小説:嘘つきは飲んだくれの始まり

「あたしね、今日死んじゃうかもしんないんです」

僕の後輩はまるで愛の告白をするように言った。

「あーはいはい。そういうの聞き飽きたからさ。」

彼女がこのような冗談をいうのは珍しいことではなく、母親が夕食の献立をどうするか聞いてくるぐらい頻繁なことだった。
可愛らしいを通り越してもはやうっとおしいまでの彼女の冗談は、発せられるたびに僕を翻弄した。

「もうあきたよ 君の嘘は。」

「えーひどいですよ ほんとのことなのに。」

そういってニヤリと笑う顔を何百回と見てきただろう。
始まりから、彼女の嘘にろくなものはなかった。



数ヵ月前、僕が所属している天体観測サークル「星ミタイ」の新人歓迎会のとき、彼女は初対面の僕にいきなり

「あたし、酔っぱらうと誰彼ともなくキスしちゃうんです。」

と言った。僕は彼女の艶かしい唇に見とれてしまい、まだ酒も飲んでいないというのに心臓の鼓動がドンドコと強く波打った。
こんな好機逃してたまるか。
僕は彼女の言葉を信じ、ごぼごぼと溺れるようにビールを飲む彼女の隣を一次会が終わるまでキープし続けた。
しかし、彼女は相当酒が強いらしく、ジョッキ八杯目を飲みきってもケロリとしていた。
明らかに異常な彼女のペースに合わせていたらキスどころではなくなると思い、僕はジョッキ一杯目を飲み干したあと、ジンジャエールをちびちびと口にする程度だった。
彼女はせこせこと小賢しくソフトドリンクを飲み続ける僕の姿を見て一言、

「似合いますね。」

と言った。

二次会へと進み、そこでも彼女のペースは乱れることはなかった。僕の他にも少なからず「酔い絡みキス」について聞いていた男もいた。

そいつらは僕と同じように彼女の前や隣を陣取ってはいたが、彼女の妖怪のごとき酒飲みっぷりにさめざめとして、二次会が終わる頃には彼女を付け狙うのは僕だけになっていた。

結局その後の三次会でもキスをするどころか、酔う素振りすら見せなかった。
意地になった僕は彼女を二人きりの四次会に誘った。
時刻はすでに午前三時を回っていたが、彼女は嬉しそうに「いいですねえ!」と答えた。

時間も時間なので、四次会の会場は僕の家なった。
家に誘うなんてもう思惑バレバレやんけ、というかキスどころかもっと踏み込んだところまでイケるのでは?考え、でもさすがにそれを予期されて断られるのではと覚悟したが、彼女は腹部を押すとなるぬいぐるみのように「いいですねえ!」しか言わなかった。

友人が宅飲みで残した酒が貯まっているからと言ったのにも関わらず、彼女は帰り道のコンビニでビールやらチューハイやらを籠に溢れるほど入れ、レジへ持っていこうとした。

誘ったのは僕だし、それに僕は彼女にとって先輩だ。ここは僕が出すよと彼女の手から籠をひょいと取り上げ、会計をした。
週四シフトで行っている居酒屋のバイト一日分程度の金額が僕の財布から消えていき、心の中でこれはこれから先に来るであろうキャッキャウフフな生活への支払いだと自分に言い聞かせた。


大学に入ってからろくな女性経験もないまま一年が経ち、僕もそろそろ本気を出すかと飲み会で積極的に女性に声を掛け始めた時にはすでに何もかもが遅かった。同学年、上級生の可愛い女性は大体似たようなイケメン風の男に奪われ、気が付けばもっさりとした腐敗臭を漂わせる男たちのグループ、通称「ムッツリホモ疑惑の会(以降、ムツホ会と称する)」に入れられていた。もちろん、僕は男性を好むような趣味はない。そこは強く主張しておきたい。

ムツホ会は童貞の男たちが学食の食堂に集まって様々なことについて議論をするというだけの会だ。
ムッツリならわかるが、なぜホモという言葉まで名前についているかについては僕が知るよしもなかった。

僕は「ムツホ会」からの脱退を常々考えていた。
具体的にどうやったら抜けるのかはわからないが、会員とそうではない人達の違いはハッキリしていた。
そう、女友達、もしくは彼女の有無である。


僕は焦っていた。同級生、上級生への道が破壊され尽くした今、残されている道は新しく入る下級生のみとなっていたからだ。
後輩は果たして条件の一つになり得るのだろうか。友達?いやしかし、と悩んでいた矢先に巡ってきたこの好機。
逃してなるものかと、ずっしり重いレジ袋を手に下げて夜も更けて明るんできてた空を見上げ、決意を固めた。


家についたのは三時半、明日は日曜日。
テーブルの上に冷蔵庫で冷やしていた缶ビールを二本置き、お互い正面に座った。
ぷしゅっと気持ちのいい音が同時に部屋の中で響いた。

