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過去の自分と決別したかった。

あ、どーも!
村松ですーー。
この間猫ミームで仮面浪人の1年間をみんなに見てもらったんですけど、高校時代から早稲田に合格したときまでの過程をみんなに知って欲しくて今回みたいに書く事を決めました。なんか自分語りみたいで「何言ってんだこいつ?くそだせーな」と思うかもしれないんですけど、なんでそこまでして早稲田行きたかったの?って疑問に思う方がめっちゃいたので今日この投稿を通して全部伝えようかと思います。
ちょっと長くなるかもだけど、受験を経験してもしてなくても皆さんに是非見て欲しいです。
そして、これを見て、「こういう奴もいるんだ!」みたいな感じでみんなの今後の人生において何かの参考になってくれると本当に嬉しいです。

じゃあ行きますよー! 

  

〜Go for 早稲田〜

昔から決して頭のいい人間じゃなかった。
てか、寧ろ馬鹿。

中学校はまともに勉強の習慣が身に付いていた訳でもなく、定期テスト前だけにやるだけだった。
成績はいつも中の下。
サッカー部に入ってて、運動神経が極端に悪く、監督やコーチにも嫌われていた為3年間補欠。今思えば、中学時代は辛く、苦しい思い出が殆どを占めてた。
昔から変わり者で、不器用で、頭が悪くてどうしようもない奴だった。とにかくやばい奴って感じ。(今もね!!!)

でも、周りからはいつも
「村松ってメンタル強いよね」
「村松のメンタルまじで見習うわ」

自分ではそう自覚してなかったけど、なんかそうらしい(笑)。でもサッカー部で理不尽なことが沢山あったから、その過程でいつの間にか強くなれたんだと思う。練習とか履いていた靴を水浸しにされたり、試合の時にお昼ご飯食ってる時にある先輩からサンドイッチの間に石を入れられて危うく歯が欠けそうな時もあったなぁ…w (これ以外にもこんな風なエピソード沢山あるから誰かしらと飲んでる時にこっそり教えますね笑)
当時部活のメンバーとも仲良くなかったから、正直自分の居場所がゼロに等しいほどなかったし、相談できる人も周りに誰1人いなかった。人前では絶対涙を見せないって自分のポリシーにあったから中学校が俺と同じだった人は分からなかったと思うんだけど、実は学校と部活が嫌すぎて殆ど毎日家で泣いていたんだ。
それがイジメっていうかイジリっていうかよく分からんけどやられてる俺は正直めっちゃ嫌だったね(笑)

まぁ、沢山そんな感じなことがありましたよ…笑
でも、そういう経験があったからつらい受験も耐えられたと思うんだよな!w

家が大正時代から建設会社を経営してて、最初は日大工学部に入りたい為に、中学の担任から勧められた日大の附属の日大東北高校に進学。
サッカー部に入り、昔からの運動神経の悪さは全く治らず、同じチームの仲間から酷く怒られる毎日だった。
学業面から言うと、定期テストはいつも中の中、しかも進研模試は偏差値34。いつもテスト1週間前しか勉強しなかったから相変わらず勉強の習慣は全く付いてなかったようだ。とにかく大学の名前とかも東大か早稲田か慶應くらいしか知らなかったし、センターとか一般試験とか、受験の仕組みなんて全く分からなかった。でも1年の時のクラスは周りがみんないい人たちばかりでめっちゃ楽しかった。中学校の頃は暗い思い出が殆どだったから、その分高校生活がめっちゃ楽しく感じられたし、毎日学校に行きたくてしょうがなかった。

1年の7月、元々ホームステイとかの生活に興味があったから、学校で開催していたオーストラリアへの2週間の短期研修に俺は参加していた。初めての異国の地でマジで不安しかなかったが、そこで仲良くなった同級や先輩方のお陰で実りある研修となった。その後研修が終わって日本への帰国し、学校で到着式を行って全員が解散した後、その引率の先生から呼び出しを受けて、最初は結構この2週間ふざけてめっちゃはっちゃけてたし、多分怒られるのかなぁと思いきや、開口一番、

