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長崎の聖マグダレナの物語      主とともに  ~ Tu mecum es ~

「マグダレナ」
 
「生きるのです。」
 
 
 
山の色が黄や赤に染まり始めた頃。青々と茂る緑の中でひっそりと椿の花が咲いている。
 
世は戦国の時代。豊臣秀吉により26人の尊き人々が信仰の為に処刑された。天下を取った徳川家康は天下の秩序を守るためにキリシタンへの迫害を行った。しかしこの頃は通り雨程度。秀忠が本格的に幕府の実権を握る事となってからの迫害は嵐のように一層激しくなっていった。三代将軍家光の時代になってもキリシタンに向かう嵐が静まることはなかった。毎日死んでいく多くの同志の霊魂を、主の御手に委ねられるようマグダレナは祈りを捧げていた。
祈る時に、眼を閉じると両親の最後の言葉が今でも鮮明に聞こえてくる。マグダレナの両親は捕縛された時に他のキリシタンに頼んでマグダレナを逃がした。娘に生きるように、生きて宣教師やキリシタンを支えるように願ったのである。彼女は一緒に逃げたキリシタンと長崎の山中で隠遁者のような生活をして、しばらくの時が経った。
 
「マグダレナ。パードレ・テレーロ様からの手紙じゃ。大村でキリシタンが大勢処刑されたそうだ。ペドロやルイス、ミゲルも含まれている。おそらくそなたの両親も・・・。」
 
「・・・そうですか。ありがとうございます。ゼズス様のもとに帰られたという事ですね。信仰の為に殺された父上母上は立派です。殉教者の血が私の中に流れていると思うと畏れ多いと感じると共に誇りに思います。」
 
1630年寛永7年放虎原で67名のキリシタンが処刑された。40人は火刑、その他は斬首された。アウグスチノ会のフランシスコ・へスース・テレーロ神父は1623年に来日し東北に布教活動をしたのち、長崎と大村で布教活動を行った。彼は多くの人を第三会会員に導いた。ペドロやルイス、ミゲルという人物はテレーロ神父に導かれた第三会会員であり、マグダレナの両親も神父に導かれた第三会会員だった。テレーロ神父はマグダレナ達の隠れ家に度々訪れては秘跡を授けていた。マグダレナも第三会に受け入れられ、神父の不在中はキリシタンの先導役を担っていた。
 
 
 

 

主とともに  ~ Tu mecum es ~
 
長崎のマグダレナの物語


 
 
 
・キリスト教の来日と殉教の道
1549年天文18年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し多くの種を蒔いた。各地の権力者は舶来の最新技術、知識を得ようと宣教師達を歓迎した。宣教師達は布教の許可を得て多くの人を導いた。興味本位や流行、戦力争いに負けない為など決して下心がないとは言えない人々は、こぞって洗礼を受けた。宣教師の懸命な働きにより、主の御心は日本に少しずつ根付いていった。
人の心は醜いものである。光が差せば影ができるものではあるが、違いができれば差別が生まれる。キリシタンというだけで良く思わない人も当時から多く存在した。日本で最初の殉教はキリシタンの町と大きく発展していた平戸で起こった。「大うすはらい」---デウス払い---つまりキリシタンを追放することである。当時の天皇であった正親町天皇はキリスト教が来日して初めての禁教令を発布した。その背景には仏僧の影があった。この命令によってミヤコから宣教師は追放された。影に対して勝ち馬に乗る形で事は起こった。禁教令に従わずに信仰を続け、キリストの十字架像に跪いて礼拝していた根獅子教会の管理をしていた元僧侶トメーと数名のキリシタンが斬首された。この影は全国に広がったザビエルの種から開いた光と相対するように生れ、殉教の道が各地で引かれた。
 
