『僕の名前はズッキーニ』を観て

今日、恵比寿ガーデンシネマで『僕の名前はズッキーニ』を観てきた。

ストップモーションアニメで優しいタッチで描かれた、児童養護施設を舞台にした子供達のストーリーの映画です。(あまりネタバレしないように書きますね)

主人公のズッキーニは本名ではない。彼の母親が名付けた呼称(あだ名)だ。父親と別れた彼の母親は、毎日缶ビールばかり飲み、TVドラマにケチをつけて溜飲を下げる毎日。ズッキーニには、あまりいい母親とは言えない。

ある日、母親との不慮のトラブルで、ズッキーニは施設での生活を余儀なくされることになる。色々な家庭事情を抱え、両親とは一緒に住めない子供達と、ズッキーニは共に暮らすことになる。

あ、ネタバレ始めてしまいましたね、すみません。閑話休題。

観終わって思ったことを。

養護施設の子供達って本当に可哀想な存在?愛のない人生?僕らはステレオタイプに彼らに不幸だというレッテルを安易に貼ってしまってはいないだろうか。

もちろん、この物語は単なる「救い」のお話ではない。ずっと本人達が抱えていく問題も残ったままに描写されている。前途は決して明るくはないのかも知れない。手放しで希望を持つのは難しいとも思える。

ただ、たとえ、血が繋がっていなくても、ここに登場してくる子供達には、大きな「愛」が絶え間なく注がれていることは確かだと思えた。施設のスタッフや、仲間から注がれる愛の描写は、この映画を観ている者の心に、ただの安堵とも違う、あたたかい、なんとも形容し難い気持ちを抱かせてくれる。(簡単に、泣ける、という表現を使うのは相応しくないと思ってます)

両親からは受けられない愛情も、仲間と暮らすこの施設で生活していけば、感じて生きていける。そう、ここの子供達にとっては、必要にしてほぼ最良の場所なのである。望まれない両親と望まれる施設(そこに関わる望まれる人々)を天秤にかけることは、相応しくないのかも知れないが、間違いなく、後者の存在が不可欠であることは、この映画を観て再認識出来た。子供達は決して可哀想なんかじゃない。愛されるべき存在として、望まれるべき存在として、必要な場所を獲得したのだ。

最後に、少し辻褄が合わないことを言ってると思われるのを承知で。

なぜ、前述で施設が、子供達の「ほぼ最良の場所」という書き方をしたか。それは、本当の「最良」「最高」の場所は、やはり血の繋がった両親との暮らしの中にあるという余地を、どうしても残したかったからだ。ズッキーニーが、母親の飲んだビール缶や、父親の描かれた凧を肌身離さず頑なに持ち続けるシーンを見れば、おそらく、これからこの映画を観るだろうあなたにとっても、そのことは自明のことと思えてならない。僕は、苦労せずに最初からあった両親の愛のもとに生まれたという事実に、この映画で改めて深く気付かされた。何も努力しないで手にできた愛。

この映画に出てくる子供達が、努力をしなくては獲得できないものを自分が既に手にしていることに戸惑ったが、その悩みは5秒でやめた。そういった気遣いや遠慮、感傷的な想いは、彼らのこれからの人生に、なんのエールも送ることができない。それぞれに必要な場所がある。望まれる愛がある。今日まで知らない者同士だった僕らだが、この映画を観て、何度も彼らと気持ちをシンクロできたことに本当に感謝している。皆さんにとっても、何かの出会い、気付きの作品になりますように。



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