村松君、生徒会やってみない?、君には人を惹きつける魅力があるよ。君は先輩とか関係無く誰でも仲良くなれるし、そういうのピッタリだと思う。僕が応援してあげるから9月の選挙に出てみない?」

最初はなんのこっちゃと思ったけど、俺のお迎えで偶然の場に居合わせた母から、

「いいんじゃない? 何事も経験だよ。」

と言われ、夏の終わりの生徒会選挙に書記として立候補。

結果は定数ぴったりで信任投票だったものの、お世話になっていた先輩が大多数いて、その応援があったお陰で、当時同じく書記に立候補先輩役員を抑え、トップ当選。

生徒会の日々は本当に楽しかった。
普通の生徒では出来ない経験をさせてもらえたし、優しい先輩に囲まれて幸せだった。(めっちゃパシられてたけどww)

本当にサッカーが下手で部活で周りから怒られ、責められるのが本当に嫌で、大した用事もないのにずっと生徒会室にいた時もあった。
多分周りに怒られる自分から逃げてたんだと思う。

そして、2年の8月。
高校が日大の附属だった為、全国の附属の生徒会が集まる会議の為に、2泊3日で長野に滞在。
福島の田舎者が、東京とかのシティボーイの奴らに馬鹿にされないかマジで怯えてたし、移動の新幹線の中でずっと震えてた。
でも到着後にグループ毎の班分けがあったんだけど、みんな本当に優しくて、とにかく優秀過ぎた。

その時各グループでプレゼンがあったんだけど、さっき言った通り優秀だからとにかく段取りが凄い。福島の田舎に住んでたからそういった人達には会ったことがないし、物凄く衝撃的だった。
その3日間は本当に楽しくて仕方がなく、最終日の日程が終わり、ふと帰りの新幹線の中で、

「日大の工学部に入ったら、こんな県外の奴らと関わる機会あんまないよな。ちょっと外の世界を見てみたいわ。いつまでも福島にいたら井の中の蛙になるわ。環境変えたくなって来た。」

この時から進路を県外の大学にシフトチェンジ。理系だったから、日大の理工とか生産理工、法政の理工を目指すようになった。

うちの高校は特進科と普通科があって、特進科が所謂国公立や難関私立を目指す人達。
そして俺がいた普通科は90%以上が日大の内部推薦や指定校推薦を目指す人達ばかりだった。だから授業も大学受験向けの授業じゃなくて、基礎学と呼ばれる附属内のテストや、志望理由書の指導ばかりだった。

後々予備校に通うことになるんだけど、その授業を比べれば正直高校の授業のレベルがちょっとアレすぎて愕然としたねw
例えば、定期テストも英語だと授業でやった長文の和訳をただ覚えておくだけで、80点以上取れるようなテストだった。だから大学入試もそんな問題ばかりなのかなぁってバカみたいな勘違いもしてた(笑)

勉強したくても、どういった勉強すれば良いか分からない。そんな状況で、進研模試ではいつも通り偏差値40台をキープしていた。

2年の9月。周りの後押しもあったお陰で、生徒会長に就任。まさか生徒会長になるとは入学時には思ってもみなかった。でも会長時代は、台風の校舎浸水やらコロナは蔓延するやらで、殆ど活動出来なかった。体育祭や文化祭が中止になり、今まで考えてた俺の構想が一気に水の泡となった。
余談なんだけど、コロナ時に校内放送で文化祭の中止が決定が伝えられた時、学校のトイレで1人で泣いていたんだ。当時の生徒会の担当の先生に慰められて取り敢えずショックだったなぁ。

そして3年の4月頃、コロナで学校が休校になり、大した目標もなくただぷらぷらと過ごしていくうちに、ある日インスタから一件のDMが来た。

「こんにちは!早稲田のO(仮名)っていいます! よろしくね! コロナで受験生が辛い思いをしてると思って何か出来ないかと思ったので、色々と龍之介くんにLINE電話でお話を聞きたいと思ってます!
どうかな?

