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瑣末な用事を瑣末にしない

日常を生きていくためには瑣末な用事もこなしていかなければなりません。
そうしないと生きることがしんどくなるからです。
たとえばゴミをまとめて収集所に捨てにいく。
食事の準備をし、食事を済ませたあとは食器を洗う。
洗濯物を済ませておく。
このように瑣末な用事というのは一般的には家事と言われることです。
それがとにかく面倒くさいというのが本音ではないでしょうか。

誰かかわりにやってくれないだろうかとか、自動で家事をしてくれる機器を買おうかなどいろいろ思案するわけです。
便利な世の中で、現代では家事代行や自動で掃除を済ませてくれる機械もでてきました。

いくばくかの金銭を出すことで、家事のような瑣末なことから開放されることができるでしょう。
お金を払うことで自分の時間を得るわけです。
その空いた時間でなんでも好きなことをできます。

しかし私は少しもったいない気がします。
家事のような瑣末なことでさえも、自分を成長させてくれる糧となるからです。
なぜそのように言えるかというと、家事を丁寧に行うことで成長できたからです。

たとえば私は妻より後に帰宅してくるので、必然的に食事の準備は妻になります。
さきに帰ってきたほうが料理をしておけば、私が帰宅したと同時に食事ができるからです。
妻が食事を準備してくれたので、私は食器を洗うようにしています。

食器を洗うことはなんのことでもないかもしれません。
ただ洗剤をつけて食器を洗えばいいだけですから。
しかしこのとき、自分の心と体の行っていることは一致しているでしょうか?

体は手を動かして食器を洗っています。
しかし心の方は食器を洗うこととは全然関係ないことを考えている可能性があります。
たとえば明日の予定や準備のことなど。
あるいは趣味のことを考えているかもしれませんし、テレビを見たり音楽を聞いたりしているかもしれません。
食器洗いの例でたとえてみましたが、日常的に心と体が行っていることが、一致していないことが多いのではないのでしょうか?

私はこのことに気づいたとき、瑣末な用事でも丁寧に行うべきだと気づきました。
なぜならばどんなちっぽけな用事であっても、雑に行えば生活に支障がでてしまい、自分を退化させてしまう可能性があるからです。
退化というのは自分が落ち着きがなく物事をよく考えずに行う人間にしてしまうということです。

以降、私は食器を洗うときは心では食器を洗うと考え、体でも食器を洗うようにしています。
つまり心と体を一致させるのです。
するとそこから深い集中が得られるようになりました。
何事を行うにあたっても、集中できるようになったのです。
個人的にこのことには驚きました。

ただ目の前にある瑣末な用事を丁寧に片付けることで、深い集中力を得られるようになったのです。
このおかげで私はどこでも読書をすることができるようになりましたし、ごくわずかしかない趣味の時間も満足して過ごせるようになりました。
それはやはり心と体の一致を心がけているからなのかもしれません。

日常的に毎日行わなければいけないことは、雑になりがちです。
雑になっても用事を片付けることはできるのかもしれません。
あるいは誰かがあとでやってくれるのかもしれません。
しかし雑に行うことでその分、自分の成長する機会を逃しているのかもしれません。
そうならないためにも、瑣末な用事こそ丁寧に行うべきでしょう。

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