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磯崎新さんからの学び(前編)

2022年12月28日に磯崎新さんがご逝去されました。にわかに信じがたいですが、心よりご冥福をお祈り致します。初めてお会いしたのが2009年。最後にお会いしたのは2019年なので10年間接点を持たせていただいたことになります。どのように接点を持たせて頂いたか振り返るうち、せっかくなので私的備忘録としてまとめてみることにしました。

2009
磯崎さんとの出会い?は2009年1月28日に東浩紀さんが企画され東工大で行われた「アーキテクチャと思考の場所」というシンポジウムでした。東さんが「藤村龍至という建築家が・・・」と話題にして下さり、なぜか壇上で東さんが磯崎さんにそこにいない私の試みを説明して下さっているという不思議な状況になりました(一聴衆に過ぎなかった私は満員の会場で椅子に座れず通路の床に座って聴いていました)。その後『思想地図』アーキテクチャ特集でシンポジウムの記録とともに拙稿「グーグル的建築家像をめざして」が掲載され、論壇誌にデビューとなりました。

おそらくそれが磯崎さんに私の名前を認識して頂くきっかけになり、その後インタビューを許して頂き、初めて磯崎さんのご自宅へ伺ってお目にかかることができました。インタビューは編著者としてまとめ2011年11月に刊行された『アーキテクト2.0』の巻頭に収録されました。

2010
インタビューのあと、その場で企画していた「LIVE ROUNDABOUT JOUNRAL 2010」へのご登壇をお願いし、翌2010年2月6日に実現することになりました。その流れで2010年にTEAM ROUNDABOUTで企画しEYE OF GYREで開催された展覧会「CITY 2.0─WEB世代の都市進化論」にご出展頂く流れとなり、9月24日のオープニングにて「孵化過程」(初演1962年・再演1997年)切断パフォーマンスの再再演もして頂くことになりました。

インタビューでの語りもそうですが、自らにとっての近過去である1962年の出来事も取り込んで自己言及することで歴史の一部として語り、やり残したことも含めて積極的に意味付けていく。その姿勢は大いに学ぶところがありました。

磯崎さんのパフォーマンスとその後のインタビュー(2010年9月24日・EYE OF GYRE)

2012
2012年3月11日から4月16日までEYE OF GYREで開催された「『超群島 HYPER ARCHIPELAGO』展 - 3.11以後、アーキテクト/アーティストたちは世界をどう見るか?」では1997年の「海市」のバージョンアップ版「海市2.0」をご提案させて頂きました。私にとって1997年の出来事は自ら体験できたギリギリ意味付けが可能な近過去の範疇でした。

もちろんただ再演するのではなく、更新内容こそが近未来を語るうえで重要であることは磯崎さんから学んでいたことでした。そこで私たちは、ひとつの都市モデルをひとりの作家がひとりの作家へと独占的、破壊的に受け継ぐのではなく、複数の作家が複数の作家へインタラクティブに受け継ぎ、かつ履歴を保存する都市設計のかたちをご提案しました。

展覧会と「海市2.0」を企画したTEAM ROUNDBAOUTメンバー

2013
その後、岩波の論考集『磯崎新建築論集』にて編集協力者のひとりにご指名頂き、頻繁に磯崎さんのご自宅へ伺うことになりました。翌2013年9月26日に発刊された論集第6巻「ユートピアはどこへ  社会的制度としての建築家」では解説の執筆も担当させて頂きました。

2013年12月25日から~12月30日にかけてゲンロンカフェで開催された「『フクシマ』へ門を開く - 福島第一原発観光地化計画展2013」展のオープニングが開催された24日の夜、磯崎さんがサプライズで来場されたことがありました。

集まる人の顔ぶれを見て、クリティカルな議論ができそうだと感じたら多少インフォーマルな場所でもふらっと現れて議論する。来場することでその議論の場が選ばれた場になる、そんな感覚がありました。

