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第4巻:超人オリンピック決勝の巻

第4巻データ・アナリティクス


ギャグ漫画枠レギュレーションの影響

※掲載順は漫画作品のみ(特集記事、小説、記事広告、読者投稿ページは除く)。
「掲載順=人気」とは一概に言えないが、人気を測るバロメータのひとつとして参照する。
1号あたりの漫画の掲載本数は14〜16本。
単行本4巻の発行日は1981年9月15日。

13号「キン肉マンの爆弾発言の巻」と14号「上野の森は大混乱の巻」、そして21号「狂乱ロビンの巻」と22号「死のメニューの巻」は、雑誌掲載時には独立した回であったが、コミックスに収録される際にはそれぞれ1話にまとめられた。各後半部分(「上野の森は大混乱の巻」と「死のメニューの巻」)のトビラ絵は収録されていないのでシームレスに読めるが、ストーリー漫画と化しつつある内容をきちんと描くには、ギャグ漫画フォーマットの13ページでは尺が足りない、ということを象徴するようなケースである。

第4巻収録話の連載期間の出来事

ここで「少年ジャンプ」にかつて存在した「愛読者賞」について触れておきたい。愛読者賞とは、読者アンケートで選ばれた10人の作家が45ページ前後の読み切り作品を描き、1号ずつ順番に掲載していき(順番はくじ引き)、読者投票で順位を決めるという企画である。1973年から1983年、そして1997年と、合計12回開催され、定例開催されていた時期には1位に選ばれた作家は海外旅行に連れて行ってもらえた。また、1位作品の感想文を公募し、優秀者は作家と一緒に海外旅行に行けたので、アンケート至上主義の「少年ジャンプ」を象徴するような一大イベントであった。
とはいえ、連載を休ませてもらえるわけではなく、普段の連載原稿と並行して45ページの読み切り作品を描くことになるので、作家にはかなり大きな負担を強いた企画といえる。それでも、ここに選ばれれば人気作家の仲間入りを果たしたようなもので、当時のジャンプ作家にとっては重要なメルクマールといえた。

この愛読者賞が通常の読者アンケートと異なるのは、プロ活動している「全作家」を対象とする点だ。このため、「少年ジャンプ」のレギュラー作家以外がノミネートされたこともある。水島新司やあだち充は企画への参加は辞退したが、1980年の第8回愛読者賞では「少年ジャンプ」に連載していない松本零士が『わが青春のハーロック』を寄稿している。
そして、デビューから半年あまりのゆでたまごは、この年の愛読者賞に選ばれたのである。参加作家は以下のとおり。
  ・10号:『わが青春のハーロック』松本零士
  ・11号:『嗚呼!桜田門』宮下あきら
  ・12号:『OH!GAL』小谷憲一
  ・13号:『今源氏物語』平松伸二
  ・14号:『ライブ』秋本治
  ・15号:『春爛漫』本宮ひろ志
  ・16号:『デスゲーム』ゆでたまご
  ・17号:『GO!AHEAD!!』江口寿史
  ・18号:『実録!神輪会』車田正美
このうち読者人気1位になったのは、車田正美の『実録!神輪会』であった。車田正美のプロダクション「神輪会」の面々が全日本Jr.に挑むという、『リングにかけろ』のセルフパロディ「リングにこけろ」が人気を集めた。ちょうど『リングにかけろ』本編では「ギリシア十二神編」が盛り上がっていた時期なので、そのギャップも作用したかと思う。
ちなみに、この『実録!神輪会』と同じ18号に掲載された読み切り(愛読者賞とは無関係)が高橋陽一の『キャプテン翼』。この読み切り版では中学サッカーが舞台で、主人公の名前は「翼太郎」だった。『キャプテン翼』の本連載はちょうど1年後の1981年18号から。

ゆでたまごが愛読者賞で描いた『デスゲーム』は、息子を人質に取られた主人公が孤島にある塔の秘宝を持ち帰るよう脅迫され、塔の各階にいる拳法の達人と戦うストーリー。冒頭に「この作品を今は亡きブルース・リーにささげる」とあるように、ブルース・リーの死後、生前に撮影していたアクションシーンを編集して制作された映画『死亡遊戯』(日本での公開は1978年4月15日)へのオマージュ作品であり、主人公はブルース・リーそっくりだ。
1980年2号に掲載された『キン肉マン』の「Bブロックの秘密の巻」(第3巻収録)では、超人オリンピック抽選会の会場にブルース・リーを思わせるキャラクターが登場する。「ゲ…この人死んだんじゃ…」とのセリフが入り、読者としても「なぜ唐突にブルース・リーのパロディ?」と不思議に思うシーンだが、後世の目からは、なるほど同時期に『デスゲーム』の執筆をしていたからゲスト出演させたのか、と納得がいく。

ロビンマスクを見せる大会

上野精養軒とは?