現役の早稲田生と話せるから、悪い話ではないと思うので、検討してみてください👌」

さっきも言った通り、受験勉強で何したら良いか分からなかった為、この連絡はまさに俺にとっての蜘蛛の糸だった。
そのOさんから受験エピソードや当時在学していた早稲田の事を色々を聞いて、いつの間にか

「俺、早稲田に行きたい」

って思うようになった。

この事を親に話したら反対されると思いきや、
「お、良いじゃん。頑張れよ」
と返された。

そこから俺の受験勉強が始まった。
当時理系だったから、英数物。
参考書を取り敢えずかき集めて、勉強し始めた。さっき述べたように俺は不器用だったから要領が掴めず、勉強しても大して成績は上がらなかった。
今思えば、勉強のやり方が間違ってたんだと思う…

最初は早稲田の創造理工学部を目指してた。
そこは東大や旧帝大の理系の滑り止めで受ける人達が多くを占める学部だった。ある日、早稲田の入試サイトを調べてみたら、

必須科目  英語・数学
選択科目  物理・化学・生物のうち2科目を     選択

「え?選択2科目やん!物理はやってるけど化学とか生物履修してないから受けれんやん。早稲田受けられないやん、おわた。」

でも、幸いなことに理系3科目で受けれる学部もあり、人間科学部と教育学部の受験を決めた。

月日は流れ、3年の秋頃。
基礎学(日大内部進学のためのテスト)が終わり、指定校推薦やらの人達の進路が決まり始めた。大体の学校は内部推薦や指定校は比較的少数かもしれないんだけど、俺の学校は圧倒的大多数。必死こいて勉強している中、進路が決まった奴らに一般で受験する事を煽られ、馬鹿にされるのが本当に苦痛で学校が心の底から嫌いな時があった。村松が早稲田を目指すという噂が広まり、親しくもない他のクラスの奴らにめっちゃ馬鹿にされた。これらが本当に嫌で長期間学校を休んだ時もあって一時期不登校の時があった。(思い返してみると生徒会長だったのに不登校はやばいわw)

そして月日は流れ受験当日、泊まっていた高田馬場のホテルから東西線で早稲田に向かった。少し細い道を抜けていくとそこはこれから受けようとする早稲田大学だった。そして荘厳とそびえ立つ大隈講堂に俺は度肝を抜かれた。周りを見てみると大晦日のNHKのゆく年くる年に写る浅草寺の初詣くらいの人数がいた。俺から見た限り恐らく各都道府県のトップの進学校の奴らで、うちの学校より遥かに偏差値が高い学校だと思う。(でも実際は記念受験の人も沢山いるんだけどねw)

最初に英語の試験が始まり、次に数学、物理と続いた。
結果は撃沈。
一般受験の怖さを初めて思い知った。

高校卒業後、予備校に入ろうとしたけど、そもそも福島には予備校が本当に少なく、あったとしても合格実績がイマイチだった。そして予備校には入らず、取り敢えず世間一般でいう宅浪で受験勉強を始めた。授業も受けれなかったし、いろいろ参考書をネットとかで調べて、1人で勉強していた。

特に浪人してて、中高の同級から「村松って今何してん?」と言われるのが本当に怖かった。
周りが殆ど推薦とかで大学に行って浪人があんまり受け入れられなかった環境にいたから話すのが嫌だったんだよな。

コロナ禍であんまり外出が出来なかった為、体重も高3から15キロ増量して、最高で78キロ。いわゆるデブの領域に達した。

月日は流れ、2回目の早稲田受験。少しは出来きるようになったが、合格にはまだ程遠く、結果は不合格。たくさん努力しても報われない人生の厳しさを痛感した年だった。

そして2浪目。
当時、Netflixでイカゲームを実家のリビングで見てる最中に、お世話になってたOさんからいきなり電話がかかって来て、 

「村松君さ、日本史やってみない?なんか村松君って嫌々数学とか物理やってるように感じるんだよね。」

全くその通りだった。本音は最初から物理や数学とかやりたくなかった。家が建築系の会社を営んでいたからそれらを選択せざるを得なかった。本当は小さい頃から歴史といったが暗記系が得意だった。そして咄嗟に、

