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利益に繋がらない広告は悪なのか。


「人気youtuberに宣伝してもらっているので広告はいらないです。」
この言葉のとげが刺さったまま抜けない。

何だろう。バズっているyoutuberに告知してもらうことは
手法としてはあるだろう。それが自分の事業に関連する配信者であれば
なおさらだ。ここについて否定する気持ちはない。
なぜならそれは手法の一つだからだ。

ではなぜ胸に言葉が刺さってしまったのか。
それは言葉にすると以下のとおりになる。

メリット・デメリット
【◎】かける費用に比べて爆発的な拡散力を期待できる
【×】ブームを考えるとすこし遅い気がする。
【◎】興味がある人にのみ発信できるのでターゲットを絞れる
【×】対象が日本全国になり、今後のリピーター客になるかどうかは不明
【◎】来店する人たちから口コミで宣伝が広がることを期待できる
【×】視聴者に好意的に見られるかどうか?は不明
【◎】広告希望者にとって好きなタイミングで発信できる
【×】配信者の炎上やアカウント削除などリスクがある

↑これらのメリットデメリットを理解したうえで利用しているのであれば
何も言うまい。事実、かけた費用に対する効果は相当なものがあるだろう。

【×】爆発的に発信することで来店者が激増して対応が煩雑となり、
顧客への対応が雑になってしまう。

【×】オープン直後の爆発力に期待できる一方、一時のブームで終わってしまう可能性が高まる。

ぼくは広告を仕事するひとりとして、確かに爆発力や発信力について否定するつもりはない。地方に住んでいると、そういった発信力に期待する一部のクライアントがいることも理解できる。だが、それが全国的なブームになってTVや雑誌などにさらに紹介されるような人気店になれるかどうか?は、結局のところ店舗のコンセプトやサービスが「全国基準」に達している場合に限定されるような気もしている。

いや、地方都市のお店が全国レベルに達していないと決めつけているわけではない。むしろそういうブームを作ってくれた方がありがたい。地方の賑わい創出とは時にそういった意外性による爆発力によって創出されるからだ。

しかし。しかしである。特にニューオープンのカフェ(今回の場合はドッグカフェではあるが)となるとどうだろう。一見してとても広いお店ではない。現に、今、来店者が急増していてあまりに忙しくて追加でPRするつもりはないという。そりゃそうだろう。人気youtuberに宣伝してもらった。来店者が急増した。それは宣伝効果はあった。だが、それがずっと続く保証はない。
 
どうしてもひがみに聞こえるかもしれない。なぜ地方の広告媒体を使わないのかといいたいというスタンスは否定しない。同じ地方都市に暮らすものとして、応援したい気持ちがある。その気持ちを無下にされたような気持になっているだけだ。応援したい気持ちはあるのに。

応援する気持ちがあるならそれを無料でやれという人もいる。だがさきほどのyoutuberと同様にそれをわたしは理解できない。

同じ地域を盛り上げたい気持ちを持つもの同士でなぜ争わなくてはならないのかと思っている。お金を儲けるという行為を応援するサービスを提供する側として、その対価としての広告費をいただくことになぜ「不要である」と言えるのだろうか。

先ほどの例で言えば、人気youtuberにすでに「支払ってしまい」、すでにたくさんの利用者がいるので、これ以上広告を出す「余裕がない」というのであれば理解できる。そりゃそうだろう。だが、冒頭の言葉からは、「今の時代はネットで広告することが正義で、紙媒体はオールドメディアで不要である」という考え方がにじみ出ていると感じてしまう。

百歩譲って、この意見は「紙が不要だという意見ではない」としよう。ドッグランをメインとして考えているクライアントとしては、ドッグランを必要とするユーザーは日本全国にいて、それらのユーザーを相手にしたいのであって、地域にはドッグランを必要するユーザーが多いとは思えないという論法であればなるほどその通りだなとは思う。そもそもがそれほど多くはないドッグランを利用したい客を全国から募ることは理に適っているとすら思うからだ。

だが、同時に地域に発信する必要はないとする論調はどうだろう。地域にドッグランを使いたいユーザーはいない。いたとしても少ないだろうとしている判断は果たして正しいのだろうか。確かにドッグランは、長距離でペットとドライブをしているユーザーが、遊ばせる場としての利用がメインであると考えれば、地元にいる顧客はせいぜい散歩で「賄えてしまう」ため、よほどのことがない限り「お金を払ってまでドッグランを利用する」とは考えにくいのである。

いずれにしても、冒頭の発言に関しては納得できる部分は多い。一方で、僕はその発言をしている人の中にある「紙はオワコンだ」という意識のほうにこそどうしても看過できない思いを抱えてしまっていることも事実だ。

ここは自分がそういった仕事をしているからという理由にもなる。つまり、自分自身が否定された気分になってしまうからだ。必要ないものにお金を払いたない気持ちは理解する。誰だってそうだろう。必要ないものを欲しいという人はいない。ネットを含む他のサービスをすべて試してもダメでそれでも広告を考えた時に、これまで考えたこともないような紙媒体に出稿を検討するケースが多いこともそういった考え方になる理由のひとつだ。

つまり、いろいろ試した人でないとたどり着かない。最初から紙媒体の優位性を理解する人は少ない。ここにライバル紙があればなおさらその選択肢は約半分になる。ライバル誌がより広く、安く提供している場合はなおさらだ。