・影と陰
 各地の権力者は舶来の最新技術、知識を得ようと宣教師達を歓迎した。下心のある彼らは入信しても行動の改めに至らない人が多くいた。当時の日本は側室制度は常識、利己主義の戦国時代。やはりカトリックの考えは受け入れられずキリスト教から改宗する者も少なくなかった。
日本で最初のキリシタン大名である大村純忠は一夫多妻の常識をどうにもぬぐいされなかった。彼の正室であったおゑんは自らキリスト教の入信し教理を熱心に学び純忠の下心を見事に払い退け、生涯一夫一妻を守り続けた。おゑんはそれだけではなく福祉事業、医療体制の整備、海賊からの奴隷解放など積極的に働き、弱者の母のような存在であった。
 戸根・自証院は大村純忠の娘・マリナ伊奈姫を弔う寺である。彼女は浅田氏に嫁いだ。伊奈姫の夫・浅田大学頭純盛は大村純忠の家来で純忠の勧めでキリシタンとなった。伊奈姫は篤い信仰を持っていた。大村の藩主は純忠が没後、棄教者の喜前に変わり、情勢も変化してキリシタンであることで迫害に会う時世となっていった。浅田氏の逝去後、伊奈姫は周囲から棄教を求められたが拒否し、自らの領地に日蓮宗を装った庵を作り宣教師達を匿った。
 逆賊の娘と烙印を押された細川珠。ガラシャ夫人として知られる。明智光秀の娘である珠は細川家に嫁いだ。嫉妬深い細川忠興であったが珠は凛とした態度であった。本能寺の変、さらにバテレン追放令により忠興も情勢が悪くなり、珠に棄教を強いるが凛とした態度であり黙認せざる負えない状態だった。それどころかキリシタンの礼拝堂を屋敷に作り、宣教師を匿う施設と化し、忠興は頭を抱えていた。忠興が出陣の際に残った家臣に対して、敵が屋敷に攻め込まれたら全員自害するように命令を下していた。1600年慶長5年に忠興の不在時、西軍の石田三成に屋敷が攻め込まれた。ガラシャ夫人を人質に取ろうとしたが彼女は拒絶した。三成は実力行使に出て、屋敷は包囲された。ガラシャ夫人と家臣は夫忠興の命令に従い死を選んだ。もちろん自害はキリスト教の教えに反している為、家臣に介錯を依頼し命が絶たれた。
秀忠が先代家康に変わり幕府の実権を握るようになり迫害の嵐が荒れ狂った。各地でキリシタンの捕縛とキリシタンの処刑が連日のように起こるようになった。各地の藩主は将軍の忖度により積極的に捕縛・処刑が行われていた。大村藩で迫害の嵐の最初の殉教が起こった。元和に元号が変わり一度に大勢のキリシタンの処刑が行われるようになった。徳川秀忠はミヤコに寄生虫のごとく生存するキリシタンの存在と、未だにキリシタンを制圧しない藩主板倉勝重についに激怒しキリシタン全員処刑する命令が下った。1619年元和5年、信仰を棄てないという理由で老若男女問わず55名のキリシタンが処刑された。京都のキリシタンの集落「だいうす町」に住んでいた橋本家。ジョアン橋本太兵衛はテクラというキリシタンの娘と夫婦になった。子宝に恵まれ6人の子供が授かり、さらに身重であった。夫太兵衛は指導的立場の人物であり、夫を支えた。橋本一家は朝の祈りの時に踏み込まれ捕縛された。一家は役人に対して堂々と信仰を告白した。キリシタン一斉処刑の時には、テクラ橋本は子供たちと共に柱に縛られて火を受けた。泣きじゃくる子供たちを慰め、もうすぐ天国着くと励ました。「主よ、この子らの霊魂をお受けたまえ。」と叫び殉教した。
同じ頃長崎では捕縛したキリシタンが予想以上に大勢となり、大規模な処刑が行われた。26人の尊き殉教者の処刑地はキリシタンの処刑の名所となり、それ以降に行われたキリシタンの処刑は見世物屋のごとく長崎の名物と化していた。長崎の牢屋のクルス町の牢は飽和状態となり、大村の新しい鈴田牢に宣教師や司祭を収容した。京都の殉教を受けて、鈴田牢に収容されていた宣教師や司祭らが長崎に集められた。1622年元和8年西坂で55人の宣教師・司祭・修道士、キリシタンが斬首、火刑に処された。宣教師や司祭は火刑に処されキリシタンらは斬首の刑が処された。刑場では久しぶりに再会し、集まった天国への団体旅行客といった状況であった。火刑の為に柱に縛られたカルロ・スピノラ神父の前に女性が出でた。3年前に処刑された宿主ドミンゴ・ホルヘの妻イザベルであった。挨拶に来たのである。神父が「イグナチオはどこ」と聞き、イザベルは息子のイグナチオを抱え上げ
「ここにいます。神から与えられたこの子を、また神に捧げます。」と大声で答えた。
母イザベルはイグナチオに「ごらん、あなたに洗礼をくださったカルロ・スピノラ神父様ですよ。」と言った。
スピノラ神父は親子に最後の祝福を与え、それぞれ処刑され皆で天へ帰っていった。
 みごと天晴なキリシタン女性達である。宣教師や司祭らの布教を陰で支えたのは女性キリシタン達と言っても過言ではない。こちらの陰は決して暗闇ではなく、ひっそりだがしっかりと輝いていた。
 