 「キン肉マンの爆弾発言の巻」では、決勝戦の激励パーティが上野の精養軒で開かれる。上野精養軒は明治5年創業の老舗の西洋レストランであり、現在も営業を続けている。

このシーンとは文脈の異なる話だが、「7人の悪魔超人編」でアトランティスとの戦いの場が上野の不忍池特設リングだったことについて、作者の嶋田隆司はスーパー・ササダンゴ・マシン(プロレスラー)との対談で、次のように語っている。

『(週刊少年)ジャンプ』編集部が1年に1回、連載表彰式で上野の「精養軒」っていうフランス料理店に連れて行ってくれたんですよ。不忍池は、そこから見えるんです。

『るるぶ キン肉マン』(JTBパブリッシング)

作者にとって上野精養軒は「ハレの場」であり、決勝戦の激励パーティにふさわしい場所と考えたのだろう。それにしてもロビンマスクは、よくよく上野に縁のある超人である。

なお、決勝戦のキン肉マンは、いつもの「吉野屋」の曲ではなく、「地獄の黙示録のテーマ」で入場する。これがザ・ドアーズの「THE END」か、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」なのかはわからないが、コマ中の描き文字や雰囲気からして、おそらく劇場予告などでも使用された後者だろう。
映画『地獄の黙示録』の日本公開は1980年3月15日。入場シーンが描かれる「選手入場の巻」は18号掲載(5月5日発行)なので、この時期の作者は映画の話題作はかならずチェックしていた様子がうかがえる。

超人プロレスのレギュレーション

「Bブロックの秘密の巻」(第3巻収録)で委員長ハラボテ・マッスルが告げているように、超人オリンピック決勝トーナメントは「とにかく相手をKOするまで戦いあうデスマッチルール」。この決勝戦ではロビンマスクからの申し出により3カウントルールが採用されるのだが、超人オリンピック以降も超人プロレスではデスマッチルールが基本となる。

デスマッチルールの形式上、レフェリーがリング上にいる必然性は低く、作中では次第にレフェリーは描かれなくなっていくが、「超人オリンピック編」の時点では物語進行上で一定の役割を担っている。とくに3カウントルールでは、カウントするレフェリーの存在が必要だ。
この大会の公認レフェリーはレッドシューズマン。初出は「最後の8人めの巻」(第3巻収録)で、バトルロイヤルの勝者をキン肉マンと裁定した。決勝トーナメントの3位決定戦「テリーマンvsラーメンマン」戦では、デスマッチルールを基本とする『キン肉マン』では珍しく、ラーメンマンに反則負けのジャッジを下している。
そして決勝戦の「ロビンマスクvsキン肉マン」戦でも、はじめはレッドシューズマンがレフェリーを務めていたが、ロビンマスクのサイドスープレックスで投げられたキン肉マンにぶつかってリング外に転倒すると、それ以降は大会委員長のハラボテがレフェリーを引き継ぎ、キャンバスを3つを叩いてキン肉マンのピンフォール勝ちを宣告した。
この試合でのハラボテは、普段同様にレスリングパンツとマントの姿だったり、紋付袴姿だったり、縦縞のレフェリーシャツになったりと、大忙しである。

レッドシューズマンのモデルは、アメリカのプロレス界で活躍した名物レスラー、レッドシューズ・ドゥーガンである。その名のとおり、赤いリングシューズがトレードマークだった。
1982年のアメリカ映画『ロッキー3』の冒頭、ロッキーvsプロレス世界ヘビー級王者サンダー・リップス(ハルク・ホーガン)のチャリティー異種格闘技戦にレフェリー役で出演しており、まさに「(アメリカの)プロレスのレフェリーといえばこの人」といった存在であった。