「日本史やりたいです!参考書教えて下さい!」

てな感じで数学・物理から国語・日本史へと文転した。
宅浪で流石に早稲田はキツいから、東京の予備校に入塾した。理系だったから、国語や日本史の勉強なんてしたことが一切無く、一からのスタートだった。国語は最初は古典文法や漢字、そして日本史は縄文時代から一から基礎を積み上げた。勉強に集中したいから友達は作らず、全く喋らない生活が続いた。
唯一口を開くのはコンビニで、
「すいません、レジ袋お願いします」
「箸は一膳でいいです…」

くらいだけだった。
でも、田舎暮らしで東京の大都会の環境に不慣れだった為、体調を崩す事が多かった。それで話し相手がいない。予備校が早稲田の近くだったから、高田馬場ロータリーでは早稲田生らしき人達が楽しそうに遊んでた。それを見て俺は嫉妬しか感じる事が出来なかった。毎日が絶望の日々だった。俺はよく人と比べる癖があって所謂"他人軸"で生きる人だったから、尚更周りが大学生としてサークルの飲みとか彼女のデートの投稿をインスタとかでみた俺は強い劣等感を感じ、本当に自分が嫌いになって自己嫌悪の毎日だった。正直、辛すぎて本気で自殺しようかなと思ったこともあった。

そして、3度目の早稲田受験。
他大も併願し、合格を貰っていたため、比較的リラックスできる状況で受けられた。でも蓋を開けてみれば現実はそう甘くなかった。
英語の読解はミスるわ、日本史の書き取りはミスるわで散々な結果。結果は早稲田全落ち。
「流石に大学生にはならないとなぁ…」という思いで、
とある大学に進学。

昔から諦めの悪い性格だったし、何事も最後まで達成しないと気が済まない性格だった。

だからその受かった大学で仮面浪人を決意。
大学の授業あり、予備校にも通えない為、1浪目と同じく宅浪だった。
本当に言葉で表せないくらい辛い毎日だった。
行きたくもない大学に行って勉強する。
そんな苦痛な毎日が続いた。

勉強に集中したいから、そこでも友達を作らずずーっと口を開かない無口な生活をして。酷い時は2ヶ月くらい一言も喋らない時もあった。
取り敢えず、去年予備校で使ってたテキストをもう一度復習して、足りないところはネットで調べて合いそうな参考書をメリカリで注文。平日は大学行って、帰宅後に勉強。休日はまるまる受験勉強に注いだ。でも、大学の登下校や授業が疲れて寝ちゃう時もあった。
そして大学の課題もあったから、単語帳片手に大学から出された課題をやる。マルチタスクを続ける日々だった。大学の授業は、楽そうな授業はちょい休みがちだったけどちゃんと単位を取って、会計とかテストで成績の大半を決める面倒い授業は切ってた。(計画的落単ってやつw)

1年を通して河合とか駿台とか色々模試を受け、成績もだんだん上がって来て、明治や法政で闘えるレベルまでなんとか持っていった。
でも早稲田に受かるレベルには全然到達してなかった。

夏の終わり、メルカリで各学部の赤本を10年くらい一括購入して、過去問研究に勤しんだ。いつの間にか問題の出題の形式を見るだけで、「あ、これ〇〇学部ね。」と即答で答えられるくらい詳しくなった。

過去問をやり込んだお陰で日本史だと簡単な年度だと9割、難しい年度だと7〜8割ペースを維持できるようになった。やっと、成果が現れるようになった。英語も関正生先生や竹岡広信先生の参考書を使用していたお陰で段々と早稲田の難しい長文が読めるようになった。

