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赤い糸はスパイシーな香り 第18話

「おはよう。よく眠れた?」
 ベッドに横たわる雅也の顔を覗き込んで言うと、眠そうに目をこすって片方の目を薄っすらと開いてからもう一度閉じる。熱めのお湯で濡らして、固く絞ったホットタオルを雅也の顔に掛けると「うーん」と唸りながら両手で顔を押さえた。
 いつものように顔からあご、そして首周りを拭くと、「ありがとう」と言ってようやく明るい世界へと戻ってくる。
 ここからは二人の共同作業。雅也の脇の下に両手を差し込み体を引き起こす。そしてゆっくりと抱きかかえて車椅子へと座らせる。
「いつもありがとう。重いから大変だろ?」
「おかげさまで背筋が鍛えられたわ」
 雅也はニヤリと笑って私の後をついてくる。
「ねえ、起きがけに悪いんだけど、ゴミ捨て行ってくるから、お母さんにお水とお供えお願いしていい?」
「うん、わかった」
 
 両手に二つのゴミ袋を持って、ゴミステーションへ向かうと、近所のオバサンが「おはようございます」と声を掛けてくる。私も「おはようございます」と軽く会釈をしながら応えると、
「旦那さん大変だったね。困ったことがあったら言ってね」
 なんて気遣ってくれる。最初のうちは(みんな優しい人たちだなぁ)なんて思っていたのだけれど、最近は(すでに大変なんだよ!)なんて毒づいたりもする。それでも笑顔だけは絶やさない。
 私は、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、歩きながら思い切り背伸びをした。
 玄関を開けて「ごめーん、朝ごはんの支度するね」と雅也に呼び掛けたのだが返事がなかった。リビングに戻ると雅也が車椅子から落ちて横たわっていたのだ。
「雅也! どうしたのよ!」
「ごめん。母さんの写真引っ掛けて落としちゃってさ。拾おうと思ったら落ちた」
「そんなの私がするからいいのに」
 雅也を車椅子に戻して、割れたフォトフレームを拾い上げようとすると、雅也はくるりと私に背中を向けて俯いてしまった。このあとに起こることを予感していたのだ。
「新しいの買ってこなくちゃね」
 と言いながら写真を抜き取ろうとした私は、そこにあったもう一枚の写真に絶句してしまった。
「どういうこと……」
 そこには和服姿の若いお義母さんと父のサトルが、仲睦まじく微笑む姿が写っていた……。
 
「雅也、説明してくれる?」
「ごめん。母さんの遺言なんだ……」
「そういうことじゃなくて、どうしてパパの昔の写真がここにあるの?」
「ごめん……」
 そう言って雅也は自室に戻ってしまった。私が割れたガラスの後始末をしていると、誰かと電話で話している声が漏れ聞こえてきた。たぶん相手はパパだろう。話を終えてリビングに戻ってきた雅也は、
「ほのちゃんのお父さん、今からこっちに来るって……。僕から話せることは話していいって」
 と、申し訳なさそうに言った。私が無言で朝食の仕度に取り掛かろうとすると、雅也が私の隣にやってきて「ちゃんと話すから聞いてほしい」と、私の手を取った。
「僕の母さんとほのちゃんのお父さんは、高校の時にお付き合いをしていたんだ。ほのちゃんのお父さんはさ、当時『女の子が生まれたら名前はほのかにする』って言っていたらしい。ほのちゃんを初めてこの家に連れてきたことがあっただろ? あの時母さんに『安田ほのかです』って言ったの覚えてるかな? 母さんはあの時にほのちゃんがお義父さんの娘だって知ったんだよ」
 私はその時、手に取ったお義母さんの写真が『お父さんのことは好き?』と問いかけているように感じていた。
「母さんは、自分の命が長くないことを知ったから、僕にその事実を話してくれたんだ。だから僕はほのちゃんのお父さんに気付いてほしくて、あの日わざわざじっちゃんの自転車でほのちゃんの家に行ったんだよ」
 私は、二人が穏やかに微笑む写真を見つめながら、
「それでパパは気付いたの?」
 と呟くように言った。
「ああ、気付いてくれたよ。僕さ、母さんの中に父さんよりも大切に想ってる人がいることがショックだった。でもね、ほのちゃんのことを好きになればなるほど、何となくだけど母さんの気持ちも理解できるようになってね……」
 私は雅也の言葉をひとつひとつ頭の中で整理をし、それでも自分の感情を抑えるのがやっとだった。
 