・マグダラのマリア
  姦通の罪で石を投げつけられ死刑にされそうな女がいた。
「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
イエスに言われ、一人また一人と石をその場に置き人々は立ち去ってしまった。女性はイエスによって救われた。姦通の罪で石を投げつけられ死刑にされそうだった女性の名前は記されていない。
ガラリア湖沿岸にマグダラのいう場所がある。ここマグダラ出身のマリアという女性はイエスに七つの悪霊を追い出してもらった婦人である。七つの悪霊、言い換えると七つの大罪。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰、つまり人間を罪に導く可能性がある欲望や感情である。人間だれでも陥りやすい暗くて深い穴。マグダラのマリアはイエスに手を差し伸べられ、闇から引き上げられた。
彼女はイエスの磔刑の際にイエスの母マリアに付き添い、イエス息を引き取られるまで見守った。イエスの母マリアの心の痛みを一番近くで感じ、彼女もまた抑えきれない心の痛みを感じた。遺体となったイエスをユダヤ人の埋葬の習慣で大切に洗い、香油を塗り、没薬とアロエを混ぜ合わせたもの、香料と一緒に綺麗な亜麻布で巻いて岩をほ掘った墓に納めた。12人の弟子と呼ばれる弟子たちは皆逃げ出してしまった状況にも関わらず、アリマタヤのヨセフとマグダラのマリアを含んだ婦人達は最後までイエスの世話人としてイエスに従い、埋葬を行った。マグダラのマリアが布の交換為にイエスの墓に向かうと墓の入口が開かれ、イエスの姿がなく誰かに連れ去られたと思った。
「婦人よ、なぜ泣いているか。」
天使に声を掛けられたマグダラのマリアは主を誰かに連れ去られたと答えた。
「婦人よ、なぜ泣いているか。」
また声をかけられ、声の主を園丁と思ったマグダラのマリアは泣きじゃくり主を連れ去らないで下さい。私が引き取りますと答えた。
 
「マリア」
 
その声がイエスという事がわかり振り向いた。マグダラのマリアは主が来られた事を皆に知らせたが、誰も信じなかった。
イエスは弟子たちの前に出てきて彼らは信じた。
―― 見ないのに信じる者は、幸いである。――
マグダラのマリアは主とともにあり、信仰を持った人物である。
 