レッドシューズ・ドゥーガンは日本で行われた世界タイトルマッチを裁いたこともあるので、日本のプロレスファンには馴染みがあったようだ。有名なところでは、1975年12月11日のアントニオ猪木対ビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合(蔵前国技館)でレフェリーを務めている。この試合はプロレスファンのあいだで不朽の名勝負として語り継がれており、60分3本勝負で互いに1本ずつ取り、3本目は時間切れドロー。結果、猪木がタイトルを防衛した。
ロビンマスクはビル・ロビンソンをイメージした超人レスラーなので、それを裁くのはやはりレッドシューズ、ということなのだろう。
なお、現在、新日本プロレスでレフェリーを務めるレッドシューズ海野(現役の若手レスラー海野翔太の父)が赤いリングシューズやサポーターを着用しているのは、レッドシューズ・ドゥーガンにあやかってのことだと思われる。

ロビンマスクとバックブリーカー

ビル・ロビンソンは猪木とのNWF選手権のあとに全日本プロレスに参戦していたので、欧州最強の「人間風車」は超人レスラーとしてもイメージしやすかったのだろう。ロビンマスクの戦い方は、ランカシャースタイルのキャッチ・レスリングが主体で、ビル・ロビンソンと同様にサイドスープレックスなどの投げ技を用いるので、打撃が多めのアメリカン・プロレスのテリーマン、カンフー主体のラーメンマンとの差別化が図られている。
だが、多くの読者に記憶されているロビンマスクの必殺技といえば、やはりロンドン名物「タワーブリッジ」だろう。初出は「狂乱ロビンの巻」である。
この技は、試合後にラーメンマンが「ロビンマスクのバックブリーカー」と解説しているとおり、プロレス的にはアルゼンチン・バックブリーカーである。当のロビンマスク自身、「奇跡のホールドの巻」でレフェリーのハラボテに「ヘイ!レフェリー キン肉マンはわたしの…」「アルゼンチン・バックブリーカーでギブアップしたはずだぞ!」とクレームをつけているので、やはりタワーブリッジはアルゼンチン・バックブリーカーなのである。
ロンドンのテムズ川に架かるタワーブリッジは、2本の塔に橋を差し渡した可動式の跳開橋であり、ロビンマスクの背景に描かれたゴールデンゲートブリッジのような吊橋とは形状が異なるが、ともあれ、この技に「タワーブリッジ」の名を与えたネーミングセンスは秀逸だ。
イギリス超人のロビンマスクがアルゼンチンの名を忌避した、と考えるのは後世の見方であり、この時点ではまだフォークランド紛争(1982年3月)は起きていない。

この決勝戦は、キン肉マンの腰骨が鳴った音を「背骨を折った」と勘違いしたロビンが油断して逆転される、という結末。ロビンマスクはこの「超人オリンピック編」シリーズの初回「日本代表になりた〜〜いの巻」(第3巻収録)では初対面のキン肉マンに弓矢固め(ボー・アンド・アロー・バックブリーカー)を仕掛けており、決勝戦ではペンジュラム・バックブリーカー、タワーブリッジと、つねにバックブリーカー系の技を掛けてきた。したがって「超人オリンピック編」は、「バックブリーカーに始まりバックブリーカーに終わる」と考えれば一貫性が見えてくる。
結果的に「超人オリンピック編」は「ロビンマスクという強豪キャラクターを披露する」というテーマで貫かれており、「ロビンを見せる大会」であったと言えよう。

なお、「奇跡のホールドの巻」では、試合後にラーメンマンの口から「火事場のバカ力」(初出時)という言葉が発せられる。のちに『キン肉マン』シリーズでは「火事場のクソ力」が極めて重要なキーワードとなるが、これがその初出である。作品上の整合性を取るため、新装版コミックスではこのラーメンマンのセリフは「火事場のクソ力」に改められている。

オリンピック閉幕

先に見たように、JOC総会でボイコットが正式決定されるのは1980年5月24日のこと。超人オリンピック決勝戦が決着する「奇跡のホールドの巻」が掲載された「少年ジャンプ」23号の発行日は6月9日なので、読者からすれば5月26日(月曜)に超人オリンピック決勝が終わったことになる。これもタイミング的には合致している。
世間の関心が薄くなったトピック(=オリンピック)をいつまでも引っ張るよりはすぐに切り替える、という柔軟性が、こうした合致を呼び込むに違いない。初期『キン肉マン』を言い表すなら、「機を見るに敏」の一語に尽きる。