その点について当方の媒体の確かな優位性を見出すことは不可能である。
事実、私達の媒体は、ライバル誌よりも配布数が少なく、やや高価な価格設定をしているからだ。

そこに優位性を感じてもらえない場合も往々にしてある。その場合は潔く諦めるしかない。価格面や配布エリアについては自分ではどうしようもないからだ。そこにわたしがここ数カ月悩まされている苦悩の根源が存在する。

いやむしろもっと問題は単純かもしれない。単に、私が提供するサービスにお金を払うだけの魅力を感じてもらえないからだという論調だ。いや、言い換えれば、私がそのサービスの正当な価値を説明できていないパターンである。他人の意見を変えることはできない。だが、自分の中の考えを変えることは不可能ではない。

しかし、しかしだ。ここについてもわたしは何度も壁にぶつかっている。自分が考えている「メリット」がジブンヨガリの個人の意見になっている可能性だ。

そこは、、、否定できない。なぜなら、広告は絶対に反響がでるものでは決してないし、ネットサービスのように反響が目に見えるわけではないからだ。そういう意味で「無駄だ」と断じられ、忌み嫌われるのも理解はしているつもりだ。

だが、これを私の仕事としている以上、そこに無駄であるというレッテルを貼られることは我慢ならない。たとえそれがその人にとっての感想だったとしても。だからこそいつも私は「無駄だ」という意見と真っ向から戦うことになってしまい、疲弊する日々なのである。

「戦わずに、共存できる道はないのか?」
まるでもののけ姫のアシタカのような感想がたまに頭をよぎる。
また、私個人はこうしてブログを書いているように、ネットが好きだし、
SNSも好きだ。なんなら、TIKTOKは愛していると言っていいし、
youtubeも、今聞きながらこの文章を書いている。
かなりのヘビーユーザーである。

そういうバックボーンを説明する機会がほとんどない。
そういう意味で、初めて会うようなクライアントにわたしの
パーソナルを理解してもらえると思う方が間違っているし、
説明したところで、それは「僕の感想にしかならない」のだから、
詮無き事なのである。

だが、そうわかっていても、成績は上がらず、会社からは成績の悪さを「責め立てられる」し、クライアントからは「オワコン扱いされる」。
まさに四面楚歌という状況にあるわけだ。

わたしも仕事をしている一人の人間として、この状況をどうにかしたい。
どうせならしっかりとクライアントに向き合って利益を上げて
会社にもクライアントからも認められたい。それを願っている。
なにも自分だけがwinとなるような、一方的なテイカーをしているつもりは毛頭ない。

だが、テイカーに見えているのかもしれないとここで思った。
相手の利益を考えずに、自分の利益だけを追求して
「売れもしない広告を売りつけている」と思われている。
もしかしてそこにこそ問題の本質があるのかもしれない。

カタチがないサービスではない。紙という形がある。
そういう意味で言えば、youtubeのほうがよっぽどカタチがない気もする。
いや、動画という見えるカタチがあるといえばあるか。

いずれにしても、こういった業態が、今令和の時代で
あまり好まれていないということは知っている。広告は嫌われている。
それは言われなくてもyoutubeで広告をスキップしている自分を思い出せば
理解できる。

だが、広告とは本来、広告主のニーズを満たすものである。
広告主は自らの資本力によって、媒体を介して一般ユーザーに広く告知する。それは利益増のためである。そのための作戦を提案できていない自分に非がないかといえば、それはそのとおりであったりする。

しかし、アドマンが課題解決営業として活動するためには
まずお互いの信頼関係という土台がないことには始まらない。
課題解決に必要な要素のほとんどは、クライアントの考え方にあることが多い。もしくは知識量。または情報量と言ってもいい。

それらを改善しようとすれば、その人のパーソナルな部分に言及する必要が出てくる。そうすると考え方を変えられないという大きな壁にあたる。その壁を超えることができるとすれば、絶大なる信頼関係があり、さらに実績という揺るぎない自信と実力がある場合である。

私にはそのどちらもまだはっきりとあると言えない。だから強くいうことができない。その点について自覚はある。上司の言うこともわかる「結果を出せ」そうしたい。だが・・・。

一方で精神論で解決しようとしたこともある。「前向きに頑張ればいつか報われる」というものだ。報われることはたまにはある。ないわけではない。だが、3ヵ月に1回とかそういう低頻度である。それでは先にこちらが参ってしまう。この点について理解されないことはとてもつらい。

地域性について説明を試みたこともある。だが、それは理解されなかった。結局のところ「結果が出ていないのだから、頑張りが足らないのだ」という頭ごなしの否定につながっただけである。そうして今のぼくがいる。

頭の毛は薄くなってしまった。気力もない、いつも疲れた顔をしている。自分に自信を持てという割に、自己否定をしてくる上司。その上司と面談するたびにぼくは自信を喪失してしまう。喪失した自分を奮い立たたせながら一件、また1件と面談するがそのたびに「紙はオワコン」という意見を浴びせられるのだ・・・・。

この袋小路は入り組んでいる。過去に同様の問題に直面した時。ぼくは突破できずに逃げてしまった。あれから10数年。また同じような問題に直面している。問題から逃げてもいい。だが避けた問題は必ずもう一度見つめ直す時期がくる。それが今だというだけだ。

利益に直結する広告とはなんだろう。冒頭のようなyoutuberによる宣伝だろうか。自社媒体よりも安価に広く広告できる媒体だろうか。そのどちらも正解だろう。それならば、我が自社媒体の生きる道は一体どこにあるのだろう。そこの答えを見つめることはとても暗く、深く、そして絶望と隣り合わせとなっている。


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