 
・長崎のマグダレナ
1610年慶長15年頃に長崎の小さな村に小さな女の子が生まれた。その子はマグダレナの洗礼名が与えられた。マグダレナは武家の裕福な家庭で育ち、両親は敬虔なキリシタンであった。兄弟はおらず両親の愛情と信仰を一身に受け、幼少から好学で信仰心に篤い気立ての良い女性であった。マグダレナは然ることながら祈る事を大事にしていた。
マグダレナはテレーロ神父によってアウグスチノ会の第三会に受け入れられ霊的修道服が与えられた。彼女は休む間もなく苦しくキリシタンや改宗者や未信者の為に働いていた。テレーロ神父とビンセンテ・カルヴァリヨ神父が長崎でキリシタンの為に働き、度々マグダレナ達が隠れている場所に訪問し秘跡を授けていた。やがてマグダレナは立派な先導者となり神父の不在時の対応を担った。テレーロ神父とビンセンテ神父も迫害の嵐にのまれ捕縛された。捕縛後同志らの殉教を見送り殉教の報告を手紙で行った。そしてに彼らも火刑に処され殉教に至った。これによりマグダレナは霊的指導者を失ってしまった。
迫害の嵐は日に日に激しくなっていった。徳川秀忠に代わり家光が三代将軍となりキリシタン達に最後の打撃を加え始めていた。マニラのドミニコ会、アウグスチノ会、フランシスコ会、イエズス会の四修道会が協議し、司祭が奪われつつあった日本の教会を助ける為に11人の宣教師団を派遣する事となった。ドミニコ会のジョルダノ・アンサローネ神父は日本に上陸したが密告により、すぐに全国指名手配となった。同じドミニコ会のルカス神父やエルキシア神父、ヤコボ朝長神父、トマス西神父らと協力して潜伏し、キリシタンの居場所に巡回しては秘跡を授け、キリシタン達を励ましていた。マグダレナが潜伏していた場所にも訪れた。ジョルダノ神父は彼女の語学力と信徒の先導、信心にとても驚いた。来日したばかりで日本語が不慣れであった。しかしマグダレナはラテン語の読み書きと多少スペイン語ができ、神父の通訳や案内を担い神父は不自由さを感じることはなかった。ジョルダノ神父はマグダレナの新たな霊的指導者となった。
マグダレナは山中生活でも、信心書を数冊肌身離さず持ち歩き、良く読み、良く祈り、主の御声に耳を傾けて霊的生活の日々を進めていた。ついにマグダレナは修道誓願を願い出た。ジョルダノ神父は彼女の信心、信仰、熱意を受け入れた。ロザリオの聖母の御像の前に跪き、主イエスの許嫁として誓いを立て、霊的な修道服を受けた。ドミニコ会第三会修道女の修練が開始された。隠遁生活は厳しく辛く苦しい生活である。粗末な食事を食べ、貧しい身なりであるが、寒暑風雨を忍び、讃美歌を歌い、詩篇を唱えていた。辛いとされる生活だが修練期間に入ってからは彼女は毎日を楽しんでいる様子だった。
 
エルキシア神父、ヤコボ朝長神父、ルカス神父が西坂で殉教した後、ドミニコ会士はトマス西神父とジョルダノ神父の二人だけになってしまった。それでも手分けして夜間は潜伏しているキリシタン達の隠れ場に訪問し、昼間は自ら息を潜めて隠れ著作に打ち込み、休むことなく働いた。ついには身体を壊し重い病気になってしまった。ジョルダノ神父を看病していたトマス西神父であったが、丁度その頃フィリピン管区から日本に帰った「二人の日本人修道士」の大捜索が行われていた。この二人とはミゲル・デ・サン・ホセ神父とトマス金鍔次兵衛神父である。彼らの大規模な捜査網によりジョルダノ神父とトマス西神父は1634年寛永11年7月末捕縛されてしまった。マグダレナは未だ修練期間中であった。
 
ジョルダノ神父の逮捕を聞きつけるとマグダレナは長崎の牢屋の門に駆けつけた。
「私はキリシタンです。ジョルダノ神父様の弟子でございます。牢屋に入れてください。」
門番には相手にされずマグダレナは追い返された。
ここでは話にならないと思い奉行所に出向いた。
「私はキリシタンです。私の指導者であるジョルダノ神父様が牢屋にいます。私も入れてください。」
長崎奉行には残酷さで名高い竹中采女が免職し、榊原飛騨守職直と神尾内記元勝が新たに任命されていた。新来の奉行はマグダレナを見て親切に取り扱った。
「そなたは武家の生まれであるか。美しく知性があり、高貴な大名や皇帝の妃になる価値さえあるぞ。悪いことはいわん棄教するがよい。」
マグダレナは二人の奉行に対して
「この世の肉体的美しさは花の如き儚いものです。しかし椿の花は美しい。首切りの花とお呼びでしょうが、キリシタンにとって殉教者の花。儚くとも尊く潔い。死してもなお咲き誇る永遠の命のよう。永遠における魂の美しさは勝るものなしにございます。」
「貴族に価する唯一の称号は殉教者の血。私の身体には信仰の為に殺された父上母上の血が流れています。私は見ず知らずの大名や皇帝の妃になる予定はございません。私には許嫁がおいでなのです。私の花婿はゼズス様と決まっているのでございます。お見知りおきください。」
「豪気な女よ。人が親切にしていれば訳の分からんことを抜かしよって。そなたの言っていることは理解できぬ。望み通りひっ捕らえて牢屋に入っているがよい。」
牢屋に連行された。マグダレナは賛美歌を歌いながら歩を進めていた。
 
