1人のアイドルに人生を救われた話

こういうものを書くのははじめてだから、読みにくかったり色々間違っているところがあったらごめんなさい。

俺には物心ついた時から母がいなかった。
そして、父は優しい人だった。

保育園の帰りはスーパーで買った20円か50円引きの菓子パンを2人で割って食べていた。父はいつも失敗したふりをして大きい方を俺にくれていた。
いつも目の下にクマを作っていて、繋いだ手はいつも痩せていて、土日も仕事をしているような忙しい人だったけど、本当に優しい人だった。

怒られた記憶も数えるくらいしかない。
本当はここで怒られた時のエピソードを話せたら良かったんだろうけど、生憎何で怒られたのかも忘れてしまったくらい、怒らない人だったのだ。

小学生になってから、俺の母だった人が再婚したこと事を知った。子供ながらに聞きたくても聞けなかった事を祖母があっさり教えてくれて、驚いたけど不思議なことにショックはあまりなかった。
俺は父が大好きだったし、学校の先生も友達も近所の人もすごく優しくて幸せな日々だった。

中学生になってもそれはあまり変わらなかった。
父子家庭でそもそも父があまり家にいることがなかったからか、大した反抗期もなかったように思う。父はいつも俺に対して「お金がなくてごめんね」だとか「お家が狭くてごめんね」だとか「ゲームを買ってあげられなくてごめんね」だとか、謝ってばかりいたけど、住んでいたところが田舎だったからかゲームより木登りとか公園でのボール遊びの方が俺は好きだった。
いや、少しこれは強がりもあったかもしれない。たまに兄弟がいる友達の家に遊びに行って友達の兄のDSを貸してもらってマ〇オカートで遊んだりもした。
高校生になったらバイトもはじめるつもりだったから、その時になったら自分で買おうと思っていたし忙しい父のために少しでも家にお金を入れられたらと思っていたのだ。

そしてついに高校生になり、近所のコンビニでバイトをはじめた。許可制だったから高校に申請をして、テスト期間以外は扶養から外れない程度にシフトを入れた。
地方だったから最低賃金も安かったけど、お客さんもまばらだったので割には合っていたと思う。何より俺の家の事情を知ってる店長が賞味期限切れのパンやおにぎり、弁当をくれるのが嬉しかった。(後で知ったが本当はダメなことらしい)
この頃には父の仕事も少し落ち着いてきて、日曜日は必ず家にいるようになった。
父はコンビニのシュークリームが好きで、高校2年の時の誕生日にはシュークリームセットと少し高い靴をプレゼントした。すごく喜んでいて、泣きそうな父を見て俺も少し泣いた。
今までちゃんと誕生日をお祝いしてあげたことがなかったことを後悔して、来年からはちゃんとお祝いしようと思った。

そして、進路選択の時期になった。俺は色々な事情も考えて就職かなと思っていたけど、父は意外にも進学をすすめてきた。
聞くと、今までかなり忙しくしていたのは俺の大学、専門進学のための資金を稼ぐためもあったのだという。今まで不便をさせたし、奨学金は色々大変と聞いたから、と言っていた。
俺は改めて父に感謝したし、生まれ変わってもこの人の子供になりたいと心から思った。


それから俺は大学生になり都内に住むために一人暮らしをはじめた。しばらくは順調で、長期休みの時は家に帰ったり、日帰りで旅行に行ったりもした。社会人になったらもっと親孝行するのだと決めていた。祖父母もまだ健在だったから、たまには家族全員で温泉旅行もいいななんて呑気に思っていたのだ。
結果的にそれは叶わなかった。俺が大学2年の時に祖父が亡くなり、それを追うように数ヶ月後に祖母が亡くなった。
祖母の葬式の時、父は泣かなかった。俺は涙脆くて祖父母どちらの時もボロボロ泣いて、息が出来なくなりそうだった。涙の脆さは父譲りだと思っていたから、少し驚いた。


