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第14巻:驚異のリング!! の巻

第14巻データ・アナリティクス


アニメ放映を目前にして人気が低迷?

※掲載順は漫画作品のみ(特集記事、小説、記事広告、読者投稿ページは除く)。
「掲載順=人気」とは一概に言えないが、人気を測るバロメータのひとつとして参照する。
1号あたりの漫画作品の掲載本数は16〜18本。
単行本14巻の発行日は1983年12月15日。

第14巻収録話は41号(発行日は9月27日)から52号(発行日は12月13日・20日合併)までに掲載されたものである。1983年4月3日のアニメ放映開始まで半年を切った期間であり、さすがにこの時点では、内々ではアニメ化の話が具体的に動いていたものと思われる。
しかし、作者のゆでたまごの実感としては、この時期の『キン肉マン』は人気が下降気味であったという。貴重な証言なので、少し長くなるが、以下に引用させてもらう。

 しかも、プラネットマン戦が意外にもファンには不評だった。ボクたちは人面プラネットをはじめ、様々なアイディアを投入させて、この試合を盛り上げたつもりだったが、ファンには響かなかったようなのである。
 残念ながら、この影響で『キン肉マン』の『ジャンプ』における人気が下降してしまい、何かテコ入れを考えなければならなかった。
(中略)
 そこでボクたちが打った手が、ウォーズマンの体内での試合だった。このアイデアは、『トロン』という映画を観ていて、思いついた。『トロン』とは、ディズニーのアニメ映画で、本格的なコンピューターグラフィックスを初めて導入した作品として知られている。
 映画好きのボクたちも日本で公開されると、すぐに鑑賞に行った。これは人間がコンピューターの中に入る奇想天外なストーリーなのだが、映画はつまらなかった。
「 ウォーズマンは機械超人やったな。身体の中はコンピューターや。この中にキン肉マンたちを入れてしまえば……いける! いけるで!」
(中略)
 そして、ボクたちの目論見はズバリと当たった。ここから、沈みかけた『キン肉マン』の人気が、一気に回復したのである。

『ゆでたまごのリアル超人伝説』ゆでたまご(宝島社新書)

実際に「少年ジャンプ」での掲載順を上表で見ると、さほど掲載順は低下していない。しかし、アンケートでの内部的な数値では、あまり芳しくなかったようだ。なにしろ作者自身が「沈みかけた」と明言しているほどである。

アニメ放映開始まで半年もない状況で、原作人気が低迷したとあっては、先行きが不安になる。編集部としても、人気のテコ入れは急務だったはずだ。かくして戦いの舞台をウォーズマンの体内に移し、悪魔6騎士の残り4人vs正義超人の団体戦が行われることになる。
この団体戦というフォーマットは、テリーマンvsザ・魔雲天」戦で人気投票1位を取った経験があり、そこでの成功体験が作者たちの背中を押してくれたものと思われる。

第14巻収録話の連載期間の出来事

上記12週間でもっとも飛躍したのは『キャプテン翼』(高橋陽一)である。1981年18号で連載を開始して以来、巻頭カラーはわずか2回。連載開始の1981年18号と1982年12号だけにとどまっていたが、上記の期間には46号と51号で巻頭カラーになり、さらに44号と51号ではいずれも単独で表紙を飾っている。
また、42号では「翼くんのサッカーレポート」という企画記事で「高橋先生ブラジル取材」のリポートが掲載されている。第11巻のレビューで前述したとおり、この年の高橋は『100Mジャンパー』で愛読者賞の1位にも輝いており、まさしく「高橋の年」だったといえる。

「総合誌」化する「少年ジャンプ」

この時期の「少年ジャンプ」は、漫画作品だけでなく、頻繁に企画記事も掲載している。第13間収録分の40号では「マイコンは 今 ゲームランド!!!」と題して当時のパソコンゲームを紹介しており、50号では「これがウワサのE.T.だ!!」と、映画『E.T.』(スティーブン・スピルバーグ監督)の紹介記事を巻頭の4色ページで掲載。50号の発行日は11月29日で、『E.T.』の日本公開は12月4日なので、公開直前のパブリシティとしての色合いが強いものだが、このように漫画以外のメディアのエンターテインメント作品も積極的に扱うようになっている。
これらの記事の仕掛け人は、当時「少年ジャンプ」編集部員だった鳥嶋和彦である。『Dr.スランプ』の担当編集であり、作中に出てくる悪役「Dr.マシリト」のモデルになった人物だ。彼は作品担当だけでなく、記事まわりも任され、読者投稿ページも担当することになり、さくまあきら(のちゲームクリエイターとして『桃太郎電鉄』などをつくる)を起用して44号から「ジャンプ放送局」をスタートさせる。「ジャンプ放送局」は読者投稿企画ページでありながら人気を博し、13年間で24冊ものコミックスを刊行することになる。
このあたりの事情は「週刊文春エンタ+」(文藝春秋)の「総合情報誌「ジャンプ」をつくった男」というインタビュー記事で取材したので、そちらも参照してもらいたい。

