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「凹んで」と「ふくらんで」を繰り返して僕ら

先日、Yielding Embodiment®︎(イールドワーク)のワークショップに参加してきた。

ワークショップに参加すると多くの学びがあり、非常に為になる。
プラクティショナー役だけでなく、クライアント、オブザーバー役をすることで気づくことが盛り沢山。
とても有意義な時間なのだが、ワークショップに参加すると必ず凹みポイントに出会う。
凹みポイントがあるから学びと変化につながるのだと思うのだが、まぁ、気持ち的にはない方がいい(笑)
しかし、今回もしっかりと凹みポイントが用意されていた。

今回の凹みポイントは大きく4つ。
そのうち2つは恥ずかしいのでここには書かない。書かないったら書かないので、残り2つを書いていきたい。

1つ目は初日のデモセッション中に起こった。
田畑さんのワークを見ている時に突然、
「ぼくは何も知らないし、わからない」
という実感がどわぁ〜っとやってきたのだ。
以前から頭では、ぼく個人がわかることなんて何もない。という理解はしていたつもりだったのだが、身体は納得していなかったらしい。
この実感は強烈で、”突きつけられた”という表現がぴったりだった。
やっと辿り着いた落ち着き先を取り上げられたような気がして、デモセッションを眺めながらひとり涙ぐみ、混乱し、あわあわしていた。

もう1つは、4日目のこと。
イールドワークのセッションでは、触れる時に強い意図をもたない。
ただ身が動くようにクライアントの身体に触れる。
ぼくもそんな動きを出来た気になっていたが、そうではないことにハッと気づかされたのだ。
今回のワークショップでは、空間の質感がキメ細やかになっているのを感じており、自分の動きのコマ数も多くなっていた。
成長した部分なのだが、感じられるコマ数が増えたことにより、治療家時代に身につけた「触診」のパターンが発動してしていることに気づいてしまったのだ。
触診では”感じよう”と意図し、感じたことを分析し、そこから方針を組み立てる。もちろん、その文脈では有用なものだ。しかし、イールドワークのセッションでは不要なパターンなのである。
治療家時代に身につけたパターンをかなり脱ぎ捨てたと思っていたので、この事実にも結構凹んでしまった。
(治療家時代が無駄だったわけではなく、その経験が統合されるのはまだ先のことだと思っている。治療家からイールダーへの移行は現在進行形で進んでいて、最終日には嬉しい気づきもあった。この事については後日改めて書く予定。予定は未定。)

凹むことがあり、そしてその凹みが膨らみ、また凹み、また膨らむ。
人生ってその繰り返しなんじゃないかと思う。
目を逸らせば凹まずに済むかもしれないけれど、それは面白くないし、ちゃんと凹める人が好き。
”生きてる”って実感をしながら日々生きていたい。


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