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赤い糸はスパイシーな香り 最終話

最終章 『departures』

「ほのか……だよね?」
 雅也が懸命にリハビリをする様子を、大きなガラス越しに見ていると、そっと近づいて声を掛けてくる女性の姿があった。少し遠慮がちに、小さな声で。私が少し考える素振りで彼女のことを見つめると、
「私よ! 清美。田所清美」
 そう言ってニッコリと微笑んだ。彼女は高校の時とは違って、オシャレなメガネを掛けて、サラサラの長い髪をまとった知的な女性に変貌していた。
「えっ、清美なの? どうしたのこんなところで」
「それはこっちのセリフよ。ご家族かどなたかが?」
 私は清美に、雅也と結婚したことや、交通事故で雅也が脊髄を損傷してしまったことを、遠くでリハビリに励む雅也を見ながら話した。
 清美は、高校を卒業したあと短期大学に進学し、英語を勉強して通訳としてがんばっているのだという。卒業後はアメリカの大学に留学して、語学力を高めているのだと話してくれた。
「それじゃ、将来は向こうで?」
「そうね、まだ決めてはいないけど、通訳として向こうでも日本でも仕事ができたらいいなとは思ってるわ」
 高校の時とは別人のように変わった清美を見て、夢に向かってがんばっている彼女のことが、少し羨ましく、そして素敵に見えた。
 
 長いベンチに座って、高校時代の自分たちの話に花を咲かせていると、ペットボトルの水を飲みながら近付いてくる、青い瞳の青年の姿が目に入った。清美が私の視線に気付いたのか、振り返って彼の方を見ると、手を上げて合図をした。
『Sorry for the wait. (お待たせしてすみません) 』
『All right. I was just talking to my friend. (ちょうど友人と話してたところよ)』
 清美があまりにも流暢に英語を話す様子を見ていて呆気にとられていると、彼は日本の医療研修に来ているのだと話してくれた。
「彼の名はジェイムズ・パターソン。ジムって呼んでるわ。彼も理学療法士なのよ」
 私は、高校の時に美咲の前で固まっていた清美が、外国人と会話をしている現実に不思議な感じと時間ときの流れを感じていた。
 彼は私に「Nice to meet you.」と右手を差し出した。私も咄嗟に「Nice to meet you, too.」と彼の手を摑んで答えたのだが、これで合ってるのか少し不安な面持ちで微笑んでみせた。
 私がガラスの向こうの雅也の姿を見つめていると、青い瞳の彼と身振り手振りを交えながら話す清美の姿がガラスに映って動いていた。
 
ジム『Why is he in rehab?』
清美『I think I injured my spinal cord in an accident.』
ジム『Oh my God!』
清美『……』
ジム『Yes! He is still young, why not rehab with our team?』
清美『That would be nice!』
 
「ねえほのか……」
「ん?」
 少し不安げに声をかける清美に、私が戯けるように振り向くと、ゆっくりとした口調で清美が話しだした。
「彼がね『どうして雅也くんがリハビリセンターにいるのか』って訊くの。だから事故で脊髄を損傷したみたいって言ったら、『彼はまだ若いし、僕たちのチームでリハビリをしたらどうだろう』って。彼のいるところもリハビリセンターなんだけど、アメリカのリハビリは日本と違って生きていくためのリハビリなの。自分の力で立ったり歩いたりするための……。どう? アメリカに行ってみない?」
 突然の提案にびっくりするのと同時に、立てるとか歩けるとか、夢のようなフレーズに戸惑ってしまった。
「ありがとう。でも今はどう答えていいか……。私が決めることじゃないし、彼にも話してみないと……」
「そうだよね……。じゃ、その気になったら連絡くれる?」
 そう言って清美は、私に名刺を差し出した。清美はジムの方に振り向くと、
「He wants to let him do that if that's what he wants.(彼がそれを望むのなら、そうさせてあげたいって)」
 と伝え、彼もまたゆっくりと頷いていた。私は清美に「いろいろありがとう」と言って頭を下げると、ジムが代わりに「ドウイタシマシテ」と言って微笑んでいた。
 私が笑って彼に手を振ると、その様子を見ていた清美が
「ほのか、やっと笑ったね」
 と微笑んでくれた。そんな私たちの隣で、ジムが手を振りながら言った。
「マッテルヨ!」
 
