留年コンバット

日記とか

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最近の記事

たまにノートを書いては、読み返して公開しない方がいいなとやめるばかりで、読み返すこともなくすぐに投稿できるつぶやきばかりが増える。8813は偉いよ。

    • メタファーを通して物事を理解する(既にあるものになぞらえて理解する)ことは、物事をわかりやすく受け止める方法というより、むしろ名前のついていない事象について仮に名付けて理解しているという点で、より本来の理解に近いような気もしてならない。というか、それ自体が理解することというか。

      • どうやら俺は「親-子」的なコミュニケーションが苦手(あるいはあまりよく知らない)で、大体の場面で「祖父母-孫」「叔父叔母-甥」(加えて「自己-自己」)みたいなコミュニケーションをしがちなのかもしれない。妹は死んだから知らんが。

        • 少なくとも僕の人生を貫く幻想はとうに自殺ではなくなってしまっていて、その実態が何なのかはいまいちよくわからないにせよ、寝て起きてSEXをしては寝るみたいな、そういう単純なリズムによるものでしかないことはある程度確からしい。と、半額のレタスを買うかどうか迷いながら思った。

        たまにノートを書いては、読み返して公開しない方がいいなとやめるばかりで、読み返すこともなくすぐに投稿できるつぶやきばかりが増える。8813は偉いよ。

        • メタファーを通して物事を理解する(既にあるものになぞらえて理解する)ことは、物事をわかりやすく受け止める方法というより、むしろ名前のついていない事象について仮に名付けて理解しているという点で、より本来の理解に近いような気もしてならない。というか、それ自体が理解することというか。

        • どうやら俺は「親-子」的なコミュニケーションが苦手(あるいはあまりよく知らない)で、大体の場面で「祖父母-孫」「叔父叔母-甥」(加えて「自己-自己」)みたいなコミュニケーションをしがちなのかもしれない。妹は死んだから知らんが。

        • 少なくとも僕の人生を貫く幻想はとうに自殺ではなくなってしまっていて、その実態が何なのかはいまいちよくわからないにせよ、寝て起きてSEXをしては寝るみたいな、そういう単純なリズムによるものでしかないことはある程度確からしい。と、半額のレタスを買うかどうか迷いながら思った。

          俺の最大の敗因は絶望ごっこに馴染めずに絶望ごっこをし続けたことだな

          俺の最大の敗因は絶望ごっこに馴染めずに絶望ごっこをし続けたことだな

          ジョーカーってラストシーンの「最高のジョークを思いついたけど理解できないだろうから教えてあげない」っていうところが、語りのせいではなく、閉ざされたアーサーの世界として喜劇が成り立っているっていうことになってて良い。魯迅はそれを滑稽に描いてしまったけど、ジョーカーとは逆に。

          ジョーカーってラストシーンの「最高のジョークを思いついたけど理解できないだろうから教えてあげない」っていうところが、語りのせいではなく、閉ざされたアーサーの世界として喜劇が成り立っているっていうことになってて良い。魯迅はそれを滑稽に描いてしまったけど、ジョーカーとは逆に。

          幸せと幸せののりしろみたいな部分にいるせいで全くもって幸せではない。陳楸帆が現代中国を「引き裂かれた世代」と形容したように、マクロな幻想なくして幸せなんてなし得ない。

          幸せと幸せののりしろみたいな部分にいるせいで全くもって幸せではない。陳楸帆が現代中国を「引き裂かれた世代」と形容したように、マクロな幻想なくして幸せなんてなし得ない。

          地頭って先天的な能力を指す場合と、後天的につけられる汎用的な思考能力(それがなんなのかは知らないけど)を指す場合があって、(ある程度相関はあるのかもしれないけど)その2つが混同されるからややこしいことになる。

          地頭って先天的な能力を指す場合と、後天的につけられる汎用的な思考能力(それがなんなのかは知らないけど)を指す場合があって、(ある程度相関はあるのかもしれないけど)その2つが混同されるからややこしいことになる。

