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福井教区学習会レポート

宗派主催「新しい領解文」に関する学習会が、1月31日に福井教区にて開かれました。50名以上の住職をはじめとする僧侶だけでなく、門徒など多くの方が参加をしてくださり、他教区と同じように、福井教区内でもこの問題に関心が高いことが伺えました。その際の質疑応答を載せさせていただきます。

座長より、大きく三つのテーマに時間を区切って行われました。
その3つは
1 表題と内容に関するもの
2 新しい領解文の制定の経緯に関するもの
3 今後の課題に関するもの

です。


1 表題と内容に関するもの

私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ

Q:約仏の言葉か約生の言葉かをわきまえることが大事ということならば、この文章は、「私の煩悩と仏のさとり」と言明している主体の「私」が衆生なのだから、衆生の側から語っている表現ではないか。

A:「私の煩悩と」という言い方そのものは。ただし、言葉そのものは、生死と涅槃だから、生死というのは、仏の側からご覧になった生死。ただそれは私の側で語ろうとすると私の煩悩ということになる(満井所長)

Q:それでは「私の側から語れない」「信知できない」と説明していることとずれているように聞こえる。わざわざ「煩悩即菩提」に「私」の視点を入れたことで、仏からの呼びかけである「自他一如」をまさに取り違えていることにならないか。こう取ってはいけませんよという言葉、表現に〔新しい領解文が〕なってしまっているように見える。

A:質問の意図は、「自他一如」という場合の「自」は仏であって、「他」は我々衆生の側だが、今の表現(新しい領解文)というのは、その自他の分別をした場合には、衆生の側を「自」、仏の側を「他」としている、という関係性からすると、「自他一如」が本来、無分別智から見たものであるにも関わらず、そこに自他の主客が、転換というか混乱しているのではないかと。これは時々ある質問で、疑問の意図はよく理解できる。つまり普遍的な生死即涅槃という道理を示すのであれば、なぜここで「私」という表現になるのかということであろう。かえって混乱の元にならないか、ということは、ありえなくはない。ただし、自己の領解として語る場合に、やはり一人称で語るということが意識された上で「私」〔と語り〕、一人称で語る場合には、生死というのは私の側で語る。ただそれは仏の側からご覧になったら、生死即涅槃の道理だという、少し主客の混線というのが…(満井所長)

配布冊子について

Q:〔当日の配布冊子〕『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』において、「『私の煩悩と仏のさとりは本来一つ』の部分については、議論の余地はまったくない」と書かれているが、今後広く配布される中で、何か訂正して頂いたりすることをお願いできないか。

A:ここで「議論の余地はまったくない」という強い表現を取った理由は、「『私の煩悩と仏のさとりは本来一つ』には出拠がない」という指摘をずっと受けてきたので、出拠がないのではなく正信偈にある。日頃親しんでいる正信偈に出拠としてはあるが、その出拠の正信偈には、証知とあることの注意をしておきたい、というのが、この冊子の論旨(満井所長)

Q:出拠が『論註』にあったとしても、それを「私の煩悩と仏のさとり」という主観を入れて展開している。「煩悩とさとりは一つ」というのでもなく、「あなたの煩悩と私のさとりは」という仏からの表現でもなく、衆生の視点として「私の煩悩と…」というふうに仕上げていった過程においても「まったく議論の余地はない」と仰っておられるのか。これを読んだだけではその区別が感じられない。その意味で、「まったく議論の余地はない」との表現については改めて頂きたい。

A:これに関する検討の余地は私はあると確かに思う。議論の余地がないと言ったのは生死即涅槃という道理に出拠がないということについて。これは、出拠は明確にあるので、それについての議論はもう無いということを表明しているのであって、その生死即涅槃の道理が、「私の煩悩とほとけのさとりが本来一つ」ということと完全にイコールであるかということは検討の余地があると思う(満井所長)

ご法義の肝要

Q:従来の領解文と、新しい領解文に関して、それぞれに良いところがあると仰るが、それぞれ担っているものが同じでない(同心円ではない)とすれば、肝要、つまり扇を開く場合の要にあたるのはどちらか。「領解文」を冠する以上、肝要がなければいけない。

A:それぞれに持ち分があると思っている。従来の領解文は既に大会衆門に到達しておられる方が喜べる内容が書かれてある。ところが、今まで、仏教、真宗にあまり縁のなかった方々にとって、いわば人ありて西に向かうという西方願生さえない方々に、いきなり大会衆門の言葉というよりも、近門にも至ってない方々の入口としては社会性を一つの入口にして、そして浄土真宗に親和性を持ってもらう。ただ、そこで終わるのではなく、やはり従来の領解文の良さ、有り難さというものを、私達は逐次フォローしていかなきゃならない。重要性はどちらにもあると思っている(満井所長)