     ◆
 
「いらっしゃいませ〜」
 ガソリンスタンド特有の、張り上げるような大きな声が、閉め切ったガラス窓を突き抜けて私の耳に届く。計量器に寄せて車を停めると、ユニフォームをカッチリと着こなした男の子が、「何かありましたらお声がけください」と言って微笑んでいた。小さく会釈をして計量器の前に立ち、クレジットカードと書かれたボタンにタッチすると、中の女性が「いらっしゃいませ。カードを入れてください」と喋り出す。私はこのセルフ式のガソリンスタンドが嫌いだ。少し前まではフルサービスのお店もあったのに、最近はセルフばっかりになってしまった。「給油を開始してください」と言われノズルを上げたあとで給油口のキャップを開けていないことに気づく。こういうちょっとしたことで自分にイラッとする。
 給油を始めてすぐに、
「すみません。近藤さんはいますか?」
 と、さっきの男の子に訊ねると、
「はい、お呼びしましょうか?」
 と、元気な声で答えてくれた。私は手で『大丈夫です』と制してから、形を変えながら進むデジタル表示を眺めていた。
 給油を終えて、キャップは閉めたか? フタは? と自分に言い聞かせるように確認していると、「珍しいな、ウチの店に来るなんて」と聞き覚えのある声が背後から迫ってきた。
 私は制服姿の美咲に「ちょっと話せる?」と言うと、美咲は「うん」とひとつ頷いたあとで、さっきの男の子に、
「ユースケ、車移動しておいてちょうだい」
 と、大きな声で言った。
 
「ほのか……。どう? もう慣れた?」
「そうね、最初の頃に比べればずいぶんと」
「そう、良かった。雅也くんはどう? 元気にしてる?」
「そうね、今日はお義父さんとリハビリにいったわ」
 美咲はいつでも元気で、こうして私に会えば私を気遣って優しく接してくれる。接客業ということもあるのだろうけれど、それだけじゃないと思う。優しい女性だと思うし、早く良い人見つけてくれるといいなと思う。
「そう言えば美咲、田所さんって覚えてる? 田所清美」
「ああ、ほのかのクラスのだろ? それがどうした?」
「この間病院で会ったの。彼女、通訳してるって。その時もアメリカ人の医療研修で来てるって言ってた」
「へぇー、そうなんだ。わかんないもんだね」
 病院で見た、生き生きとしている姿や、自分のやりたいことを見つけて真っ直ぐに生きている清美のことを、少し羨ましいと思ったことを美咲に告げると、美咲は小さくため息をつきながら言った。
「あんたって、いっつもそうだね。そんなことどうだっていいんだよ。自分は自分、他人は他人。比べる方がおかしいよ。あたしはさ、どんなにがんばってもほのかにはなれないんだし。そういうことだよ。そうだろ?」
「そりゃそうだけどさ……。清美にさ、ていうか一緒にいたアメリカ人に、アメリカでリハビリしないかって誘われたの。立ったり歩いたりできるようにリハビリするんだって」
「へぇー、すごいね。で、どうするの? アメリカ行くの?」
「わからない……。まだ雅也に話してないんだ。話してみても決めるのは雅也だし、自分から行きたいって言うまで待ってみようと思うの」
「それでいいと思うよ」
 私は自分なりに答えを決めていたけれど、きっと誰かの後押しが欲しかったんだと思う。
 