2014
2013年12月14日から2014年3月2日にかけてICCで開催された「都市ソラリス」展では1997年に同センターで開催された「海市」の再演をご提案した経緯もあり、プレイベント、第3回、第10回の総括会議へとお招き頂き、プレゼンの機会も頂きました。

このような頻繁なやり取りを経て、同年秋に刊行された初めての単著批判的工学主義の建築を刊行する際には磯崎さんに帯文を書いて頂くお願いをしました。締め切りの日になって諦めかけていたところ、すっと届いたのが下記のテキストです。

ザッハ・ハディドをみいだして30年過ぎた。
妹島和世をみいだして20年過ぎた。
つぎに、思想を持った建築家が現れるのは2015年のはず。
藤村龍至の「批判的工学主義の建築」はこの期待に応えてくれるか。

拙著『批判的工学主義の建築』(2014)への磯崎新さんの帯文

私はまだ初めての単著として書き溜めていた雑文をなんとかまとめて脱稿=切断したばかりで文脈を見渡す余裕がありませんでしたが、思想を持った建築家の再来(が期待される著作)として一言で要約されていました。

2015
2015年5月18日、映画「だれも知らない建築の話」をめぐって石山友美監督と対談をしていたら、会場にスペシャルゲストの磯崎さんが遅れて登場したこともありました。

映画「だれも知らない建築の話」をめぐるトーク(2015年5月18日・代官山蔦屋書店)

藤村「まずは映画の感想を」

磯崎「この映画の前に、前作の映画をまず評価した。事件の導入と描き方に映画の組み立てがある(・・・以後「富士見カントリークラブ」のはてな型をしたプランの説明30分程度・・・)この映画で何が『事件』かというと、安藤でも伊東でもなくて、福岡地所の藤オーナーが出て来ること。」
「彼が建築家を使って儲けようとして、ネクサスで80年代の終わりに建築が商品化してしまう95年以後の世界を予見した。ネクサスはバブルの崩壊と重なって販売に苦戦し、藤は建築家をボロクソにいう。なのに藤に集合住宅の設計を依頼されたコールハースや他の建築家たちは藤のことを『尊敬している』という。これが95年以後の建築で起きていることに繋がる」
「藤がその後成功したのはジョン・ジャーディをキャナルシティに起用したこと。ジャーディなんて建築界では全然評価されていないのに評価された

藤村「『だれも知らない建築の話』ってジャーディのことだったんですね!」(会場笑)

磯崎「ネクサスのタワーも自分が下りたら、無名の建築家が売り込んでそのチームが手がけることになり、コールハース達は怒っていた。発注者からしたら、グレイブスやジャーディのように高く売れれば誰でもいい」

藤村「一番高く売れたのは実作のなかったコールハース達ですね」

磯崎「住宅はクライアントを騙せばいい。公共は一歩難しい

藤村「とはいえ磯崎さんは1980年代に細川護煕を『騙して』熊本県で伊東さんや山本さんを起用することに成功したわけですが。2000年代後半になると特命随意契約が難しくなりました。そこでコミッショナー制度の総括が必要になるのではないでしょうか」

石山「最初は『コミッショナー』というタイトルだった

会場からの質問「磯崎さんへ質問。自分は建築を勉強しているんですが、これからは住民参加とか考えなきゃいけないんでしょうか」

藤村(質問の意図を解説)「彼はそれがやりたくなくて磯崎さんに否定してもらいたいだけですよ」

磯崎「自分は考えない。国内はワークショップなどがあって面倒だから、それを避けて中国に行く」

藤村「頑張って中国語を覚えましょう(会場笑)。ただし、あなたが中国に行く頃には中国もワークショップの時代になっているかも知れない」

(質問を受けて)藤村「磯崎フォルマリスム住民参加バージョンにアップデート可能。『群馬県立近代美術館』のキューブを住民に並べさせればよいし、『富士見カントリークラブ』のチューブを投票で切断すればよい。それに一番近いことをやっているのが新居千秋だし、『eコラボつるがしま』も上から見ると実は(富士見と同じ)はてな型」
『湘南台文化センター』で長谷川逸子さんがワークショップを始めた時、ほとんどの建築家が否定的だったが唯一丹下さんだけは肯定し、長谷川さんをハーバードに送り込んだ。丹下が生きていたら彼もワークショップをやっていたかも知れない。権力のあり方が変われば建築家のあり方も変わる」

