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未来を考えたら学校でICTを当たり前に使って欲しいと思った

私が小学校の教員を目指す学生だった頃、教授から聞いた話の中に教材研究と指導法の話がありました。簡単に説明すると、教材研究は題材の理解を深め、内容から考えられることや教育的な意義を捉え直すことです。一方、指導法はどのような方法で子供に教えるかということでした。

学生だった当時は「どちらがより大事か」と対立する概念として考えていました。しかし社会人になってみると、内容の理解が深かったとしても伝え方次第で上手くいかないことは多々あり、「バランスが大事!」という毒にも薬にもならない結論に至っています。

その教材研究と指導法の考え方について、最近はもっと抽象的なことにもあてはまるなーと考えていて。例えばそれは、子供への関わり方にも通じるものがあります。自分が保護者になってからは特に、学校教育に「子供が未来で幸福になれるよう、必要なスキルの基礎を身につけさせること」を求めるようになりました。そのためには未来がどうなりそうなのかを想像できるくらいの情報が必要となります。加えて、子供が未来で必要なスキルや能力を身に着けられるようにベースとなる素地を養う方法を考えねばなりません。

題材の理解を深める教材研究的な考え方の意味ではどんな未来になりそうかの理解を深める必要があり、未来で必要な能力を実際の指導や問いかけで身につけさせるのであれば、教材研究的な考え方が必要になります。(なんと高度なことなのでしょう!)

しかし教員一人一人によって理想の大人像は異なるので、自分の理想を教員に期待するのもお門違いです。そもそも異なることを無理やりすべて合意する必要はないと思うので、教員や保護者など子供に関わる者が特定の価値観に執着せず、部分的に子供の成長を支えあえることできるといいなと思います。

特に最近は、ICT機器を使う学校と使わない学校で差があるという噂も聞きます。ICT機器を長時間使えばよいというものではありませんが、まったく使用しないことは保護者の一人として心配です。学校に関連する学習指導要領や生徒指導提要などでもICTの利用は推進されていますが、他の角度からICTの必要性を考えることはできないのか。最近考えていることを整理してみます。

言葉を入力してAIで絵日記が作れる時代

例えばこの動画では、既にAIを使うことで絵日記が書けることを説明しています。この動画の内容に限らず、Chat GPTを使えば人の頭の中で考えたような文章を生み出すことも可能です。一昔前に小学生が夏休みの宿題として課されていた絵日記や読書感想文は、既にAIを使った方が簡単にできてしまいます。AIを使った方が簡単に期待されたアウトプットができるなら、子供が適切にAIを思い通りに使えるよう指導することこそ、子供のためになりそうです。

SNSが発達した現代の子供は、大人と同様にチャットでの意思疎通が当たり前になっています。つまり、考えたことを言語化する能力が今よりも必要な社会です。であれば、チャットコミュニケーションすら学校で訓練したいことの一つではないでしょうか。言語化が上手くできなければ、ニュアンスの一致から、AIの考えが自分の考えだと錯覚することもあるでしょう。(そもそも言語化が上手くできなければ、期待した文章をAIから返してもらうことすら難しそうですが)。

AIに聞くのか、AIに命令するのか

未来を考えた時にくるかもしれないもっと切実な例では、こちらがあります。

考え方が根本から変わる未来。今の子供たちに到来する未来は、二極化した社会かもしれません。動画内では安くて手ごろな品質or高級で上質なものに二極化するという話をしています。パターン化できる作業はAIがやってくれる世界。であれば、パターン化できることしかできない人間には人生の選択肢が狭いということになります。

私がわかりやすい分岐点だと思っているのは、AIを"どのように使うか"だと考えていて、AIを不明点を解消してくれるツールとしてだけ使う人(自分で考えない人)と、AIに命令して作業を任せるような使いかたをする人(自分で考える人)で資産以外の面でも格差が開いていくと思っています。

2022年8月15日の日本経済新聞朝刊では「偏差値時代、終幕の足音」という記事があり、大学受験で推薦入試の枠が広がっていることも知りました。

社会の評価の軸に変化が起きていて、記憶力や処理能力よりも、考え方や意欲を評価される時代への移り変わりを感じています。言い換えれば、決められたことを不備なく実行できる能力ではなく、自分で目標設定して周りと協力して物事を進められることの方が求められるようになってきたのでしょう。行動力や考えていることを言語化する能力も求められているかもしれません。

私が学校でICTを活用して欲しいと願う理由の一つもそこにあります。子供がそれぞれ別の活動をする余地があり、時には情報共有して協力したり互いに刺激しあったりできる関係性を築いて欲しい。そのためには、複数人が個々の活動を簡単に見せ合える機会が必要です。しかし簡単に複数人に共有して意見を交わす場は、紙とペンだけでは実現できません。

身体性の拡張こそ幸福なテクノロジーの使い方なんじゃないか

もう一つはICTのよさが身体性を拡張できる点です。ICT活用と聞くと、先生の採点の自動化や、AIが個々に応じた適切な問題を出してくれることが最初に想起されると思います。時間を効率的に使えるという考え方です。

しかしその時短の考え方を子供が問題を解くことや、オンライン授業の実施に転用しても子供のためになるのでしょうか。もしかすると、それはNOなんじゃないでしょうか。

例えば上記の動画では、音楽についての話が挙げられています。音楽の楽しみを曲を聴くことだけに特化させてしまうと、購入前後の体験を失わせてしまいます。CDショップに行きたい気持ちを我慢して、学校が終わるのを待ってようやく手にしたという体験は、サブスクのワンクリックで曲を聴く時代には失われつつあります。

教育的な大人が子供に体験させたいのは、簡単にワンクリックで曲を聴ける体験ではなく、ドキドキや達成感をも含んだ体験であるはずです。学校現場でICTを使って行いたいのは、ワンクリックで授業を完結させるものではないはずです。そうではなく、ノートの内容を簡単に伝え合うことができたり、多人数の意見交換をスムーズにさせたり、写真やイラストにコメントを付けるなどして他者に伝えられたりすることでないでしょうか。非対面でできることをよしとするのではありません。ICTによって経験を"豊か"にできるから、ICTを使うというだけです。

まとめ

未来の社会がどのようになるか、未来の社会ではどのようなスキルが子供のためになるか。定義は人それぞれであってもいいからこそ、人によって理想の教育が異なるのは当然だと思います。しかし、教員以上に子供について理解し、子供の学習に適した方法を選んだり、題材を通した学びを工夫したりできる人がいないことを私たちは知っています。

現代ですら情報は処理できないほどに押し寄せてくるし、AIの活用法は想像を超える早さで生み出されています。子供たちが未来で望み通りの人生を送って欲しいと願うなら、学校でのICTの活用は不可欠ですし、一人の保護者としては、学校でも当たり前のように使ってもらいたいと願わずにいられません。

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