本当の因果応報らしきを考えて。

最近は、眠る時間が早いので、未明に起きてネットを見たり、ベッドの中で、とりとめのないことを考えたりしている。

自分は、この「考える」時間が大好きだ。それは、誰かの非難や恨みつらみではなく、3000年後の東京の公共交通機関のことであったり、人間は、という主語のあとにはなぜ「不条理」なのか、また、SNSのコメントの人たちは、興に乗って簡単なことをどうしてつぶやけるのだろうとか、、。

どっちが健全かは少しいろんな意味で微妙だけれど、批判になってしまったら申し訳ないが、たった今、この時間に住む家もなく、厳冬の夜の街でダンボールにくるまって眠っている人たちや、深夜の道路工事の交通整理で働いている人、あるいは、昨年のクリスマスに聴いた、エチオピア飢餓のチャリティーレコードの世界etc.もっと、世の中で、大変な目にあっている人に想いを馳せることとかないのだろうか。

中島らもが、この世をジャッジしているレフリーは、因果応報にかなって正当なレフリングをしてくれないという。だからお酒の飲み過ぎでγ-GTP4000台で入院した彼は生き延びて退院して、なんの罪もない、毎日一生懸命生きてきた人が、病魔に襲いかかられて隣のベッドで顔に白い布をかけられていく。そこで、彼も改心して生きることにしたらしい。

入院した隣のベッドの人が死んでいくことで悟るのも間違いではないし、自分みたいに、身内でもない、自分がただ生きていく上ではなんの関係もない世の中の本当に困っている人に、未明に目が覚めて、ベッドの中で想いを馳せるのも、決して無駄ではないと思う。

ストレスなのだろうか、社会全体のストレス。そういった全体的に鬱屈したムードが、個人に現れるのが、さっき言ったSNSのコメントのような人が典型的な例。

基本、自分だけが良ければいい、自分だけがストレス発散できればそれでいい、そんな身勝手な大人が、なんとなく蔓延している最近の世の中な気がする。

世の中をジャッジするレフリーが本当に存在するならば、その人たちが人に良くない言動をとった時の罰金として、夜の街でオヤジ狩りや、暴力団に因縁をつけられ有り金を巻き上げられて、そのお金が周り回って、エチオピア飢餓や、深夜のコンビニでバイトしている人たちに暖かい食べ物を差し入れするような出来事が起きないだろうか。

いつも考えることは、自分が後回しになっている。それでいいと思う。しつこいようだが、この暖かい部屋でPCに向かって好きなことを書けるだけで、十分に幸せなのだから。

自分が一番最後でいい。そういう感覚が皆に共有されれば、自ずと最優先されるべき人たちが浮かばれる世の中になる、そう考えることは、何の不都合も起こらないことのような気がする。

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