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学会で「“教養”を減らし、休みを増やして」といった話

第55回、医学教育学会@長崎に行ってきました。
いちシンポジストとして僕の活動を発表してきたのですが、メインはシンポジウムの立ち上げからチーム構築とマネジメントといった感じでした。
まだ雪が積もる頃から企画を考え、春の訪れとともにシンポジストに声をかけ、夏の日差しが出てくるとみんなで締め切りに追われながらなんとか形になりました。

シンポジストおよび座長の皆さんは、各々活動を続ける実行力・思考力があり、「ちゃんと講義受けてんのか?」と疑いたくなるレベルでレスが早く、そして何より医学生っぽくなく(良い意味で)マネジメントする側としてはとてもやりやすかったです。

何より、このシンポジウムを受け入れてくださった実行委員長の松島先生。ちゃんぽんシンポジウムNeoにて諸々のご手配をいただいた各大学の先生方。学生という分際ながら言いたいことを言わせてもらい、それに対して反論することなく広い心で受け入れ、建設的な対話をさせて頂くことができました。そして、未来に対する期待をたくさん頂けました。大変貴重な機会をありがとうございました。

今回は、僕の発表内容ではなく同じ医学生や先生方と対話する中で思ったことを書き留めようと思います。
結論からいうと、"教養"を減らして・休みを増やしてということです。笑



形骸化した”教養”

さて、今回のテーマである「教養を減らして」にうつります。

「教養を減らして」とは
学生シンポジウムで各団体が発表した後のパネルディスカッションで、僕が言った一言です。あまり考えずに言ったのですが、その後のフロアにいらっしゃる医学教育に携わる先生方から賛否両論のコメントを頂きました。(否と言っても「何言ってんだ!この野郎!」という反論はなく、優しいご意見ばかりでした)

突拍子もなくこの言葉を発したわけではなく、その背景はパネルディスカッションのテーマにあります。

学会の準備段階で、パネルディスカッションのテーマを登壇者たちと決めていたのですが、その中で

「学ぶべき医学知識がどんどん増えて辛い」

という言葉が一部の学生から上がり、
その声はみんなの共感を呼び、医療の現場で必要とされているが大学のカリキュラムでは学びきれない分野(例えば、患者・医療者コミュニケーション、地域医療など)も多くあり、それらを学習する時間をどう担保するか。をテーマとすることに決まりました。

現在進行形で教育を受けている学生側にとって、現状医学生が学ぶべき量は、他の学部と比較しても多いと思いますし、教えてくださる先生方は「君たちは僕が学生の頃より覚える量がかなり増えている」と講義中にこぼしたりします。そしてフロアからの質問でも

「学生にとっては明らかにオーバーカリキュラムになっていると思う」

との声をいただけました。

科学の進歩はおそらく不可逆なので、学ぶべき医学知識は増加していくと思います。6年という制限された教育期間の中で、詰め込むには無理があるんじゃなかろうかと。さらに教養教育は単位取得のために形骸化している面もあると思ったので、
「”教養”を減らして」
という言葉が出たわけです。

正直こだわりを持って発したわけではないのですが、フロアの先生方から従来の型通りの教養教育というよりは、多様な医師のキャリアを知るための時間、自己理解を促す時間、探究学習に充てる、広い意味でのリベラルアーツを学ぶ時間をつくるなどの意見を頂くことができました。



もっと休みを

さて、次に「休みを増やして」にうつります。
もっと休みが欲しいからという完全に個人的な意見なのですが、医学知識の海に溺れて窒息死かけの脳みそのために、夏休みというわけではなくとも、ある程度自由な時間は必要なんじゃないかと思っています。

その自由時間で何をするかというと、アホかと言われるような提案で恐縮ですが

自分の興味関心の赴くままに好きなこと(医学に関連すること)をやったり、医療の現場で必要とされているが、国家試験では問われないor大学のカリキュラムでは学びきれない分野、広い意味でのリベラルアーツを学びに行くことをすれば良いのではと考えています。

もちろん、全部学校でやればええやん。なのですが、、

医学部という国家試験に合格させるという至上命題が課された特殊な環境下において、上記のような知識(広義のリベラルアーツ)の習得はなかなか難しいのではと思っています。個人的には知識の習得にはInduction型とDeduction型の2パターンあると思っていて、Deduction型に特化していることが原因なのかなと思っています。

