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赤い糸はスパイシーな香り 第17話

第5章 『赤い糸はスパイシーな香り』

 久しぶりの実家  
 それぞれの家にはそれぞれの匂いがあって、ふと居心地の良い懐かしさに包まれる。天井まである下駄箱も、リビングまで続く廊下も、子どもの頃から慣れ親しんだ空間に、心が和らいでいく。
 私はダイニングの椅子に座り、キッチンカウンターの向こうで慌ただしく動くママのことをぼんやりと眺めていた。やがてほのかにコーヒーの香りが立ち始め、キメ細かな泡で覆われたママ特製ウィンナ・コーヒーが私の前に運ばれてきた。
「はいどうぞ!」
「ありがとう。うわぁ、懐かしい!」
 私が中学生の頃から、落ち込んだりしている時には、そんな私のことを察してくれて、いつもこのウィンナ・コーヒーを淹れてくれた。
「で? どうしたの今日は」
 マグカップに入れたコーヒーを啜りながら、テーブルを挟んだ向こう側に座ってママは言った。
「うん……。雅也のことパパから聞いた?」
「ええ、聞いたわよ。雅也さんらしいわねってパパとも話してたのよ」
「雅也らしいかぁ……。私、結婚ってものがよくわからなくなっちゃって」
 目の前のカップを両手で包んで、ぼんやりしながら、
「ママはどう? そんなふうに思ったこととかないの?」
 と訊いてみた。
「ママはね、結婚なんてものは料理みたいなものだと思ってるわ。美味しいかそうでないかは、食べる人の口に合っているかどうかで決まるの。スパイスが少ないと味気なく感じるし、効きすぎると『ん?』ってなるでしょ。結局ちょうどいいのが美味しいってなるんだけど、結婚生活も同じ。大切なのは二人の距離感よ。近付きすぎても離れすぎてもダメ、それこそ程よい距離が保てれば上手くいくと思うわ」
「二人の距離感かぁ……。それってなかなかに難しいよね……」
 ママは大きなため息をひとつついて、私の顔を覗き込みながら言った。 
「ほのか。ママね、雅也さんはあなたが思ってる以上にほのかのことを考えていると思うわ。雅也さんにはあなたが必要なんじゃなくって? それをあなたがわかっているなら、悩んでるなんて時間の無駄よ。子どものことだってそう。その気がないのなら、あんな事故のあとに精子を冷凍保存しようなんて思わないわよ。雅也さんはあなたのために可能性を残したんじゃないのかなぁ……」
 ママの言葉のひとつひとつは、どれも私の胸にずしりと伸し掛かり、どんどんと苦しくなる。でも、それらはすべて私の胸の中で解決できることばかり。私自身が弱いだけなのだと、私自身が変わらなきゃだめなんだと思い知らされた。
「ねぇママ?」
「ん?」
「ママと私って、母娘である以前に女でしょ? ママは自分が女である意味ってわかる?」
 私の突然の問いかけに、「そんな哲学的なことを訊かれてもわからないわ」なんて言いながらも、目だけはしっかりと私の方を見据えていた。
 私はママに「もうパパとの人生から逃げないと約束してほしい」と迫った。私は女に生まれたことを悔やんではいないし、女に生まれたことにはきっと意味があると思ってる。これからの人生でその答えは導き出せればいいと思っているし、そうしたいとも思っている。
「ママはねぇ、AB型でしょ? だからパパのようなO型の人ってわからなくなっちゃったのよ。物事の答えはイエスかノーかだと思ってたからね。でもね、パパのようなイエスでもなくノーでもない答えも、時には必要だなって最近は思えるようになったのよ」
 私はウンウンと頷きながら、「これからの人生はパパと仲良く過ごしてほしい」と伝えた。
「結婚する前に雅也と旅行に行った時、下呂温泉で素敵な老夫婦に出会ったの。『幸せですか?』って訊いたら、『幸せは自分で決めるものじゃないって。ご主人が自分と一緒にいて幸せだと思ってくれるなら、それが私の幸せです』って。素敵だと思わない?」
「そうねぇ。理想なのかもしれないけど、そんなふうに思えるって素敵なことね」
 ママは少し俯きがちに言った。
「私はね、あんなふうに雅也と歳を重ねたいなぁって思ったわ。今からだって間に合うでしょ? やり直すのに遅すぎることなんてないと思うよ。ママもパパと旅行とか行けばいいのに」
 そう言うと、ママは少し笑ってから、
「そうねえ、仕事ばっかりだったから、ゆっくり旅行する時間もなかったしね」
 と、遠くを見るような目で私のことを見て言った。
「行けるうちに行っとかないと、行きたくても行けなくなるよ」
「どういう意味よ、それ」
「変な意味じゃなくて、病気になったり怪我したりもするでしょ。それから孫ができたり……」
 ママは急に真面目な顔になって、
「じゃ、ほのか……」
 と言葉を飲み込んだ。
「やあねぇ、例えばの話でしょ!」
 私がママのことを右手で叩くような真似をして言うと、ママはテーブルに肘をつき、両手で頬を包みながら、見たこともないような優しい眼差しで私のことを見ていた……。
 
     ◆
 
「ただいまー」
 二日間実家に逃げていた私は、何事もなかったかのように玄関を開けた。夕飯の支度をするために、両手にいっぱいの食材を買い込んでの帰宅だった。奥から車椅子の雅也が顔を出して、
「どうしたの?」
 と、細い声で言う。
「なにが?」
「なにがって……」
「ただいまはただいまでしょ? ここは私の家なんだから」
「ほのちゃん……。怒ってないの?」
「怒ってるに決まってるでしょ! 次あんなこと言ったら許さないからね!」
 雅也はバツが悪そうに小さくなって、「ごめん」と呟いた。仔犬のように私の後ろをついてくる雅也のことを振り返って、「私の方こそ逃げ出したりしてごめん」と言うと、お義父さんにひどく叱られたと話してくれた。
「父さんに言われたってこともあるけど、あの日ほのちゃんが出ていった後、ひとりで泣いちゃったんだ。急に寂しくなってね。僕にとってほのちゃんの存在ってこんなに大きかったんだなぁって、あのとき初めて知ったよ」
「そう……、そんなふうに思ってくれたんだ。私も苦しくって、美咲とかパパに話したんだ。美咲にわがままだって言われたわ。やっぱり家族になると慣れちゃうんだなって。付き合ってる時って適度な緊張感もあるんだけど、家族になっちゃうと、つい……。以前にもこんなことあったよね」
「そうだね。あの時もほのちゃんに逃げられちゃった」
「ちょっと! いつも私が悪者みたいに言わないでよ!」
「ごめん」
そう言いながら雅也が笑ってくれる。それだけでいい――。今はそれだけで幸せなんだと感じる。
「お腹すいたでしょ? 夕飯の支度するね」
 そう言ってキッチンに立つと、目頭に熱いものがこみ上げてくる。雅也がキュッキュッといいながら近付いてきて「今夜のメニューは?」と訊いてくる。私はひとつ洟を啜って、
「心とからだが元気になる、鮭のムニエルのサワークリーム仕立てよ」
 とこたえた。


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