こうですか?」と言ってしゃがみ込んだ。
「やっぱりそうなりますよね。できれば立ったままで話をした方がいいと思います。そうやって目線を合わせられると、自分は立てない人間なんだと強く意識させられるんです」
 ハッとした。もはや私の常識は通用しないんだと思い知らされた。彼は私に、個人差はあるけれど、運動機能障害は『介護』ではなくて『介助』だということだけは忘れないでほしいと言った。
「いろいろありがとうございました」
 そう言って頭を下げてから彼に背中を見せると、「バイバイ」という声が背中越しに聞こえて、ゆっくりと振り返ると、山之内さんは微笑んで手を振っていた。
 私はひとつ笑みを返して、ゆっくりとドアを閉めた。
(うん、なんとかなる!)
 私は心の中でそう呟いて、たくさんの人が行き交う廊下を、真っすぐ前を見据えて歩きだした。


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