・拷問
マグダレナはクルスの町の牢に収容され拷問の度に牢屋から出された。
最初の拷問は脅すつもりで行われた。マグダレナは両手を縛られ宙に吊るされた。
「棄教せよ」
刑史の脅しに動じず
「お役人様、私を赤子の様にこのような易しい脅しをおかけなされますが、どんなことでも信仰は捨てませぬ。」
眉間に皺を寄せて罵声を上げる刑史に対して微笑んで答えた。腕が脱るまで吊るされ続け、やがて手が抜けて地面に落下した。刑史の皺は次第に深くなっていき、落下する度に吊るされた。繰り返し拷問を受ける度に棄教を強いられるが信仰を棄てなかった。この拷問では屈しないと見て刑史は残酷な拷問を考え出した。
刑史は他の者に炙って細く尖らせた竹を持ってこさせた。刑史は細く尖らせた竹をマグダレナの指の爪の中に差込めた。先が深く刺さるように指を地面にぶつけた。マグダレナの指は五本とも竹串が刺さり、彼女の指からは夥しく出血した。
「女よ、そなたの手に鳳仙花を咲かせてやったぞ。花は地面に咲いておる。地面を這いがよい。」
マグダレナは苦痛の声を出すことはなかった。
「静かであるな。その手で地を掻き、琴を奏でるよ。そうじゃ。そうじゃ。痛いであろう。惨めであろう。棄教すれば終わりにしてやろう。さあ棄教せよ。」
マグダレナは指に刺さった竹串で地を掻きさらに出血し赤く染まった掌に見て、両手を上げて天を仰いだ。
「おゝ天主様、どんな紅玉で、私の手をお飾り下さったのだろうか。日の光に照らされて爛々と輝いておられます。」
赤く染められた両手を合わせて奉行と刑史の方を向いて言った。
「主の贖罪の結果が失われないように私は天主様に願っています。御安心くださいませ。」
逆撫でされていると取った刑史らは、もうなんとしてでも棄教させる事に固執し下げ止まること知らずにいた。
さらに拷問は激化していった。彼女を逆さ吊りして上げ、頭の所に用意した水瓶に身体を下ろして頭を沈めた。窒息寸前で身体を引き上げ、
「棄教せよ」
と拷問をかけ何度も繰り返された。しかしマグダレナは屈することなく拷問を受け続けた。
刑史らの歯止めが聞くことはなかった。マグダレナは水責めを科せられた。口から竹筒を用いて強制的に水を飲ませて、樽のように腹が膨れると腹の上に板を置き、大石を板に乗せ水を吐かせる拷問である。勢いよく強制的に吐き出される為、顔面の穴という穴から水と共に出血する。マグダレナは日に日に増していく拷問を毎日、毎日、何度も、何度も繰り返された。
 
・主とともに
ついにマグダレナは10人のキリシタンと共に穴吊りの刑に処されると宣告を受けた。
1634年寛永11年10月1日に長崎の町を引き廻され、西坂の丘に連行された。西坂の丘へと続く道の間に傍観者に説教をし、同志となった他のキリシタンも彼女の優しさと勇気に励まされた。西坂の丘につくと、刑台が準備されていた。左右2本と上1本のコの字に組まれた刑台であり、その下には1,2メートルの穴が掘られていた。この処刑は先代の長崎奉行の残酷さで名高い竹中采女が考えた処刑方法である。受刑者は裸か薄着のまま首から足首まで縄できつく巻かれる。刑台の横木の滑車に向かって、両足に縛られた長い縄で逆さ吊りにされる。穴の中に体半分まで下ろされ、腰辺りから二枚の分厚い板で蓋が閉められ上半身から光すら遮られ真っ暗になる。急激に頭部に血が溜まると意識がなくなりすぐに絶命してしまう。その為両側のこめかみに傷をつけ、血を少しずつ滴り落たせ苦痛を長引かせるようにした。穴吊りの刑は長い者で3~4日生存したがその日に絶命する者がほとんどであった。刑が長引けば、穴の中に自身の老廃物が重力により蓄積される。これによりさらに苦痛を受刑者に与えることになる。今までの処刑といえば、磔刑や火刑や斬首などが主であった。これらの処刑は「見せしめ」の意味合いが大部分を占めていた。しかし殉教者達にとっては好都合であった。天を見上げ、神を仰ぎ見て処刑される。これを目撃した人達も殉教者達をキリストの証人として見届けることができる。しかしこの穴吊りの刑は受刑者を深い闇に落とし、天も仰ぎ見せず、惨めで辱められて処刑される。ただ苦しめるだけに考案された最悪の処刑方法である。この処刑に比べれば今までの磔刑や火刑は神々しくも輝かしい処刑ともいえる。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰、様々な欲が渦巻く戦国の世。暗く深い闇の穴にキリシタン達は入れられる時代となった。マグダレナは女性では初めて穴吊りの刑を受けた女性であった。
マグダレナの同志となった他のキリシタンは眼、口、鼻、耳から出血しその日に息絶え殉教した。生存の有無を確認され、死亡している者は引き上げられ、灰にして海中に投棄された。
マグダレナも他のキリシタンと同様に生存の有無を確認されたが生存していた為、刑は継続された。
暗い穴の中でロザリオを唱えながら眼を閉じていた。
 