知識の習得はInduction型とDeduction型の2つ

Induction型とDeduction型とよくわからん言葉が出てきたので解説します。
ここで二つの型を以下のように定義します。

Induction:経験や思考を通して知識を積み上げていくやり方。
Deduction:ゴールや解決したい課題から逆算して必要な知識を得るやり方。

英語で恐縮ですが、意味としてはこんな感じです。

接頭語のInは「増やす・加える」Deは「減らす・引く」という意味があります。
日本語では、Inductionは帰納法、Deductionは演繹法と翻訳されますが
Inの加える、Deの引くをニュアンスとして残したいので、今後はInduction、Deductionという言葉を使います。

例を挙げると、Inductionは研究や探究学習などのように、暗い洞窟を迷いながらも探索し何かを見つけること。または、子供が二足歩行を覚えるようにトライアンドエラーを繰り返して知識を身につけることだと思います。
一方、Deductionは受験勉強や医師国家試験のように、ある特定のゴール達成に必要なものを順序よく身につけていくことだと考えています。つまり、アウトプットありきで知識を要領よくインプットすることです。

Deductionの利点と欠点

もっとも医学生は国家試験に合格することが最重要任務なので、医学部の勉強の多くは、以下に国家試験に合格させるかに重きをおいたDeduction型になっている気がします。ゴールに必要な医学知識を身につけさせ、かつ、求める質を担保するためにはDeductionはとても有効です。カリキュラムを体系化した先生方には頭が上がりません。。笑

しかし一方で、2つ欠点があると思っています。

1つ目は、管理者による適切なゴール設定が必要であること。
まず、Deductionで管理するには適切なゴール設定が必要です。
学校のテストやCBT、国家試験などがそれにあたります。そのゴール設定には可・不可を判断するために正解が必要で、なおかつ数値化できていると良いです。
牧歌的な古き良き時代では、一度ゴールを設定してしまえば再設定する必要はあまりありません。しかし、Chat GPTの出現などで医療を取り巻く環境が大きく変わりそうな社会において、「高度情報化社会において、医学生が見つけるべきChat GPTスキル」なんて適切なゴールを設定することは難しいと思います。

2つ目の欠点は、学生がラットレースに疲れること。
医学生は試験に追われる民族です。在学中はやれテストだ、やれCBTだ、OSCEだ、国家試験だと終わりのないラットレースを走らされている感じです。(国家試験が終わったら研修医だ、専門医だとレースは続くわけですが、、、)
個人的には医学教育においては達成すべきゴール、その達成によって得られるメリットが明確なのでそこまでしんどいものではないと思います。
しかし、増え続ける医学知識や社会変化による要請によってさらに越えるべきハードルが多くなり、さらに越えるべき壁が高くなるってしまうと、ラットレースに疲れる人はどんどん出てくるんじゃないかと思います。

ここまでをまとめると、

変化が早く学ぶ知識が増える現在
医師として身に付けるべき知識・素養の全てやリベラルアーツをDeduction型で対応するのは難しいのでは
というのが個人的意見です。
ゴールを設定する側も大変ですし、ラットレーサーも疲れます。

Inductionの利点と欠点

そのため、知識・素養として身に付けるべきものであるが、教育機関では教えきれないものに対して(例えば”教養”ではなく、リベラルアーツ)はInduction型で対応することが良いのではと思っています。
Deductionはゴールやあるべき姿から逆算して知識を身に付けるやり方でした。一方でInductionというのは経験や思考を通して知識を積み上げていくやり方です。

言葉は悪いですが、ある程度学生を放任させて個人の興味関心の赴くままに好きなこと(医学に関連すること)をやらせる、その過程で大学のカリキュラムでは学びきれない分野を深めることができれば良いのではと考えています。現場であーでもない、こーでもないと探索しながら自分なりの答えを探すことで、自分なりの答えというものも出てくるのだと思います。