そして俺が大学三年の夏、父と連絡が取れなくなった。就職活動がはじまり今年の夏は実家に帰れないかもしれないと連絡をしようとした矢先だった。LINEも電話も繋がらない。3日に1回は元気か?と連絡をくれる心配性な父には考えられないことだった。
嫌な予感がして、近所に住む親友に実家を訪ねてもらった。仕事が終わっているであろう夜にインターホンを押してもノックをしても返事がないと言われ、電気もついていないらしい。俺は警察に連絡した。
自殺だった。

(詳細は省かせてください)


しばらく放心状態で、お通夜も葬式もしたはずなのによく覚えてない。ただ、祖母の葬式の父と同じように俺は泣けなかった。
悲しくて辛いはずなのに、涙が出なくて、それがすごく嫌だった。
遺書もなく家も荒れていない、誰も住まなくなった部屋にはじめて訪れた時、これは夢なんじゃないかと錯覚した。
そして気づいたら俺は精神を病んで、入院していた。食事が喉を通らなくて、夜は眠れない。後悔なんて山ほどあって、死んでしまいたいと毎日思った。
父にしてもらったことを思えばこのまま就職して普通に暮らしていくのが正しい選択なのかもしれない。でも、それができなかった。
家族の死を乗り越えられる気がしなかった。そうして病院のベットの上でただ時を過ぎるのを待つような日々。

そんな時、彼に出会ったのだ。
病院の1人部屋、なんとなく見ていた朝の番組は「なにわ男子デビュー」の文字で溢れていた。正直、アイドルには興味がなかった。今まで趣味と呼べるものは無かったし、学生時代も休みはほぼバイトに使っていたから触れる機会もなかった。
ただ友達やSNSを通じて名前は聞いたことあるな、くらい。
ベットの上から見る彼らはひどくキラキラして眩しかった。俺とそう年齢の変わらない人間とは思えないくらい。

ただ、なんとなくYouTubeでなにわ男子と検索した。その1番上に出てきた夢わたしの動画を見たのだ。


正しく、"刺さった"のだと思う。
俺は高校球児ではないし、部活動で熱い夏を経験したことはないけれど、メロディと歌詞、歌声。彼らの歌う姿。涙が出た。何故だか父を思い出した。いつも優しくて謝ってばかりで、涙脆くて、俺の大好きな父。どうして?とかなんで?はいつか俺が死んだ時にいくらでも聞いてやりたいと思った。

そしてなにわ男子の中でも瞳がキラキラ輝く、綺麗な顔をした小柄な男の子、忖度なく天使みたいだなと思った。
それが大西流星くんだった。

それから大西くんを中心になにわ男子の動画や、ライブのレポ、テレビ番組を見漁った。
お医者さんからは趣味ができるのはいいことだよと言ってもらえて、週一回のカウンセリングではなにわ男子のことを話すようになった。

少しずつ食事が喉を通るようになり、点滴の数が減った。
ブログを読むようになって大西くんのたくさんの言葉に触れた。日曜日を担当する彼は仕事を頑張る人、勉強を頑張る人、そして人生を頑張る人への言葉を毎週綴ってくれた。
有料なので詳しい言葉は省くが、それにいつも救われていた。
勉強も仕事も何も頑張れていない自分ではなく人生を頑張っている自分なのかもしれない、と思えるようになった。

家族の死、それを経験しない人なんて殆どいないだろう。そしてその殆どの人が乗り越えて前を向いている。もしくはそれを背負いながらも日々頑張っているのに、ってどうしても考えてしまう夜はあったけど明日を迎えるのが怖くなくなった。
そんな日にはいつもなにわ男子の曲を聴いていた。

大西くんを好きになって、彼のジャニーズに入所してからの過程を知った。年齢に似合わずしっかりした彼の根底や、辛いことや頑張っている事をファンに見せないアイドルとしての強さ、今のキャラクターになるまでの苦難を俺ながらに調べて咀嚼した。
キラキラ輝いて見える彼にも過去があり、当たり前だけど同じ人間でこの瞬間に生きているのだ。