前述のマイコン記事などを取材・執筆したのは、当時フリーライターだった堀井雄二である。鳥嶋和彦いわく「堀井さんは取材能力があって文章もうまかったんだよ。それで、巻頭の特集記事でコミケを取材(83年40号)したり、鳥山明さんとシーラカンスを食べにいったり(83年32号)したんです」とのこと。堀井はその手腕を買われ、のちにファミリーコンピュータのゲーム情報記事「ファミコン神拳」を担当することになり、やがてみずからゲームをつくることになり、国民的ゲーム『ドラゴンクエスト』が誕生する。
「少年ジャンプ」は雑誌の売り上げが好調な時期に、そのリソースを漫画以外にも投資し、80年代の子供文化を牽引する「総合誌」へと成長していったのである。

ウォーズマンの体内での団体対抗戦

ウォーズマンと『ミクロの決死圏』

ウォーズマンの体内で戦うアイデアは、上記の引用文のなかで作者は「『トロン』という映画を観ていて、思いついた」と述べている。映画『トロン』の日本公開は1982年9月25日なので、ちょうど「キン肉マンvsプラネットマン」戦を描いていた時期と符合する。
しかし、体が縮小して人体の中に入り込んで敵と戦う、というプロットを聞くと、1966年に公開されたSF映画『ミクロの決死圏』(リチャード・フライシャー監督)を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
なにしろ映画リテラシーの高い作者のことである、こちらの作品の影響もあったと見るべきだろう。

『ミクロの決死圏』については、オリジナルは自分である、と主張している日本の漫画家がいる。誰あろう、漫画の神様・手塚治虫である。
手塚がオリジナルと主張する作品は、1948年1に大阪の東光堂から刊行された(発行日は10月20日)描き下ろし単行本『吸血魔団』。主人公のケン一は、おじさんの発明した薬によって体を小さくして、とある少年の体内で結核菌と戦うことになる。
1950年(昭和25年次)の日本人の死因第1位は結核であり、のべ121,769人、10万人あたりの死亡率は146.4であった(厚生労働省調べ)。結核と戦う設定に、時代性が感じられる。
なお、手塚は「少年画報」(少年画報社)1953年3月号の別冊付録のために、『38度線上の怪物』という、『吸血魔団』のリメイク作品を描いている。

また、1964年には、フジテレビ系列で放映されたTVアニメ『鉄腕アトム』の1エピソードの原作としても使用されている。それが第88話「細菌部隊」(1964年9月26日放映)だ。ことの経緯を、手塚の自伝『ぼくはマンガ家』から引用したい。

(略)そのうちに「アトム」のオリジナルのネタがきれて、 ぼくの他の作品から、虫プロのスタッフが脚色したものを使うようになった。 その中に「吸血魔団」もはいっていた。 そして、これは、「細菌部隊」というタイトルでテレビに放映された。 もちろん、アメリカでも放映された。内容は、アトムが出てくる以外、ほとんど「吸血魔団」とおなじ構成である。
 すると、NBCへ二十世紀フォックス社のプロデューサー・ブレーンのひとりである、E ・ウェルナーという男から手紙が来て、「アストロ・ボーイ」のシリーズ中の、あるエピソードを、いまフォックスが企画しているSF映画シリーズのひとつに使いたいのだが、著作権その他はどうなっているかと問い合わせがあった。 NBCのドッド氏は、そのシナリオをNBCの権利において相手のシナリオ・グループに送ると同時に、手塚の住所も知らせたので、いずれ相手から連絡もあるだろう、と、ぼくのところへ通知してきた。
 そこでぼくは連絡を待っていたのだが、ついにE・ウェルナー氏からは手紙がこなかった。何年かたって、「ミクロの決死圏」が二十世紀フォックスから発表されたとき、してやられたと思った。

『ぼくはマンガ家』手塚治虫(角川文庫)

アニメ版『鉄腕アトム』は1963年1月1日から放映が開始し、同年9月には『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』の名称でアメリカでの放送が始まっている。3大ネットワーク(NBC、ABC、CBS)の全国放送ではなく、NBC系列のローカルTV局ではあったが、『アストロ・ボーイ』は高視聴率を記録したという。

1965年には、アメリカ人のアーティストによる『アストロ・ボーイ』がアメリカで出版されている。TVアニメ版を元にしたコミカライズではあるが、手塚治虫の名前はクレジットされておらず、権利関係をクリアしているかどうかは怪しい。このような例もあったから、「著作権その他はどうなっているか」との問い合わせがあったのではないかと推測する。
なお、アメリカがベルヌ条約に加盟するのは1989年のことなので、どこまでがグレーでブラックなのか、現在では判断できない。

