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和歌山教区学習会、質疑応答

2024年2月7日に開催された和歌山教区の学習会より、質疑応答の要約を記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


阿弥陀様のはじめは

Q 阿弥陀様のどこを指してはじめとされるのか。

A 本来というのは、我々の自覚以前と考えたらどうか。例えば十劫なのか久遠なのか、そういう時間論で申し上げるのではなく、私たちの自覚以前においてということなのか。(満井所長)

Q 十劫安心という異安心の方によって聞こえてしまう。無帰命安心と仰っていましたが。文言が誤解されていく、後々もやっぱり問題になっていくと感じる。

A 本来という意味は時間論ではなく我々の自覚以前という事でご理解いただきたい。ただご指摘のとおり、十劫安心、無帰命安心など様々な異議にきちんと水際を立てられるような説明を、私たちはしていかなければならない。学習会もそのためのもの。異議との違いは明確にご理解いただきたい。(満井所長)

勧学和上方の中で賛成と反対がある

Q 勧学和上方の中で賛成と反対があると聞いた。勧学和上を監正局に訴えたことも聞いた。この話の方が問題。誰に責任をとらせるのか。自分たちでもめた話をご門主まで持っていかないで。
Q(関連質問)深川和上が監正局へ申告されたと報道があったが、それは事実なのか。申告人の総局員はどなたか。具体的な内容はなにか。総局の総意なのか。この4点をうかがいたい。

A 責任について。発布はご門主より発布される、宗務行為の責任は申達した総局にある。ただし内容は勧学寮の責任だと認識している。深川和上が申告されているという事は事実(公文名総務)
A 申告は事実。総局会議を経ての事。内容などは審査が確定していないのでコメントは差し控える。(中井部長)

権力者がごり押ししているように見える

Q 聞いていると責任の押し付け合いを見るようで情けない。権力者がごり押しをしている。そういう風にしかとれない。このようなやり方は、本来一般社会では通用しない。間違えがあれば立ち返れば良い、疑問があれば止まって考えれば良い。こういう事をしていると、浄土真宗本願寺派自体が将来どうなっていくのか。心中でおかしいと思っていても立場があるから言えない、となればそれは自分たちの勝手。

A 厳しくご意見を受け止めた。現代版領解文は2005年に宗門長期振興計画で制定が掲げられた。依頼なかなか制定がされず、総合計画として引き継いで、結果ご消息の発布となった。決して唐突に出たものではない。(公文名総務)
A 総局側が勧学寮に同意するように働きかけた事実はない。得度式では新しい領解文が用いられている。決定権は内局なのでご意見は本願寺にもお伝えする。(中井部長)

納得できないものを説明できない

Q この領解文は新たに領解文として作ったもの。従来の領解文と別のものか。領解文とは真宗の救いに出遇った喜びが口から出てくる言葉だと聞かせていただいた。凡夫の口から「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」などとはとても言えない。おかしいと思う。そもそも必要なのか?よけいにわかりにくくなっているのに。納得できないのに説明もできない。どうしたらいいのか。

A 仰るように私たちは地獄一定の泥凡夫そのもの。仏様のさとりの内容をあれあこれ斟酌できる立場ではない。「如来の作願をたづぬれば苦悩の有情をすてずして」である。阿弥陀さまがなぜご本願をお建て下さったか、そのいわれを考えると、救い難い私があるという事。それはご質問された方の仰る通り。このご和讃は続けて、「回向を首としたまひて大悲心をば成就せり」とある。これは先ほどの講義で説明した部分で言えば、智慧の眼で私たち凡夫をご覧になって下さったゆえに、お慈悲として働いている。その回向法の根源までたどる事のできるご教示だと受け止めている。そうでなければ、生死即涅槃は証知である内容の事を私の側が凡夫の側で語って良いのかという問題と同質になる。証知と信知の区別はしっかりしていただきたいとどの教区でもお伝えした。ただ、回向法の根源というものを私たちはどこまではたしてどこまで意識して、理解しようとしていただろうかと考えた時、この一文は他力回向法の根源まである意味ふみこんでお示し下さったものと私は受け止める。(満井所長)