ちなみに「少年ジャンプ」連載漫画でオリンピックといえば、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治)の日暮熟睡男というキャラクターが想起されるだろう。日暮の初登場は1980年39号掲載の「うらしまポリス!?の巻」(第21巻収録)。冒頭で両津が見ているテレビはモスクワ五輪の閉幕を告げており、両津は「今年は放送が少なかったな……」とつぶやく。
モスクワ五輪の競技は日本ではすべて深夜に録画放送され、競技1日目の視聴率は1.5%と低迷した。世間が五輪から興味を失ったことを後世に伝える、同時代人の貴重な生の証言といえるだろう。

ロビンマスクと藤波辰巳

第4巻ラストの2話、「故郷へ涙の錦の巻」と「おちぶれプリンスの巻」から「アメリカ遠征編」がスタートする。このシリーズについての解説は次回以降に譲るとして、ここでは「おちぶれプリンスの巻」に出てくる「王子 勝てば若き二冠王ですよ!」「藤浪みたいだのう」のセリフについて触れておきたい。これはもちろん藤波辰巳(現・藤波辰爾)のことである。
1978年1月23日、海外遠征中だった藤波(当時は新日本プロレス所属)はニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴンスープレックスで破り、WWWFジュニアヘビー級王座を奪取した。凱旋帰国した藤波は、1980年2月1日にNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座も獲得し、ジュニアヘビー級の二冠王となった。当時の藤波は27歳。「ドラゴン」の愛称で若い世代からアイドル的な人気を博し、日本マット界に「ジュニアヘビー級」を普及させた功労者とされる。

作者が藤波を意識していたのは、「おちぶれプリンスの巻」より8週前の「選手入場の巻」(1980年18号)でも確認できる。
この回では「テリーマンvsラーメンマン」の3位決定戦のあとにキン肉大王と委員長ハラボテのスペシャルマッチが行われ、そのときに客席で若い観客が「ドラゴン・ロケットみせろーっ!!」と3回も叫んでいるのが印象的だ。この若い観客には「タツミです」と書き文字で注釈が入っているので、藤波辰巳を意識していると推測できよう。

なお、メキシコにも転戦した藤波は、トペ・スイシーダ(リング上からリング外の相手へと飛び込んで体当たりする技)を「ドラゴン・ロケット」の名称で使用した。
そして、決勝戦でロビンマスクがキン肉マンに二度にわたって仕掛けた「超人ロケット」がトペ・スイシーダ(=ドラゴン・ロケット)である。通常のトペ・スイシーダは、トップロープとセカンドロープのあいだから場外へと飛び込むところを、ロビンマスクはトップロープの上を飛び越えている。この技は現在では「ノータッチ・トペ」とも呼ばれている。
このように作者は、当時の藤波人気(ドラゴン・ブーム)を取り入れようとしたフシがあり、ロビンマスクのキャラクター造形には、ビル・ロビンソンだけでなくドラゴン・エッセンスも注がれていた。ロビンマスクは、まさしくロンドンの若大将であったわけだ。

余談

『キン肉マン』の新装版では、作画やネームなどに、ちょこちょこと修正が施されている。連載を続けるうちに徐々に固まっていった設定との整合性を取るためであったり、時代によって変化した権利意識やコンプライアンスに配慮するためであったりと、それぞれに理由はあるが、おおむね納得のいく変更だと思う。しかし、個人的に残念なのが、この第4巻におけるテリーマンのキン肉大王への呼び名の変更だ。
雑誌初出時から旧版コミックスでは、テリーマンはキン肉大王のことを「おじさん」と呼んでいる。これが新装版では「キン肉大王」や「大王さま」などに改められているのだ。超人界におけるキン肉族の地位や、キン肉大王の立場を考えれば「大王」呼びが妥当なのだろう。しかし、「おじさん」呼びだと「友達の父親に話しかけている」感が出て、付き合いの古いキン肉マンとテリーマンの関係性が見えてくるので、個人的な好みを言わせてもらえば、「おじさん」呼びのほうが好きであった。

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