ちなみに、『ミクロの決死圏』は『ウルトラセブン』でもオマージュされている。それが第31話「悪魔の住む花」(1968年5月5日放映)だ。
少女・香織の体の中に宇宙細菌ダリーが入り、香織は吸血鬼化してしまう。それを退治するために、ウルトラセブンが小さくなって香織の体内に入っていく……というストーリーになっている。この香織の役を演じたのは、子役時代の松坂慶子であった。

「ザ・ニンジャ」と忍者ブーム

ウォーズマンの体内には五重のリングが用意されている。残る悪魔騎士4人に対して「なぜ五重?」と思いがちだが、そこは作者の大好きな映画『死亡遊戯』へのオマージュと考えるべきだろう。
第4巻のレビューでも触れたように、作者は1980年の愛読者賞で『死亡遊戯』をオマージュした『デスゲーム』(1980年16号掲載)を執筆しているくらいだから、五重塔に対する思い入れは強いはずだ。

五重のリングでの対戦カードは、2階のサンシャインと4階のザ・ニンジャが入れ替わった結果、「ロビンマスクvsジャンクマン」「ブロッケンJr. vsザ・ニンジャ」「テリーマンvsアシュラマン」「ジェロニモvsサンシャイン」の4試合となった。
この第14巻ではロビンマスク、ブロッケンJr.が勝利し、「テリーマンvsアシュラマン」戦が佳境に入ったところで第15巻へと続く。

ここではザ・ニンジャについて、当時の時代背景を見ていきたい。
「黄金のマスク編」が連載していた1982年というのは、アメリカでは空前の「ニンジャ・ブーム」が巻き起こっていた。その直接の契機は、前年の1981年10月2日にアメリカで公開された映画『Enter the NINJA(邦題:燃えよNINJA)』(メナヘム・ゴーラン監督)であると言われている。日本未公開の作品で、のちにソフト化された際の邦題はブルース・リーを意識していることが明白だが、アメリカではこの映画でショー・コスギがブレイクし、全米に忍者ブームが到来した。

また、1980年にエリック・ヴァン・ラストベーダーによって書かれた忍者小説シリーズがロングランのヒットを記録した。そのシリーズのタイトルは、ズバリ『The NINJA』である。第二次世界大戦終結後の日本を舞台に、イギリス系中国人の両親に育てられた主人公ニコラス・リンニアの物語を描き、「ニューヨークタイムズ」のベストセラーで20週間以上もランクインしたという。

このエリック・ヴァン・ラストベーダーという作家は、ロバート・ラドラムが執筆したジェイソン・ボーンを主人公とするスパイ小説『ボーン』シリーズを、ラドラムの死後に引き継いでおり、『ボーン・レガシー』以降のシリーズを手がけている。
『ボーン』シリーズは、2002年の第1作目『ボーン・アイデンティティー』(ダグ・リーマン監督)、2004年の第2作目『ボーン・スプレマシー』(ポール・グリーングラス監督)、2007年の第3作目『ボーン・アルティメイタム』(ポール・グリーングラス監督)、2012年の第4作目『ボーン・レガシー』 (トニー・ギルロイ監督)、2016年の第5作目『ジェイソン・ボーン』(ポール・グリーングラス監督)と映画化されている。この第4作目の原作となったのが、エリック・ヴァン・ラストベーダーの同名小説だ(ただし、内容はほとんど別物だが)。

それ以前にも、1967年6月17日に日本でも公開された映画『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督)に忍者が出てくるように、欧米社会では早くから「忍者」は注目された存在であったが、現在まで続くアメリカ人のニンジャ好きは、この1980〜1981年のニンジャ・ブームに拠るところが大きい。
「アメリカでは忍者が人気らしい」と聞きつけたゆでたまごが、すぐさま作品に落とし込んだように思われる。なにしろザ・ニンジャは、当初はリーダー格だったくらいだ。

(略)初登場時はリーダー格だったが、五重のリングの闘いで早々にブロッケンJrに敗北し、影が薄くなってしまった。
 ところが、意外にもこのザ・ニンジャの人気が高かった。

『ゆでたまごのリアル超人伝説』ゆでたまご(宝島社新書)

なお、第14巻ラストは「テリーマンvsアシュラマン」戦の途中だが、アシュラマンについては続く第15巻でキン肉マンとも戦うので、そちらに詳細を譲るものとする。
ただ、「テリーマンvsアシュラマン」は「さく裂!!阿修羅バスターの巻」からはじまるが、巻頭カラーのこの回で、トビラでインパクト大の阿修羅バスターの絵を持ってくるあたりは、さすがの見せ方であるとあらためて言及しておきたい。

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