ご門主の心をくみ取る

Q ご門主の心意をくみ取りましょうと仰るならば、ご門主に直接お尋ねされる方が間違いないのではないか。推察で説明されてもまったく納得いかない。ご門主にも心変わりがあるのではないか。慶讃法要では毎座仰っておられたのに、ご正忌報恩講ではご門主は一言も仰っておられなかった。新しい領解文ではなっかたと心変わりがあるかもしれない。そのこともくんでいただきたい。

A いずれにしても、どちらも推察にしかならない。ご門主はご正忌報恩講で新しい領解文の推進はたしかになさっておられない。だけど例えば、「執われの心をはなれます」というご消息に書かれてあるところの誤解を解きほぐしたいという思いは随所にあらわれているのではないか。(あくまで推察)「これまで自己の執われに無自覚であった者が、執われに縛られている自己であると知らされ、執われを離れようと意識させられ、その意識が毎日の生活に影響を与えるということです。」というご説明は、この度の御消息の中で「執われの心をはなれます」という一文について、多くの方の誤解があるという事を受けられての、ご門主のご説明ではないかと思える部分がある。そのように例えば今の文章一つについても、私はそのように理解をするす。それぞれの受け止めがある。(満井所長)
A ご門主のお心を軽々しく言うことはしかねる。(公文名総局)

本願寺の教学顧問が監正局へ申告される異常事態

Q 本願寺の教学顧問はどなたか。

A 本願寺に教学顧問があり、三人のうち一人に深川和上が就任されている。(中井部長)

Q この新しい領解文についてご門主から深川和上はご相談を受けたのか。教学顧問が申告されるとはどういう事か。ご門主はどのようなお気持ちか。

A 無回答

Q 勧学と司教の任命は総局か。

A 実際に司教を選出するのは、この方が適正かどうかと学会審査会が判断。勧学を選ぶのは事務処理は総局が行うが推薦などのすべての権限があるわけではない。(中井部長)

Q 徳永寮頭が辞任、石上総長も辞任、これは辞任して終わる問題なのか。後の総務は大変。異常事態としか考えられない。

A 異常事態だと認識している。ご消息が昨年発布されてから今日に至るまで混乱しておるという事は、総局も深く認識をしている。受けとめて総局としてできる事はやっていくと認識をしている。(公文名総務)

Q この時の議事録は開示されるのか。

A 勧学寮は開示を考えていない。(中井部長)

Q 考えたのはご門主か、元総長か。勧学は協議したのか。勧学寮が同意したから総局は関係ないということか。

A 現代版領解文を制定するにあたっては、ご消息でお願いいたしますと、ご門主へ総局がお願いする。その上で、このご消息の内容の文章が内事部から開示される。その策定については総局は関わっていないので、ご門主の方でお考えいただいたという事になる。その上で、勧学寮にこの文章でよろしいですかと総局から確認をお願いする。五人(徳永和上、浅田和上、太田和上、相馬和上、林和上)の勧学寮員が寮員会議において協議をされた結果、その文章を認めるという返事がきたので、総局が申達をして発布を行なったということ。ご消息の申達については、申達した部門が責任を負うと明記してあるので、責任は総局にあるという事になる。(中井部長)

Q 総局は再度考え直すという事はないか。勧学方が反対している現状がある。

A ご消息の取り下げは法規上ありえない。(公文名総務)
A 総局の説明としては、ご消息なので訂正は考えていない。(中井部長)

ご消息の出し直しは可能か

Q ご消息は取り下げはできなくても、出し直しはできるのか。なぜ立ち止まれないのか。組織としてダメ。

A ご意見を持ち帰ってしっかりと検討したいと思う。(公文名総務)

混乱を放置すれば現総局の責任

Q 原案が手続きに瑕疵なく制定された。ところが読めば混乱する。放置したら今の総局の責任。それがなかったら本願寺派は未来をなくすのではないか。

A 非常事態と受け止めている。当局としてしっかりとできる事は検討していく。(公文名総務)