Q:〔新しい領解文に関して〕意図を持ってお作り下さったことの重要性を否定しているわけではない。その上で、要になるのはどっちなのかを伺っている。要は一つ。そして、要じゃない方が無意味だとは言っていない。開かれることの意義は重く、開こうとしていくときだからこそ、要が二つあったら開けませんよねと言っている。その位置づけを伺っている。

A:今回の説明では約仏約生という見方の視点の違いとして説明してきたから、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという訳ではない(満井所長)

師徳

Q:第二段について、従来の領解文では「次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」という文言があった。「善知識」の理解に関わることだが、新しい領解文では、善知識がなぜ法灯伝承された歴代宗主だけにとどまったのか。恩徳讃にて親鸞聖人も「師主知識の」という言葉も使われておられるが、歴代宗主・ご門主以外にも善知識の方はたくさんいらっしゃる。限定されたことを残念に思う。

A:私の味わいでは、この部分は「800年の歴史の総体」と味わっているが、言葉としてはないという意見をいただく。「善知識」という言葉がどこまで含むかだが、同行善知識という言葉があるように、私にとってお育て下さった多くの先人方が間違いなくおられるわけで、その方々を視野に置いた上で語ろうとすれば「800年の歴史の総体」と味わうべきだというのが私の理解(満井所長)

もし理解が広がらなかった場合の対応

Q:今まで浄土真宗にご縁の薄かった方、ご縁のない方が、浄土真宗に入りやすいようにとの想いを持ってこの「新しい領解文」が制定されたとご説明いただいた。しかし浄土真宗を信仰している私たちでさえ理解することが難しい文章だ。そして、長い解説文、また各教区で学習会をしないといけないようなものを、果たして浄土真宗にご縁の薄かった方、ご縁のない方が読んで浄土真宗を理解できるのか疑問だ。先生の見解を教えてほしい。

A:全体を網羅的な調査が必要だということで、いま宗派の方でそれを計画している。その結果が出た段階で、ある意味エビデンスになるのかと思う。わかりやすくという目的意図で制定されたものが果たして本当に効果があったのかということは、やはり結果を見てからということになるかと思う。ただし、広がりの面において古文より現代語の方が取り込みやすく、仏教語が少なくて済んでいる良さもある。ただし、本当に伝えないといけないことがちゃんと表されているかという危険性あるので、諸刃の刃である。ご縁の薄かった方へのアプローチとしてはあり得る。結果を期待している(満井所長)

Q:その宗派の調査の結果が、広がりを持たないという結果が出たとしたら、修正をすることはあるか。

A:仮定の話なので答えられないが、各教区の学習会で混乱を招いていることは総局も憂慮している。それを受けて、唱和の進め方に関しては今後検討する。内容に関しては、現段階においてルールに基づいていく。宗規上、原則としてご消息に修正を加えるということはない(公文名総務)

法度

Q:「定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」ということが第三段に相当するのか。

A:私の想像の範囲内だが、ご門主様が、この度の「新しい領解文」の内容を説明されるときに「従来の領解文の良い伝統を継承した上で」ということを仰っており、その従来の領解文の良い伝統というのが「安心、報謝、師徳、法度」の4段だということを仰っているからには、具体的には、安心と報謝は第一段にあり、また報謝は第三段で語ることもできる。師徳は第二段にあるということになると、法度はどこにあるのかとなった場合、第三段の決意表明を法度という位置付けにされているのではないかとしか、私は思えないということ(満井所長)

2 新しい領解文の制定の経緯に関するもの

事実関係はどうなっているのか

Q:制定の責任者は一体誰なのか。宗門の方で、勧学・司教有志の会の声明、宗会での混乱など、いろいろなことが起こっている。オープンにされているところが少なく、本当のところが見えてこない。宗派、宗会、本山の方ではどんな決定・決議・議論になっているのか疑問に思うところ。総局の方ではどうお考えか。

A:事実関係を確認していただきたいというのが総局の姿勢の基本。ご消息発布に至るまでの経緯において総局の事務手続きには瑕疵はない。そこで大きな論点になるのは、ご消息発布の主体はあくまでご門主。だが、ご門主が発布されるまでに、勧学寮の同意を経てとの文言がある。これは、ご消息が宗意安心上の疑義が出ないように、勧学寮の同意を得ることになっている。この同意があって、その内容を尊重して総局が申達をして、その内容そのままに発布に至る。権限がないので、この内容に総局が疑義を挟むことはない。論点の一つが、その勧学寮の同意があったのか、なかったのか。これが今回の混乱の中大きな論点になっている(公文名総務)