     ◆
 
「ねえ雅也。アメリカ行ってみない?」
 雅也は、豆鉄砲を食らったハトのようにキョトンとした顔で、
「アメリカだって?」
 と言った。
「そう。日本と違って、向こうでは生活中心のリハビリじゃなくて、人として生きていくために、立ったり歩いたりするためのリハビリを専門にやってるところがあるんだって。1パーセントでも可能性があるんだったら、トライしてみる価値はあるんじゃない?」
「そりゃ僕だって歩けるようになるんだったらその方がいいさ。でも、アメリカだよ? 生活はどうするのさ。お金も掛かることだし」
「お金のことなら何とかなるんじゃない? 滞在期間は雅也のがんばり次第だし、TACTデザインの斎藤社長も、在宅でやってる仕事は世界中どこにいたってできるって言ってくれたよ」
 私は、雅也のためにあちこちで情報を仕入れてきた。私が雅也の立場だったら、やっぱり歩いてみたいと思うだろうし……。前向きな雅也のことだからすぐにでも「行きたい」と言うのかと思っていたが、そんな思いとは裏腹に、それ以来雅也は黙ってしまった。
 
 私は勤めていたハウスメーカーに辞表を出した。雅也と二人で新しい生活を始めるためだ。そのスタートを切るために、一度全てをリセットして雅也と向き合いたいと思ったのだ。
 あれだけの事故で、車椅子での人生を余儀なくされたけれど、生きているという事実には、きっと意味があるはず。雅也には、生きているという事実を受け入れて、ちゃんと生きてほしいと思う。
 
 リビングの椅子に腰掛けて、車椅子の雅也と目線を合わせてからゆっくりと話しかける。
「ねえ雅也、あの時病院で先生に言ったこと覚えてる? 雅也は『僕の命、繋いでくれてありがとう』って言ったんだよ。もしもあの時死んでいたら、私が悲しむと思ったからそう言ってくれたんでしょ? 私すごく嬉しかったんだよ。ちゃんと考えてほしいの。自分がどうしたいのか、これから先、私とどんなふうに生きたいのかを」
「……」
 雅也はずっと下を向いて黙っていた。私は立ち上がって、夕飯の支度をするためキッチンに向かった。しばらくすると、リフォームでバリアフリー化した床を、キュッキュッとタイヤの音を立てながら雅也が近付いてくる。
「ほのちゃん……。ごめんね。ほのちゃんにばっかり苦しい思いさせちゃって。僕のこと、こんなに愛してくれているとは思わなかったよ……」
「当たり前でしょ。私はたくさんのライバルを押し退けて雅也を手に入れたのよ! ちゃんと愛して、幸せにならないとみんなに申し訳ないじゃない!」
 やっと、やっと雅也が笑ってくれた。私はゆっくりと膝を折って、雅也を車椅子ごと抱きしめた。雅也が私の耳元でゆっくりと呟く。
「僕、アメリカに行ってみたい」
 
     ◆
 
「こんにちは」
 今日はお店の方から声を掛けた。
「やあ、ほのかちゃん。どうしたの? 一人?」
「はい、一人です。今日はお義父さんに相談があって……」
 私は、雅也が車椅子の生活になったことで、お義母さんのお墓参りに行けないことを相談に来たのだ。
「今の場所では、雅也くんがお母さんの墓前で手を合わせることもできません。お墓のお引越しも含めて考えていただきたいのですが」
「ほのかちゃん、よく気がついてくれたね。俺なんかそんなこと考えもしなかったよ」
「雅也くんは何にも言わないですけど、きっとお義母さんに会いたいと思う時もあると思うんです」
 お義父さんは、「早急に動くよ」と言ってくれた。それからもうひとつ大事なことを。
「お義父さん、雅也くんとアメリカに行こうと思っています」
「アメリカに?」
「向こうには脊髄損傷専門のリハビリ施設があるそうです。どれくらいの期間になるかはわかりませんが、自分の力で立ち上がったり、数歩ですけど、摑まりながら歩くこともできるようになるそうなんです」
「雅也のためにいろいろ調べてくれてるのか?」
「雅也くんのためだけじゃありません。みんなのためです。雅也くんは自分や私のためだけに生きているわけじゃありません。みんなが少しでも笑顔になってくれるなら、どんなことでもやりたいって言ってくれました」
「雅也の奴……。いい嫁さん貰いやがって……」
 お義父さんは涙声になって、嬉しそうにそう言った。
 