磯崎「権力のあり方は変化したけど、自分はもう歳だからやらない」

藤村FB・2015年5月27日の投稿より

2017
2017年11月8日には開催された国際文化会館でのレクチャーシリーズ「Architalk」での磯崎さんの講演「都市-記号の海に浮かぶ<しま> 」にてファシリテーターを務めさせて頂きました。壇上で磯崎さんと議論させて頂いたのはこれが最後の機会となりました。

余談となりますが磯崎さんの講演を初めて聴いたのは今から23年ほど前、東京藝大で開催された岡倉天心の「Book of Tea」に関するもので、藝大美術館での「間―20年後の帰還」展(2000年10月3日-11月26日)に関連して行われたものだと記憶しています。話がどんどん拡散していくのだけど、最後にすっと最初の問いに戻ってくる構成にとても感動しました。

磯崎さんのレクチャーは難解に聴こえますが、最後に戻ってくる構成や理論の枠組みさえ知っていれば、理解しやすく、質問もしやすい。いつか自分のレクチャーもそんなレクチャーを真似するようになりました。

2018
2017年の暮れ、大分市で「中心市街地祝祭広場整備事業設計候補者選考に係る公募型プロポーザル」なる公募があり、チームを組んで応募しました。2次審査の審査員は羽藤英二さん、高山明さんが加わっているということで2017年秋にちょうど開催されていた高山明/Port Bによる「ワーグナー・プロジェクト」に共感していたこともあり、「ワーグナー・プロジェクト」が開催できそうな軽いストラクチュアを持つパブリックスペースを提案したのです。

2次審査はとても奇妙な会場で行われました。建築家チームは会場中央に立たされ、一般市民が囲んで床座で座り、ポップコーンを食べながらプレゼンを聞いており、質問もします。審査員はそのなかに混じり質問をするのですが、会場の一番奥、羽藤さんの横に磯崎さんの姿が見えました。募集時にはなかった「総合アドバイザー 磯崎新」という名前が2次選考になって登場しました。

委員長 羽藤 英二 東京大学工学系研究科社会基盤学専攻 教授
委員 関 信介 株式会社JR大分シティ 代表取締役社長
委員 高山 明 東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻 准教授
委員 林 信一郎 大分中央地区自治委員連絡協議会 会長
委員 姫野 由香 大分大学理工学部 助教
ほか

「大分市中心市街地祝祭広場整備事業設計候補者選考に係る公募型プロポーザル説明書」より

運悪く発表順が1番であった私は最初に粘着系市民に捕まってしまい、的外れな質問に答えているうちに時間をだいぶロスした上、あまり専門家との質疑応答を行うこともできずに終わってしまいました。これまでいろいろな審査会に参加してきましたが、大分市のこのプロポほど奇妙な審査会場の構成は今までに見たことがなく、せっかく磯崎さんに提案を見て頂くのに惜しいことをしたと思いました。

最終的に勝利したのは2番目にプレゼしたヨコミゾマコトさんのチームでした。ガントリークレーンをモチーフに磯崎風の動く構造の屋根で、確かに60年代を再解釈し、大分の地域性も感じさせるストーリーの提案になっていました。市民の質問も軽くいなしつつ、自らのペースに引き込んで語り、聴かせるプレゼになっており、比べるとまだまだ経験が足りないと実感しました。

なお磯崎さんに対し私が何か自らの案をご説明する機会に恵まれたのはこれが最初で最後でした。

後編へ続く


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