迷悟は二つか一つか。空見と我見。

Q 迷悟の分別について。迷いとさとりとは二つであるということと、迷いとさとりは二つでないということがある。親鸞聖人は迷いとさとりは二つでないというお示しはあるが、全体としては迷いとおさとりとは、二つであるというお示しが中心だと思う。讃岐の庄松同行が「あなたの領解を言ってみなさい」と言われた時に「庄松おまえを助くるぞ」とそういう風な領解を述べられた。「お前を助ける」という、その一言で、庄松はご信心を歩みをいただいている。この新しい領解文では、すごくむずかしくなっていると、よけいにわかりにくくなっていると、こういう風に思う。その所はどういう風にいただいたらよろしいか。

A 庄松同行の話、様々なお聖教もすべて「この庄松を助ける」とのお示しであると受け取られた。庄松同行のお領解の素晴らしさというものは、もちろん同感する。一方で、庄松同行のエピソードについては、領解を聞きたいと言われたいわれに「私ではなくて仏さまに聞いてくれ」というような対応を取ったと伝えられる。つまり庄松同行は、まさに末代無智の在家止住の代表だという領解。その在り方の尊さには私も同感する。結局、本来一つというのは、宗祖親鸞聖人の上においても、生死即涅槃としての本来一つは出拠もある通りお認めだが。ただよく似て非なるものとして、いわゆる天台本覚論になると、今度は親鸞聖人の対応も真逆になる。つまり単純な現実肯定にあるところの天台本学論に座してはならない。「外儀は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり」と悲嘆されているありようの中に、天台本覚論の内容が説かれている事は、やはり生死即涅槃であるかぎりにおいては、宗祖はその心を共感し、お正信偈でも賛辞されているが、これのことを親鸞聖人は同時代の天台本学論と同質になってはならないというご注意もある。したがって、今のご意見は「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」という事は、生死即涅槃とする尊い意味があると同時に、危ういところもある。それを私は無帰命安心として皆様からご理解をいただきたい。それぞれに学んでまいりたいと思う以外は、いまここで申し上げる言葉を持ち合わせてない。最後の確認、私たちのご法義は為凡の教え。凡夫はいかにして救われていくかというありようをこの事一つで受け入れられないものには論理をたどっていきたいという思いもあるだろう。それぞれに為凡の教えを自らの者として後生の一大事として受け取っていくありようを私ももちろんですが、みなさまもどうか宜しくお願いしたいと思う。十分な答えにならないが、仰っておられる事については共感する。(満井所長)

Q もう一つ我見と空見の問題について。どちらか一方しか見ないという偏った見方は当然誤った見方。だから道綽禅師は「我見は須弥山のように大きくても仏陀はこれをおそれない、空見は芥子のように小さくても仏陀はこれを許さない」とお示しになられた。「本来一つゆえ」という表現というのはやっぱりこれは空見の方から見た言い方ではないか。

A かなり高級な質問をいただいて返答に当惑する。たしかに生死即涅槃であったり、あるいは同様の言葉に煩悩菩提体無二というものがある。一般的に空思想あるいは如来蔵思想から来ると考えられているので、空的な色彩は強い内容を持つかもしれない。我見と空見で対比をされたが、龍樹菩薩は有無の見を破された中論中道というありかたから、空の思想はなされてきたという事もあるので、ここで言うところの空見と龍樹菩薩が仰ったような空の考え方は言葉は同じでも表している内容は同じではないと私は考える。(満井所長)

Q これは領解文ですから、空見の見方はおかしいのではないか。

A 生死即涅槃の道理を表わすで言うところの柔軟的な空と、我見空見であるところの偏った空見とは異質であるという事を再確認させていただきたい。これほどまでにかなり難解かつ高級である事は、回向法の根源を表わそうとされているという事の意義や意味をもう少し平易に簡潔にお伝えするべきであったと反省する。(満井所長)

意見

・本願寺のガバナンスの欠如を感じる。話にならない。

・[提案]総局は解決できると思っていないのですね。今後も同じような問題が起こるかもしれない。一番苦しまれるのはご門主。みんなが集まって協議できる機構を作っていただきたい。



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