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12.自分には大学教員としての発想ができるのか?

日経電子版の記事によるケーススタディ

大学教授になろうとするとき、そもそも自分は現代の大学教員としての発想、考え方ができるのかを考えなければならない。このことを確かめる上で格好のケースが2024年4月12日の日経電子版に出ていた(同記事は4月14日朝刊27面にも掲載)。

『「来年度は契約更新しません」。2020年12月、関西の私立大で英語を教えていた50代の男性は、大学側からの突然の宣告にがくぜんとした。16年度から学期ごとに5〜6コマの授業を担当。必修科目の英語はコマ数も多く、当然のように講師の仕事を続けられると思っていた。
雇い止めの理由として突きつけられたのは、大学が学生に実施したアンケート調査だった。「授業がわかりにくい」「声が小さい」――。自由回答欄に男性の授業に対する学生のクレームが連なっていた。授業の満足度や理解度を尋ねた5段階評価で、男性はいずれの項目も中間評価の「3」は超えたが、教員全体の平均は下回っていた。最も差が大きかった項目は0.9ポイント低かった。
大学側がそれに加えて重視したのが「不合格率」だ。教員が合格と認めなければ学生は単位を取得できず、翌年に改めて同じ科目を受講し直さなければならない。他の英語の非常勤講師の不合格率は軒並み1%前後にとどまり、最大20%の男性は際立っていた。
「学生の英語能力の向上に資する有益な授業をできていない。受講した学生や他の教員から担当変更の申し出が多数あった」。大学側はこうした状況を挙げ「他の非常勤講師と比較してふさわしくないとされる評価内容が多い」などと追及した。男性は労働組合を通じて大学側と交渉したが解決に至らず、雇い止めは無効だとして21年4月に大学を提訴した。』
(2024.4.12日経電子版 揺れた天秤~法廷から~より)

提訴の経緯など詳しいことは以下の記事をお読みください。
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00010020Z00C24A4000000/

あなたはこの記事を読んでどう思っただろうか?


この非常勤教員の主張を当然として大学当局をけしからんと思うか(裁判所もそう判断している)、記事のニュアンスのように(暗に)学力の低い学生を入学させるのが問題だし、学生におもねるような他の教員や大学も問題だ、とするか。

私は、20%も不合格者を出すようなこの非常勤教員の教育力は低いと思っている。

試験の点数(あるいは学生の成績)と言うのは先生が学生にどれだけ理解させることができたか、という先生の評価でもある。だから学生の点数が悪いと先生はがっかりする。そして自分の教え方や授業内容を反省するのが大学教員として普通の発想だ。成績は結果通りつけざるを得ないが、自分の授業のどこが悪かったのかを見直し、専任教員にも相談して授業を改善するのが当たり前だ。この記事を書いた記者は理解していないが、学生アンケートとは自分の授業を改善するためにある。多くの大学では、教員は授業アンケート結果に対して次年度はどこをどのように改善するかを提出しなければならない。それは学生におもねることではなく、学生が何をどう理解しなかったのかを考え、改善案を考えることである。
 
副学長をやっていた私の観点からすると、学生の点数が低い先生は総合的な教育力に問題がある。例えば出席が悪かったり、なかなか課題を提出しない学生が多かったりするのは先生が「なめられている」からだ。あるいは学生に学びの楽しさ、成長の喜びを伝えることができなかったのだろう。非常勤教員であれば他の専任教員が手助けして授業を改善してもらう。本人が改善に意欲を示せばもう一年お願いしよう。しかし自分の方が正しく、悪いのは学生だ、と思っているのであればお引き取り願うしかない。
 
専任教員なら、お互いに教育力を高めるためにFD(Faculty Development=教員が授業内容や方法を改善・向上させるための組織的取り組み)研修をしている(象牙の塔にこもる孤高の大学教授というイメージは払しょくしていただきたい)。語学なら専任教員・非常勤教員がチームを組み、共通の教材を使い、意見交換をしながら学年全体の進捗を見つつ授業を進める。問題のある学生の情報も共有する。現代の大学ではチームティーチングが当たり前なのだ。もしかしたらこの非常勤講師がいる大学ではそれがあまりできていなかったのかもしれないが。
 
さて、ここまで読んで大学教授になりたい皆さんはどう思われただろうか。大学教員としての発想になじむことはできるだろうか。それは何よりも目の前の学生の成長を第一に考える、ということである。それができるかどうか自問してみよう。

(写真は教員によるFD研修の様子)


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