Q:この問題の幕引きのシナリオができていたのではないのかと勘ぐりたくなる。総局の方ではどうお考えか。

A:これは「たられば」の話で、推測になるのでお答えできない。事実に基づいて判断をするしかないので、根拠のない推測を交えてお答えすることはできない(公文名総務)

混乱の責任

Q:この問題の責任は誰にあるのか。

A:総局には、申達をした責任はある。それで混乱を招いているということもあるから、そのことに関して総局は責任を感じている。だから、唱和100%についてどうするのか、周知徹底の推進の中身については、今後検討の余地があると考えている。企画諮問会議などで話題になってくると思う。そういうことを参考にしながら、総局としての方向性を決めていくことになる(公文名総務)

A:申達をした責任は総局にある。「新しい領解文」の今の混乱に対して各教区からご質問があり、説明会に出向している総務さんからは、理解を得られるための術が総局にないということも今の混乱を起こしている。みなさんに理解を得てもらうのに十分に力を発揮できないことによって、この混乱を招いている責任は総局にもあると認める発言もされている(中井部長)

Q:勧学寮と、勧学・司教有志の会の声明と隔たりがあるのはなぜか。

A:勧学寮と、勧学・司教の会とは、別の立ち位置をとっている。ご消息の同意は、勧学寮5名の方でされている。声明を見る限り、その同意に関しては、勧学・司教の会の方々は、関与していないと考えるべきではないかと思う(中井部長)

宗会の動向

Q:この混乱に対して、宗会や宗派ではどんなことが起こっているのか。

A:昨年の宗会において、15、6名の反対者はおられたが、今年度の基本方針として「新しい領解文」に学び、実践する、行動するということが基本方針で可決された。しかし、その後の学習会、各教区からのご意見を踏まえ、宗会議員78名のうちの約40名が、この宗派の基本方針の変更を行うべきだとの声を年末に向けてあげておられる。臨時宗会の召集要求は過半数が必要ということもあり、事務的な押さえも必要だったので、結果、宗会から過半数を超える召集要求は出てこなかった。しかし、来年度の基本方針に関して、この2月28日の定期集会で決定がなされる。そこで来年度の基本方針に対して、どのように総局が考えているかということを明日の企画諮問会議で必ず諮問をしなければならない。この状況の中で、来年の基本方針という一つの総局の考え方が明日提案されることになっている。その内容如何において、宗会でそれが議決されるのか、否決されるのかは、宗会議員さんがお考えになることだと思う。しかし、様々なところで宗会議員さんが仰っているのは、今まで以上に教区の方のお声を聞いているように見受けられる。特に、去年の定期宗会の折に請願が出された。それを15名の方の賛成のみということで、各教区の宗会議員でない方々から様々に「なんで賛成をしなかったのか」と、「なんで反対したのだ」との声を聞かれたと伺っている。結論としては、2月28日から開催される定期宗会の来年度の基本方針において、この学習会等々のご意見も踏まえた上での総局の来年の方針が出るという予定になっている(中井部長)

3 今後の課題に関するもの

勧学和上に対する懲戒申告の件

Q:今までの他教区の説明を聞いても、やはり総局の手続きに瑕疵はないという一点で来ている。しかし、瑕疵がなければ何してもいいのかということを申し上げたい。法規に則って瑕疵はないかもしれないが、だから「私達はあの指針に従うしかない」と言われるならば、瑕疵がないならば何をしてもいいということになりはしないか。実は自分が若い時、池田総長と何年間か研修会で一緒だったことがある。相当な切れ者でいらっしゃることに前からある意味では敬意を表していたし、今回のことがあって少し著書を購入した。『浄土真宗本願寺派 宗法改定論ノート』『現代真宗教団論』『現代社会と浄土真宗』。その中で現総長が仰っている。例えば、ユダヤ虐殺のときのアイヒマンという人が南米に逃げて捕まって裁判にかけられた。最後まで「私は無罪だ、私は命令に従っただけだ」と言った。あるいはエノラ・ゲイ、広島に原爆を落としたあのエノラ・ゲイの搭乗員が、「大統領の命令に従っただけだ、私は悪くない」と言って、悔恨の情も示すことはなかったという。もちろん池田氏は批判的な意味で、体制に巻き込まれてそういう過ちを犯してしまったということに対するブレーキとして考えなければならない、そういう例として出しておられるが、「私達のやっていることに瑕疵はない」「私達は粛々と宗法に決められたことに従うしかない」というところで、私は本当にそれでいいのだろうかということを思う。そこで、総長にお聞き届けいただきたいのだが、この『現代社会と浄土真宗』という、総長の著作の後ろの方に、いわゆる戦争裁判、東京裁判のことも含めて、「人類は、たとえ戦勝国となろうが、敗戦国となろうが、お互いを尊敬しあい理解しあうためには、戦争に勝っても負けても反省・謝罪できる、戦争とは本来罪悪であるとの共通認識をもたなければ、非戦平和の未来は開かれてきません」という素晴らしいことを仰っている。戦争じゃないですけど、私は今回の論争で、徳永前寮頭それから深川勧学和上に対して、何かどうも報復的な匂いを感じて仕方がない。できることなら、私は、あの申告は取り下げていただきたいと思う。これだけ宗門のことを思えばこその、仰ってくださった方に対して、こういう仕打ちをなさるというのは、総長、あなたが以前書かれたこととちょっと違いませんかと言いたい。そのことだけは聞き届けていただきたいということをお願いいたします。