もちろん、Induction型にも欠点があります。

一つ目は、ハタ目から見ると何やってるかわからんこと
評価されにくいことの原因は、やっている人とそれを評価する人に共通言語がないことになります。社会的に是であること、認知度があることをやっていれば、それ自体が共通言語になるのでハタ目の人たちは理解してくれます。
ですが、自分しか興味がないことや他の人たちがやっていないことの場合、共通言語がないため他人はあまり理解してくれない傾向にあります。グループ・属性・年齢・タグが似通っていれば通じあうこともありますが、少し離れた人から見ると「まぁいいことやってるね。笑」ってなりがちです。
例えば、同じ医者でもジェネラルに頑張っている人とオペ好きなスペシャリストにはあまり共通言語がないため、オペ好きな人にジェネラルの医療の大切さを力説しても「ふーん」ってなることが多いように。笑

二つ目は、Input(かけた時間・労力)と、Output(その成果)の間にタイムラグがあること。
そもそもInductionは研究と似ていて、洞窟を探索するようなものなので、テストのように回答を入力したらすぐ答えが返ってくるスタイルではありません。そのため、途中で飽きがきたら逃走することも可能です。(逃げたら周りが困る場合を除いて)
続ける中で改善すべき点や見えてくるものもあるので、形にするためにはある程度の時間は必要なんだと思います。

そして、これがInduction最大の欠点なのですが
誰も答えを教えてくれないことです。
教員や周りがヒントを教えるということは可能かもしれません。しかし、実際に経験をしているのは当の本人だけで、そこから得られた思考も本人だけしかできないのも事実です。そのため、自分で時間と労力をかけたものに対して、あっちに行ったり、こっちに行ったり、時には迷いながらも自分で答え(っぽいもの)を見つけだす、というかなりドMな作業が必要になります。


Inductionに必要なヒマ

研究の初期段階において先行研究を調べるのと同じように、自分の興味のあることを深ぼるためにはある程度のInputが必要になります。Inputが少ないと巨人の肩に乗ることもできなくなります。さらにこれもめんどくさいところなのですが、
一定のOutputを出すためには自分が得たInputをまとめ取捨選択する時間、言い換えると情報や経験を統合(Integration)する時間も必要になります。


一方でDeductionにおいてはOutputが大まかにでも決まっているため、それに即したInputをすれば事足りるので情報や経験をIntegrationする時間はあまり必要ありません。
ですが、Inductionにおいては、Input(入力)→Integration(統合)→Output(出力)と3段階を踏む必要があります。そのため、情報の入力とそれらの統合にある程度の時間(ヒマ)が必要となるわけです。

だいぶ前に読んだ「思考の整理学」でも同じようなことが書かれていた気がします。
手元に本がないのでうろ覚えですが、確か「学問には発酵が必要」とかなんたらだったような。発酵とはつまり時間をおくことであるように、思考を整理しまとめるためにはある程度のヒマを意識的につくりだす事が重要だと思っています。

脳のプロセスもInduction

もう長くなってきたので脳の言語プロセスを例に思考プロセスを考察し、ヒマの重要性を強調して終わりにします。
言葉によって人類は発展してきたと誰か偉い人が言っていた気がします(誰か忘れた笑)。人間は言語を使って思考をしますし、言語が思考のトリガーになることが多いです。
そのため言語プロセスと思考プロセスは密接な関係にあると思っています。

生理学的な言葉なのですが、言語活動には側頭葉らへんにあるウェルニッケ野と前頭葉らへんにあるブローカ野が関係しているとされています。
両野の詳しい解説は専門書に任せますが、ウェルニッケ野は主に言語の理解(Input)を司るとされ、ブローカ野は言語の発話(Output)を司るとされています。
そして、ウェルニッケ野とブローカ野が連絡していれば日常会話などの発話はできるのですが、より高度、抽象的な発話に関してはウェルニッケ野とブローカ野の間で頭頂葉の概念中枢を通るとされています。

つまり、脳が複雑な概念や抽象的な問題を発話に関して

Input(ウェルニッケ野)→Integration(概念中枢)→Output(ブローカ野)

という3つのプロセスを通るのが生理学的にわかっています。

結論としては、脳の発話プロセスはInductionによく似ていて、どちらもInputとOutputの間にはIntegrationが存在すること。しっかりとIntegrationするにはヒマが必要なんではないかということです。

結論:もっと休みを

つまり、もっと休みが欲しいということです。

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