     ◆
 
 桜が少しずつ色づくころ、私は雅也を散歩に連れ出した。太陽が少しずつ西に傾き、日差しもやわらかく、風がひんやりと首すじを通り抜ける。近くを流れる川の堤防に咲く桜並木にやってきた。ゆっくりと茜色に近付いていく空を見つめながら、山之内さんに言われたとおり、私は立ったままで雅也に話し掛けた。
「ねえ、幸せって何だと思う?」
「幸せかぁ……。人によって感じ方とかも違うから一概には言えないけど……。たとえば、今ここに僕がいるでしょ、そして隣にはほのちゃんがいる。そして二人で同じ時間を生きている。これって幸せなことなんじゃないかと思うんだ」
「んー、それも幸せといえばそうだけど、運命というか、そんな感じがするなぁ」
「運命的なものも感じるけど、奇跡だよ! 出会ったことも、こうして生きていることもね」
 雅也がずいぶんと明るくなったような気がする。車椅子もいつしか上手に動かせるようになっていた。少しずつ少しずつ前へ進みながら、
「僕はさ、母さんが自分の命と引き換えに、生きることの大切さを教えてくれたような気がするんだ」
 と言って、しっかりと前を見据えていた。そんな雅也のことを見ていて、『もう何があっても大丈夫だ』という気持ちが私の中に溢れてきた。理由なんてない。今の私は雅也のことを無条件に信頼ができて、自分にも正直に生きていける。ただそれだけ。
「人ってさ、ポジティブに生き続けるって難しいと思うの。時にはネガティブになっちゃう時だってあるよ。私だってそう。でもね、そんなの悲観することなんてこれっぽっちもないと思うんだ。きっと誰かと比べたりするからネガティブになるんだよ。雅也は雅也のままでいいじゃない。私は高校の時の雅也も、今ここにいる雅也も、どっちも好きだよ」
「ありがとう、ほのちゃん。そうだね。やっぱりできていたことができないとネガティブになっちゃう。でも、ほのちゃんのおかげで、それも個性だと思えるようになってきた」
「そうだよ。できない雅也も、できちゃう雅也も、全部ひっくるめて雅也なんだから。私ね、アメリカから戻ったら赤ちゃんのことも考えてみようかなって思ってるんだ」
「そうなの? 僕、これからの人生、少しずつだけど、なんだかワクワクしてきたよ! 僕たちの赤ちゃんかぁ……。僕は男の子がいいかなぁ」
 雅也は少し上を向いて、そして遠くを見つめながら言った。
「どうして?」
 私が車椅子をゆっくりと押しながら言うと、少し照れくさそうに雅也が続けた。
「僕はほのちゃんのことはいつまでも大好きなままでいたい。娘ができると愛情が半分になっちゃう気がするんだ。うん! やっぱり男の子がいい。名前はツバサ。大きく、どこまでも高く羽ばたいてほしいな」
 そう言う雅也の言葉に、車椅子を押す私の前で、パパになにかを得意そうに話す男の子の姿を想像してみたりする。
「ねえ雅也、私たちはさ、人生っていう限られた時間の中で、ものすごく貴重な経験をしてるんだよ。それに、私たちには私たちにしかできないセックスもあるしね」
 少し戯けて私が言うと、雅也は『あはは』と声に出して笑いながら、「そうだね」と、はにかんでいる様子だった。私はそんな後ろ姿を愛おしいと感じながら、ゆっくりと車椅子を押す。
「それじゃ、腹ごしらえしないとな」
 雅也が、私のことをうかがうように首を後ろに倒して言う。私は車椅子を止めて雅也の耳元に頬を寄せていたずらっぽく言った。
「旦那さま。何か食べたいものがあればお作りしますよ!」
 そう言うと、どこからかひとひらの桜の花びらが飛んできて、私の髪を撫ぜたあとで雅也の膝の上に落ちた。
 雅也は少し考えるフリをしたあとで、私の耳元で子どものような口振りで言った。
「それじゃ……、スパゲッティサラダがいいな!」

(了)

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