全く人と喋らず、苦しい事などを誰にも相談せずに、1人で抱え込んでいた為、夏頃には半鬱状態になり、精神安定剤的な薬を飲み続ける日々だった。こんなふうに精神が不安定になり続けたけど、早稲田に対する憧れは消えておらず、心の底から絶対受かるぞという闘志がメラメラと燃えていた。

秋頃になると、受験勉強がしたいが為に大学を休みがちになった。正直、受かって1年で絶対辞めてやるって思いだったからどうでも良かった。あ、でもグループワークとか休んだら人に迷惑をかけてしまう授業は必ず出席していかな!

大学と受験勉強の両立が本当に辛かった。

そして月日は流れる冬になった。正月は共通テスト直前だった為、実家には帰省できなかった。多分ばぁちゃんが俺に会えるのを楽しみにしてたと思うから、本当に辛かった。冬季講習はちょっとだけ取るつもりだったから、新宿小田急近くの河合塾新宿校に冬の間はそこで授業を受けに行き、朝から晩までそこの自習室に籠っていた。

そして共通テスト本番、早稲田はスポ科も受けないし、共テ利用もしないから共テは別に必要なかった。通ってる大学が家から近くだったから、てっきりその大学で受けると思いきや、和光大学??っていう聞いたこともない大学で受験した。

結果は散々だった、英語Rは激難化するし、本当にヤバかった。大抵の早稲田合格者は普通に8割以上取るし、それに満たない俺は絶望していた。
呆然とした俺は、電車で来たにも関わらず、受けた会場から住んでいる部屋まで1時間かけて下を向きながらトボトボと帰って行った。正直ショック度合いが大きすぎてそのことはあんまり覚えていないんだ。

1月の最初辺りに多くの私大の出願受付が始まり、俺は早稲田の6学部と明治の政治経済と商を受けた。死ぬ程勉強したから、ちょっと今年は自信があり、直前期は毎日12〜14時間勉強を続けた。 

そして2月に入り私大受験に突入した。
最初は2月11日の明治の政治経済学部からだった。
万全な状態で挑むつもりだったけど、試験当日
体のだるさと熱っぽさを感じた。熱を測ると37.6℃で、熱を出していた。次の日は早稲田の文化構想学部だったため、試験慣れさせるためにもどうしても行かなきゃダメだった。体に鞭を打って、電車に乗り会場到着。本当にいつ倒れてもおかしくない状態だった。出来はまずまずだったけど、日本史が凡ミスしてたことを帰りの電車の中で気付いた。その日は具合が悪かったのでそんな事はすぐ忘れて帰宅後すぐ寝てしまった。
そして次の日は早稲田初戦の文化構想学部。熱はまだあり、怠さも残っていた。休もうかと思ったけど、

「ここで休んだら今までの勉強が無駄になる。この体が死んでも何がなんでも行ってやる」

と、体をふらつかせながら会場へと向かう。具合が悪かったからそんなに覚えてないけど、
いつ見ても早稲田の大隈講堂は、俺を圧倒させるほど凄かった。こんな素晴らしい環境で勉学に励みたい。その一心だった。
手には5年前に亡くなった大好きだったおじいちゃんの遺骨が入ったケースを握りしめていた。

そして併願で受けていたとある学部の休憩時間。その日は先日受けた明治の政治経済の合格発表。ソワソワしてしまい、個室トイレでこっそり結果を見てしまった。
そして、発表欄には

         "不合格"

と書いてあり。

ショックでその場で泣いてしまった。
そして心の中で

「俺はこんだけやっても明治にも受からないのか」
「俺のやってきたことは無駄だったのか?」

そうやって自分を責めるばかりだった。
取り敢えず、割り切ってその後の教科に臨んだ。その夜受験の相談等でお世話になったOさんと電話をした。正直泣きそうになりながら通話し、その方に慰めてもらおうとした。そして電話の最後にOさんから