 玄関が開く音に気付いて立ち上がろうとすると、重い足取りの足音が近づいてくる。スーツ姿のパパだった。パパは私たちの姿を見るなり、申し訳なさそうな面持ちで私たちの前に腰を下ろした。大きなため息をついたあとで、吐き出すようにパパは言う。
「ほのか……。ずっと隠しててごめんな。パパな、雅也くんのお母さんと、高校の時にお付き合いしていたんだ。彼女のことが大好きでな……」
「どうして別れることになったの?」
「うん……」
 パパは愛用しているビジネスバッグから真っ白な封筒を取り出して、私に差し出した。
「いいの?」
 パパは両手をテーブルの上で組んで、じっとその手を見つめている。その様子に私はハッとして、この家に初めて来たとき、お義母さんも同じように手を組んで考え事をしていたことを思い出した。
 私はきれいな文字で綴られた手紙に視線を落とし「これって……」と呟いていた。
「お葬式の日に、雅也くんのお父さんがくれたんだ」
 切なすぎる文面に、私は溢れそうになる涙をそっと指先ですくって、無意識に口を開いていた。
「それじゃ……」
「ああ、俺たちはお互いのことを好きなまま別れちゃったんだよ」
「どうしてそんなこと……」
「若かったし、未熟だったし、それが本当の愛だなんてわからなかったんだろうな。でもな、だからこそお前たちはこうして出会うことができたんだよ」
「それはそうかもしれないけど、過去のことでしょ? 別に隠さなくったって……」
 そう言ったところで雅也は車椅子を私の方に向けて、「ほのちゃんのお父さんの優しさだよ」と言った。雅也は私の手に自分の手を重ねて、言葉を選びながら、私のことを説き伏せるように続けた。
「お義父さんはさ、過去の恋愛と、僕たちの恋愛を運命的なもので結びつけてほしくなかったんだと思う。別れてしまえばそこでおしまい。何もなかったことにできるだろ?」
 私がパパの方に目をやると、
「ごめんな。結婚式のあとに話すべきだったのかもな」
 と伏し目がちに言った……。

     ◆
 
 前田酒店  
 入口の上に描かれた大きな文字。あの頃と同じように私たちのことを見下ろしている。きっと若い頃のパパたちのことも見守ってきたのだろう。
 私はどこか後ろめたい気持ちでお義父さんに挨拶をする。
「こんにちは。いろいろと気遣ってくれていたみたいですみません」
「やあ、ほのかちゃん。彩加のこと聞いたんだってね」
「はい、父にも雅也くんにも……。お義父さんも苦しかったのではと気になってしまって……」
 私の思いとは裏腹に、お義父さんは普段と変わらない声色で、
「いやいや、俺たちが結婚するずっと前の話だからな。そんな色恋の一つや二つ俺にだってあるからね。気にしなくていいよ。それより、ずっと秘密にしていたお父さんの方が苦しかったんじゃないの?」
 と、逆にパパのことを気にしてくれた。
「そんなの自業自得です!」
 私が言うと、お義父さんは「自業自得か」と言って笑ってくれた。
 
 お仏壇の前に座り、お線香に火を点けて、ゆっくりと手を合わせる。もうお義母さんのあの・・声が響くことはなかった。代わりにお爺ちゃんが、
「ほのかさん、黙っていてすまなかったねぇ。サトルくんから絶対に言わないでくれと口止めされていたんだ」
 と、静かに言った。
「いいんです。父はそういう人ですから」
 そう言ってお爺ちゃんの方を向くと、
「君のお父さんは本当に強い人だよ。君のお祖父さんから『今を生きろ』と教えられて、それを忠実に守ってきたんだ。彩加と別れることになった三十年前も、彩加が死んだ時も、辛かったんだろうと思うよ。だけどいつだって前を向いて生きてきたんだ。サトルくんのこと、恨んだりはしないでほしい」
 と、溢れそうになる涙をシワだらけの親指で拭いながら話してくれた。
「恨むだなんて、そんなこと……。それより……」
 私はお義母さんの写真を振り返り、
「お義母さんには生きていてほしかったです。父のためにも、雅也くんのためにも、みんなのためにも。なにより私のために生きていてほしかったです」
 お義母さんの笑顔を見つめながら言うと、私の頬を涙が静かに伝って落ちた……。


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