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「銀河鉄道の夜」を今、読む

4月も終わりが見えてきた。そんな時に、本の話でもしよう。

以前、インスタでも時々読書記録を書いていたのだが、こちらでもそれを踏襲しようと思う。


宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(岩波文庫)。


もう有名すぎて、何も説明はいらないだろう。

僕にとっても、これは創作の原点となっている作品である。大学に入った年に、所属していた高校の演劇部員達が、オリジナルの脚本で文化祭と地区発表会に参加したいと言っていた。それを聞いた、僕よりずっと年上のOBの先輩が、この「銀河鉄道の夜」を下敷きにした、オリジナルストーリーの脚本を書いたのだ。それを上演した演劇部は、地区発表会を勝ち抜き、県大会に進んでいる。

僕はこの先輩と、もう1人の年上の先輩と一緒に、脚本作りに加わった。といっても、当時の僕は何もできず、ただ側で先輩達のディスカッションを聞いているだけだった。

しかし、1からオリジナルの脚本ができて、それを実際に演劇部員達が稽古で芝居として作り上げていく過程に立ち会えたのは、その後の僕の人生にとって、非常に大きな転換点になった。何故なら、この一連の流れの中に身を置くことで、創作の面白さに気付き、次の年の、自分の初オリジナル脚本の製作に繋がったからである。


勿論当時も、何度も読んだと思うのだが、今回、スキルシェアサイトの脚本執筆のために改めて読む機会に恵まれた。二十歳になったばかりで読んだ「銀河鉄道の夜」と、今読むそれは、同じ作品なのに、だいぶ違った印象を持つ。ことに、ジョバンニとカンパネルラの別れのシーンは胸を打つ。親類だけではなく、友人・知人や後輩の死を経験すると、2人の別れが、何の前触れもなく突然にくる、というのが、実感と深い悲しみを伴って迫ってくる。

また、これはいくらかテクニカルな話かも知れないが、この物語は、言ってしまえばよくある「夢オチ」である。しかし、それがそう感じられないのは、ジョバンニが銀河鉄道に乗って旅をしていた一連の部分が、単なる「夢」ではないのではないか、と思わせるように、「夢」と「現実」の繋ぎ目が作られているからだ。実際には、夢から覚めるように、「夢」の世界から「現実」に急に連れ戻されているのだが、そうと感じられないように、いわばクッションのような部分(ジョバンニと博士の会話)が挿入されている。このことで、「夢」と「現実」が、グラデーションのような段階を経て切り替わる。

ある意味、ジョバンニとカンパネルラは「本当に」一緒に旅をしていたのだ。そして、それが2人揃っての最後の旅になった、というあたりが切ない。


また、この作品が出色なのは、銀河鉄道の車窓の見事な描写である。どんなにアニメーション制作の技術が進んでも、この童話の「完全な」アニメーション化は(勿論実写化も)、未来永劫不可能であろうと思わされる、圧倒的な表現だ(かつて一度だけ劇場アニメーション作品が作られたが、あまりパッとしなかった)。賢治は、読者の想像力を最大限に引き出すべく、様々な比喩を用いて、銀河鉄道に沿って流れる天の川をはじめとする風景や人、鳥等を描いていく。文字しか使っていないのに、ここまで映像的な作品が、これまであっただろうか。

そして、その美しい、息を呑むような風景に重ねて、天上へと向かう同乗者達=死者の悲劇が語られる。さらには、唯一(?)死者ではないジョバンニが持っている「どこまででも行ける切符」。「天上どころではない」所まで行かれる切符とは何だろうか。これも、読者の想像力を掻き立てるものだ。


前述した、先輩が書いた脚本でも大きく取り上げられていたが、この物語のキーワードは「ほんとうのさいわい」である。蠍座の逸話や、カンパネルラの行動などから、それが何なのかが示唆される。もの凄く簡単に言えば、それは「自己犠牲の精神」とでもいうものだろうか。自分を投げ出してこそ、「ほんとうのさいわい」がもたらされる。「自己犠牲」とは、何も命をかける事ばかりではない。それができる人間だけが、「どこまででも行ける切符」を持つ。その難しさ。でも、やり遂げなくてはならない使命感。銀河鉄道に乗ったジョバンニは、確かにそれを胸に刻んで生き始めるのだろう。

今回改めて読んでみて、銀河鉄道の中のジョバンニが、かなり気持ちの波があったことに気付いた。特に、「悲しい気持ち」をよく抱く。勿論、他の乗客達も心の動きはあるのだが、ジョバンニ自身の置かれている境遇(母親は病気で、父親は漁に出たまま帰らず、それをネタにいじめられている)とも関係があるのだろうか。また、カンパネルラは、表立ってジョバンニをいじめから庇っていない。もしかしたらその後ろめたさが、カンパネルラをして、ジョバンニを最後の鉄道の旅に誘ったのだろうか。そうとも読めてしまうが、穿ち過ぎだろうか。


僕はこれから脚本を書くわけだが、二十歳の僕が感じたこと、そしてあの時先輩が書いた脚本、それらを超えて、今の僕の言葉を紡がなくてはならない。馴染み深い素材ではあるが、こんなに難しい仕事もない。

しかし、とにかく取り掛かろう。

今の僕は、どんな切符を持っているのだろうか。

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