「取り敢えず先月受けた共テと今日受けた文構の問題をもう一回解け。」

と言われ、電話を切った瞬間すぐに解き直しを始めた。解いてるうちに言葉にあんまりうまく表すことが出来ないんだけど、ちょっと心がスッと軽くなった感じがした。

早稲田6学部に加えて明治も2学部受けた。
試験は最高で4連チャン。本当にキツかった。

ダイエットのため、体重を13キロ減量して、ランニング等で体力を付けたにも関わらず、体が悲鳴を上げていた。そして疲労で頭が重くなり、受験後半の記憶なんて殆ど無い。覚えているのはとある学部のめっちゃ可愛かった試験補助員の顔だけ。(いや試験に集中しろや俺w)

そしてなんやかんやあって全部の試験が終了。
全体的に手応えがあんまりなくて帰り道は半泣きしてたけど、やり切った感じはあった。心の底から開放感が伝わって来て、入試直後に浪人の時に出会った友達とめっちゃ遊びまくった。

早稲田の受験終了後2日後、明治の商学部の合格発表。政治経済の一件もあってか、手を震わせながら合否発表のボタンを押した。そしたら

"合格です。おめでとうございます"
と書いてあり、やっと一定の成果を出せた嬉しさがあった。

親にもすぐ電話で連絡して、喜びを分かち合った。
でも心の底からは喜べなかった。
何故なら、何がなんでも早稲田に行きたかったからだ。
早稲田以外行くつもりはない。

「俺は大学に行きたいんじゃねぇ、早稲田に行きたいんだ。」

正直、明治なんか行きたく無い。
早稲田落ち明治は絶対に嫌だ。
俺は早稲田に受かるために全てを費やしてきたんだ。

そしてその3日後、早稲田のある学部の合格発表日。その時は既に2学部の不合格が決定して、窮地に立たされてきた。発表が9時だったので、緊張しないために10時くらいに起きてあえて緊張を紛らわそうとした。でも起きたら何故か7時だった。起きてから合格発表までの2時間は生きてきた中で1番長く感じた2時間だった。そして、9時になって発表を見ようとした。
緊張で吐きそうになりながらも、発表サイトの合否閲覧のボタンを押した。
そしたら、

      おめでとうございます。
         -合格-

 
最初は夢か現実か分からなかった。取り敢えず自分のほっぺをつねった。
現実だったのだ。
その瞬間。無意識に涙が溢れ落ちてきた。
咄嗟に親に連絡をして。

「俺…早稲田受かったよ…」

そう言ったら親が
「まじで…?そうだよなお前頑張ったもんな…、春から早稲田生だな…!」
と涙声で言った。
祖母にも電話して、同じように涙を流しながら一緒に喜んだ。家族中大騒ぎ。
中学や高校時代の恩師にも報告し、同じような反応だった。

やっと成果が出た。
諦めなければいつか報われるんだ。人間、本気でやれば不可能でも可能に出来るんだ。あの頃、すぐ妥協していた過去の自分に勝ったんだ。
お世話になった予備校の先生曰く、俺は逆境に強いタイプらしいです(笑)
ハングリー精神ていうか、今までの嫌な経験からの反動でこういう大きな結果として身を結んでくれたんだと思う。
多分今生きている中で一番大きな成果なんじゃないかと俺は思った。

そして最後に、
相対的に見て、早稲田は偏差値という枠組みの中では確かに私立で一番の大学かもしれない。
でも、俺は決して高学歴になりたいから早稲田を目指したんじゃない。(多分高学歴になりたかったら俺は一番上の東大受けてると思うww)
この早稲田受験はあの頃のすぐ妥協して投げ出していた過去の自分と決別するための一つの挑戦だったんだ。

これでゴールじゃない。
これはスタートなんだ。

今まで支えてもらった家族や先生、そして助けてくれた先輩や友達に恩返しをするためにこれから早稲田で4年間頑張るぞ。

4月から念願の早稲田生です。
取り敢えず、大学で初カノ出来るように受験と同じくらい努力します(笑)

- 終わり -

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