A:仰りたいことはよく分かる。法というのは絶対なのかと。これはずっと課題であって。アイヒマンに対してハンナ・アーレントは、「アイヒマンの論理はおかしい。上から命令されたから、法規で決まっているから、その通りに従うのは絶対的な義務である、というのはおかしい」ということで展開したと認識している。今回、私もそれは考えた。ここで「私の…」という風なことを言うわけにはいかないので、そのことが重要な課題であるということについてはしっかりと受け止めさせて頂きたい(公文名総務)

問題解決に向けて、宗会選挙の意義

Q:手続きに瑕疵がなく、宗規に基づく制定なので、変更や取り下げはできないことは理解できた。では、唱和の推進方法を変更するためには、教区選出の宗会議員に唱和を推進することに反対するようにお願いをするか、唱和を推奨しない宗会議員を推して、宗会を変えていくしか方法はないのか。

A:宗会議員は各教区のかけはし、声を中央に届ける人。いち宗務員が言うとあとで宗会議員さんに怒られるが、やはり選挙制度というものがある以上、それは当然、選ばれし方は教区の意を表する方が出てくるべきものだと私は思う。選挙制度があるので、そこでしっかりと、それぞれ各教区のお考えというのが反映されるべき方が宗会議員だと私は思う(中井部長)

参加者の所感

所感A

「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」に関する説明は、他教区と同様、出拠として『論註』を挙げ、そこから約仏の仏徳讃嘆として展開したものだという。しかしこれは、同じ『論註』の「仏よりしていわば…、衆生よりしていわば…」という他利利他の論理に照らして問題があることにならないか。満井和上の回答にある「主客の混線」「検討の余地がある」という言葉から、やはり問題を認めておられるという印象を受けた。新しい領解文の文章自体、仏しか語りえないはずの言葉(唯仏与仏の領域)を語る主体の座に、なぜか私たち衆生が着くような形になってしまっていると感じる。もしそうなら、これを唱和しろということは、お前もここに座れと言われているようなもので、深刻な問題であろう。他教区学習会での話によると、「私は、これは受け容れられない」と言って辞職された宗務員の方がおられるとのこと。衆生に信知できない(=受け容れ難い)ことを衆生の私が語るような表現が、なぜ唱和を前提にした文言に入っているのか。こうしたことが、取り返しのつかない事態を招いた一つの要因になったのではないか。他に様々な問題が指摘されていることを見ても、「新しい領解文」が「宗門の英知を結集」して作られたものであるとはどうしても受け容れ難い。この混乱が無意味に終わらないためにも、問題収束の暁には、本当に「宗門の英知を結集」して作られたものだと、私たちが心から胸を張れるような言葉が出来ることを願う。最後になるが、お二人の勧学和上に対する懲戒申告の取り下げを願う意見が出た際、拍手が起こった場面が印象的だった。こうした願いが無視されたまま手続きが粛々と進められるようなら、いよいよ宗門のやり方に対する反発、失望は深まり、私たちの宗門に未来はないのではないかと強く危惧する。

所感B

この1年、宗門内でこれだけ唱和反対の声が上がっていながら、それが顧みられることなく唱和推進が強行されてきたように思う。そのことで露呈したのは、実は、私たち門末の大半の感覚・考えと、多数派にいる宗会議員さんの行動原理とが必ずしも一致していなかった、という実状ではないだろうか。お叱りを受ける覚悟で中井部長が回答された「やはり選挙制度というものがある以上、それは当然、選ばれし方は教区の意を表する方が出てくるべきものだと私は思う」という言葉に、今回の混乱に対する自身の責任を改めて感じた。こうした問題を繰り返さないために自分に出来ることは何なのか、宗会選挙を前によく考えなければと思う。

所感C

新しい領解文は、拙速な進め方によって制定されたように感じる。「新しい」という表現に関して言えば、現在を生きる私たちにとっては新しく出されたものであっても、100年後の方々にとっては全く新しくはない。名前の付け方ひとつとっても、とても熟議を経て制定されたものとは思えないわけである。わかりやすい言葉とわかりやすさに関しても別物と思う。



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