          なんかよくわからないけど、何かが起こって、何か考えてみたり何かやってみたりしたけど、結局何もわからずにただ生きていく、みたいな小説をよく好きになる

          なんかよくわからないけど、何かが起こって、何か考えてみたり何かやってみたりしたけど、結局何もわからずにただ生きていく、みたいな小説をよく好きになる

          ずっと俺だけが何もわかっていなくて、俺だけが間違い続けている

          ずっと俺だけが何もわかっていなくて、俺だけが間違い続けている

          脳内の正しいことを言う存在が紛れもなく自己であることくらい知っている

          脳内の正しいことを言う存在が紛れもなく自己であることくらい知っている

          所謂人生のレール(もしくは成功のモデルケース)みたいなものって、どれくらい社会(共同体)の維持のためで、どれくらい個人の欲求に応えるためのものなのだろうかとたまに思ったりするけど、いずれにせよ相対的な幸福だけの中で生き続けるのも、それはそれでやっぱり苦しいのかもしれないとも思う。

          所謂人生のレール(もしくは成功のモデルケース)みたいなものって、どれくらい社会(共同体)の維持のためで、どれくらい個人の欲求に応えるためのものなのだろうかとたまに思ったりするけど、いずれにせよ相対的な幸福だけの中で生き続けるのも、それはそれでやっぱり苦しいのかもしれないとも思う。

          書くより話す方が早くて、聞くより読む方が早いのキモ過ぎるし、今までは「世界にある全てを読むことはできない」という絶望しかなかったけど、それに加えて「自分の中にあることでさえ全てを話すことはできない」という絶望が重なって人生が終わっている。

          書くより話す方が早くて、聞くより読む方が早いのキモ過ぎるし、今までは「世界にある全てを読むことはできない」という絶望しかなかったけど、それに加えて「自分の中にあることでさえ全てを話すことはできない」という絶望が重なって人生が終わっている。

          寂しさという忙しなさと、言語化というサーフィンと、観念としてのおっぱいの死(下書き 2022/10/03)

           下書きに保存してあったものです。  半年前はおっぱい唯物論者になりかけていたらしい。  寂しさってなんだか不思議なもので、一口に寂しいといっても、よくあることのような、前もこんなことがあったような、でも毎回ちょっとずつ何か違うような、そんな気持ちになります。感情なんてそんなものだし、全く同じ経験なんてないことを考えれば当たり前と言えば当たり前だと思いますが、なんとなく不思議でなりません。  人や場面とか、自分の状態とかが違っても、その経験をぎゅっと絞って構成要素を調べてみ

          寂しさという忙しなさと、言語化というサーフィンと、観念としてのおっぱいの死(下書き 2022/10/03)

          個人的なことと、自分語り。

           個人的なことについてよく考える。よく考えるし、多分みんな考えてるのだろうと思う。  自分語りという言葉が嫌いだ。  論理的とか、ロジカルとか、言語化とか、倫理的とか、道徳的とか、人道的とか、そういう言葉くらい嫌いだ。  言葉は本来恣意的に使われていて当然だとは思う。そもそも、恣意的に"論理的"という言葉を使うこと自体変ではあるかもしれないけど、それはひとまずいいとして、色のついていない言葉なんて存在しているのだろうかと思う。  ふとJ-rockヒットチャートを見てみよう

          個人的なことと、自分語り。

          3年前にGOMESSの「お前らも本当は会話できていないんじゃないのか」ってパンチラインを聞いてから、言語を始めとする何かしらの媒体の使用といった間接的な方法でしかある事象への説明はなされ得ないという、不完全で不自由な表現形態に執着するしかない現状へのぼんやりとした無力感がある。

          3年前にGOMESSの「お前らも本当は会話できていないんじゃないのか」ってパンチラインを聞いてから、言語を始めとする何かしらの媒体の使用といった間接的な方法でしかある事象への説明はなされ得ないという、不完全で不自由な表現形態に執着するしかない現状へのぼんやりとした無力感がある。