「いろんな立場でいろんな景色を見てきたつもりです。」の一言に込められた今までのこと。

「ファンの皆さんの手だけはこれからも離さないでいたい。」その言葉に込められた彼のアイドルとしての決意。

俺が辛い時、背中を撫でて、そばにいてくれるわけではない。話を聞いてくれたり、目の前にきて俺だけのために言葉をくれるわけではない。
でも、俺はこの時、彼に一歩踏み出す勇気を、一歩踏み出すための背中を押してもらった。

これが"アイドル"なんだと思った。

それからゆっくりとなにわ男子の活躍を楽しみにしながら、筋力を取り戻すためにリハビリを兼ねたウォーキングをはじめた。お供は勿論彼らのデビューシングル。
成人男性なら少し恥ずかしくなってしまうくらいの可愛い曲は彼らがパフォーマンスすると更に100倍可愛くてキラキラして見えた。

たまに父のことや祖父母と過ごした日々がフラッシュバックして苦しくなる日もあったけど、大西くんやなにわ男子に何度も何度も背中を押してもらった。大西くんがいろんな番組に出演して、ドラマや映画のオファーもあって、得意のメイクも雑誌で取り上げてもらえたりするのが本当に嬉しかった。アイドルを応援することってこんなに楽しいんだとはじめて知った。

そして、彼らのセカンドシングルが出る頃には退院ができて休学していた大学にも通い始めた。自分の身体と相談しながら就職先を探し、大学の友人も気を遣いながらもまた遊びに誘ってくれるようになった。
入院していた間も何度かお見舞いに来てくれたりした地元の親友も、まるで生前の父のようにこまめに連絡してくるようになったのが少し照れくさいが嬉しくもあった。

就職活動を終えて、父の葬式ぶりに地元に帰った時なんかは俺より泣いていた。つられて俺も泣いて、高校2年の父の誕生日を思い出した。

その日は父の命日だったが、一周忌はしなかった。父は一人っ子だったし思い当たる親族もいなかったからだ。
親友の車に乗り、祖父母と父が埋まる寺に訪れてその時はじめてちゃんと父の墓を見たような気がした。
蝉がうるさくて、太陽は眩しくて、すごく天気がいい日で、それでも不思議と嫌な感じはしなかった。
綺麗に墓石を掃除して、俺は寺へ来る直前にコンビニで買ったシュークリームを墓へ供えた。
夏場なのですぐに悪くなってしまわないか心配だったが、当時ネットで調べた時にお供物はその場で食べてもいいと書いてあったので、線香に火をつけて花を供えて手を合わせて5分ほどしたあとに親友と割って食べた。
保育園の時に父と一緒によく食べた菓子パンを思い出した。

やっぱり涙はでたけど、死にたいとは思わなかった。今でも父のことが大好きだと思った。
自殺するほど辛かったことに気づけなかった俺を、父は許してくれるだろうか。考えても仕方ないことばかり浮かんできたけれど、俺はまだ生きていたいと思った。
泣いて泣いて、きっと一生分くらい泣いた。今日は泣いてばかりだなって親友に言われて、暑さと脱水で干からびる前に車に戻った。

帰り道の親友の車ではなにわ男子のGoodDay‼︎を流した。大西くんの「汗水垂らして頑張ってきたね」のパートが優しくて、歌詞を見ると泣いてしまいそうになるくらい、心に寄り添ってくれるなにわ男子らしい曲で元気が出る。
親友にも「いい曲だね」と言ってもらえてなぜか俺が誇らしくなった。それと同時にああ、もう俺は大丈夫だと思った。

一緒にがんばろう!!!

大西くんのその言葉だけで、いくらでも頑張れる気がした。毎週毎週、今でもずっと助けられてる。
ありがとう。アイドルになってくれて。
ありがとう。ずっと大好きです。

最後に俺がなにわ男子の中で1番好きな曲を貼っておきます。

https://youtu.be/6euDFWUngQ0

誰かじゃなくて大西流星くんがいいです!!




1人のアイドルに人生を救われた話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?