そこからが彼女との戦いであった。
五百ミリリットルの缶ビール、酎ハイ、日本酒、ワイン、酒という酒を飲み干していく。ちゃんぽんは酔いが回るのが早いというが、そんな欠点すらも僕にとっては好条件として捉えることができる。
さすがの僕もここまで来てジュースでしのぐのは彼女に申し訳ないと思い、正々堂々、酒を飲んで彼女と張り合おうとした。

もうすでにジョッキを何個空けたかわからない彼女はさすがに少しペースが落ち始めていた。
あと少し、あと少しだ。
あと少しでばかばかと酒を飲んでいた彼女は酒に飲まれるだろう。

そう思った直後、僕の記憶は途切れていた。



意識がはっきりした頃には、部屋の中に彼女の姿はなかった。
え?え?と、まるで突然発動したタイムリープに困惑し、お、俺にこんな力が、いやそんなはずはと頭を抱える主人公のように、僕は現実を受け入れることがなかなかできなかった。
テーブルの上には昨日まで冷蔵庫をはち切れんばかりに詰めていた酒の缶が中身をなくし、エジプトの歴史的建造物「ピラミッド」のごとく丁寧に積み重ねられていた。
一体何があったんだろうか。
とりあえず、僕は内側から沸々とわいてくる異物感を取り除くためトイレの扉を開けた。

彼女がいた。
長く美しい黒髪を乱し、便器に顔を突っ込んだまま、眠りについていた。
それを見て、危うく彼女へ向けて昨夜の産物をぶちまけてしまうところであったが、グッと飲み込んだ。
しかし、僕に気づいた彼女は僕を見上げるやいなや、溜まりにたまっていたであろう酒の絞りかすを便器の中でなくあろうことか佇む僕の足元にぶちまけてにこりと笑っていった。

「あたしを酔わせることは出来ませんでしたね。」

酔わせていないのだとしたら、今僕の足を汚物びらしにしたのは誰なのだろう。
まあ酔っていたにせよ、いないにせよ、彼女が僕にキスをしていないのは彼女の一言によって明白になった。

「久しぶりに楽しい夜でした。また飲みにいきましょう。」

そういって、彼女は帰っていった。
ボウっとした頭でも浮かんできた言葉を、酒焼けした喉を削るように叫んだ。

「二度と行くものか!!!」



それからというもの、僕らはサークルの飲み会の枠から外れ、二人きりで毎週飲んだくれた。しかし、彼女との仲がサークルの後輩からグレードアップをすることもなく、もはや惰性と言われても首を横に振ることはできなかった。

もちろんキスされることもなかった。それどころか、彼女はこの惰性の飲み会を続けるような新しい嘘を重ねた。

「あたし、バーで一緒に飲んでる人のことうっかり好きになっちゃうことがあるんです。」

やら

「美味しい店知ってる男の人ってほんとに素敵ですよね」

やら。僕は彼女の言葉を信じきり、陰に隠れる彼女の要望をきっちりと叶えてきた。
けれど、結末はどんな状況でも始まりの惨劇に帰結する。
毎回毎回、彼女の吐き出したものを掃除しているうち、僕に特殊な性癖でもあればこの状況はこの上ないご褒美なのではと考えたが、誠に残念ながら僕にはその境地に達することなど出来そうになかった。
もう終わりにしよう。
まるで長年付き合ったカップルの別れ話のような言葉が何度も何度も頭によぎったが、帰り際に見せる彼女の妖艶な笑みを見ると何故だか言う気が失せてしまった。
ぐるぐるぐるぐると堂々巡りする思考ばかりに気をとられて、気が付けば季節の方がぐるっと巡っていた。
彼女とはかれこれ一年の付き合いとなった。



「で、今日はどんなところがいいの?」
僕が呆れたように聞くと、つり上がっていた口角をさらに高めて

「先輩の家がいいです。」

と言った。

「はいよ。んじゃコンビニ寄りますか。」

この河川敷の道に沿っていけば、ちょっとした商店街があるからそこでまたたらふく買い込めばいいだろう。

「もうちょっと動揺してくださいよ! 死ぬんですよあたし!」

「ええ…なんでそんなに怒る?」

持っていたバッグを力一杯振り回し、僕にぶつけた。
ボグゥっと鈍い音がなった。僕の身体から。

「先輩は本当にあたしを信用してないんですね!」

「だって君のそういう発言が本当に起こったとこ見たことないし」

彼女が発してきた冗談に、僕は何百回と騙されたことだろう。

「今日はほんとに起こるかもしれませんよ! 」

「じゃあなんでそんなにあっけらかんとしてんのさ」

「死ぬ前まで先輩と飲んでいたいからですよ。」

彼女は夕焼け空へ向けて、ささやくように言った。
オレンジ色の光が彼女の顔を覆って、表情は見えない。

「泣いてたら、先輩絶対に気使うでしょ」

「僕のことわかってるね」

草むらからコオロギの声が聞こえる。姿は見えない。

「夜通し飲めばさ、明日なんて来ないよ。」

振り向かない彼女の手を握って、家まで歩いた。
そして、いつも通りの惨劇があった後、彼女はぐったりとする僕の隣で静かに眠りについた。

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