「マグダレナ」
 
「生きるのです。」
 
やさしい両親の声を記憶している。なじみのある声。しかし今聞こえているのはどこか懐かしく温かく優しい力強い声。
 
 
 
「ゼズス様。」
 
 
―― 見ないのに信じる者は、幸いである。――
マグダレナは、主が共にいてくださることがわかった。
 
主は私の羊飼い、私は乏しいことがない。たとい、死の淵の谷を歩んでも私はわざわいを恐れない。
 
3日、4日、5日、6日と、一切の食も取らず穴吊りの刑に処される日々が続いた。不思議な生存に度々縄を解かれ穴の前に座らせられ生存が調べられた。彼女は座らせられ手を縛られたまま延々とロザリオを唱えていた。生存が確認されると再び穴吊りに戻された。
さらに10日が経ち、正気でいるマグダレナを不思議に思い、奉行所は協力者がいるのではないかと調査が入った。マグダレナは引き上げられ一時牢に投じられた。そして牢で役人がマグダレナに話かけた。
「女よ。おぬしはなぜ生きている。誰かが夜間に忍び込んでおぬしに食事を与えているのではないか。答えよ。」
「お役人様、死ななくても驚きになることはありません。私が礼拝するゼズス様が私をお守り下さっているのです。」
衰弱をしているものの、マグダレナははっきりとした口調で役人に答えた。
「つまり協力者がいるということだな。ぜずす、という奴はそなたに食事などを与えているのだろう。」
「食事なんて。主の御手を感じるだけです。穴の中は暗いですが、私の顔に触れるゼズス様の温かい御手で朝を教えてくださるのです。その温かい御手に触れられると痛みや苦しみが減るのでございます。人間は食事だけで生きていないんです。私はゼズス様の慰めによって生きています。」
マグダレナは三つの銀の小粒を取り出した。
「お役人様、どうかこれを刑場のお役人様にお渡しください。私が長く生きているのでご苦労をかけていることでしょう。何かの足しなれば幸いです。」
役人は驚いた。捕縛された際にはすべての持ち物が没収される。もちろん金目の物なんかあるはずもない。しかしマグダレナはどこからともなく銀の小粒を手渡したのである。結局なぜ彼女が生きているのかわからなかった。再び縄で縛られ、逆さ吊りにされ穴の中に投じられた。
 
穴吊りの刑に処されて13日が経った。10月14日。夜空は厚い雲に覆われた。次第に雨が降り穴の中にも雨露が満ちていった。
闇の中に響く板に当たる雨の音、穴に溜まった水に滴り落ちてくる雨露の撥ねる音。
今まで聞こえていた雨の音が消え、耳鳴りがするほどの静寂が彼女を包んだ。
 
 
「マグダレナ」
 
 
彼女の名前が呼ばれると、目の前が一変して明るくなり、温かく大きな手がマグダレナに差し伸べれた。
 
 
「ゼズス様、あなたの御手に委ねます。私は主とともにいます。」
 
 
天からの恵みの雨はマグダレナを導き15日の朝に殉教の栄冠を得た。
 
 
 
山の色が黄や赤に染まり始めた頃。青々と茂る緑の中で早咲きの落ちた椿の花は水面に浮かんでも美しく咲いている。
 

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