愉快ジン#26

まただ。
本日もとにかく朝が弱い自分はたっぷりと時間を消費しながら布団から出る。そして限られた時間の中でぎゅうぎゅうに詰め込んだ予定を消費していく。生活リズムもへったくれもない。
ドMのように時間を使ったのは他でもない自分なのに何かと理由をつけて血眼になりながらアクセルを踏む。今日もギリギリの戦いである。職場へ到着すると一目散に控室へダッシュ。これで何度も遅刻を回避してきたし何度も遅刻してきた。
到着すると面倒見の良い主婦さん2人が息子のように温かい目で迎えてくれる。でも今日はなんだかしんみりムード。様子がおかしい。どうしたんだろう。

すると僕の到着とほぼ同時に開口一番。
「今日退職することを店長に伝えようと思う」と言った。
最古参であるこの主婦さんの発言は何よりも重たいものだった。というのも、かねてから「ここで働けて嬉しい」が口癖だったからだ。彼女に一体何があったのだろう。
理由を聞くとやっぱりある人物の名前が出てきた。
店長だ。
店長は30代後半の男性である。
耳にはピアスの跡。
そして腕には根性焼きのような痛々しい跡が何箇所に渡ってクッキリとある。
それもそのはず。昔はよくヤンチャをやっていたと度々武勇伝を聞かされる。地元じゃ有名なヤンキーだったらしい。仕事中は指先が出るタイプの布製の手袋を付けている。事故防止のために付けているというが、沢山の悪行を聞いた後だと、喧嘩用のグローブにしか見えない。それか「ウィッシュ」が口癖なあの歌手から多大な影響を受けた人。Bボーイらしい服装も当時の名残だろうか。とにかく攻撃的で角のある話し方をする。今年子どもを授かって丸くなったと言っているが、丸いのは名前の「丸井」くらいだ。僕は過去に何をしていようが今更生していればやましい先入観で人を見ることはないが、今でもそう見えてしまうということはヤンチャが残っているということだろう。
おっと、話が大きく逸れそうだ。

この店長は今年の4月にやってきた。
前店長はとにかく自由なスタンスでスタッフの面倒見がよく、自主性も重視した店内環境を作っていた。僕は1日中占いをしてもらってた。一方で現店長は超がつくほどの神経質で利己的。「おれが正しい」の一点張りで王様である。スタッフを歩兵のように扱う。そして事あるごとに怒号を上げる。夜中にも怒りのLINEが来たりする。まあ僕は内容も見ずに既読無視にしてるけど。そしていやらしいことにスタッフによって対応が大きく異なる。僕がたびたびやっちゃう遅刻については特別咎めることはないが、この主婦さんが少しでもお喋りしてるとそれだけで周囲が驚くほどの怒りを放出する。そんな光景がとても可哀想だった。当然それが原因で身体が削られ病気を患ったという。僕もこの話を聞いて他人事ではいられなかった。実際に自分が受けていない仕打ちでも、他の人が受けているところを見るのが心地よくないからだ。自分が職場を離れようとしている一因でもあるし。
「ああー、これで辞めていく人何人目だろう」
頭の中でかつてはそこにあった顔を思い浮かべながら指を折っていく。幽霊スタッフも含めると全スタッフの内だいたい半数だろう。それだけの人がこの1年でいなくなったと思うと湧き上がる憤りも相当なものだ。僕もさすがに黙ってられなかった。店長の元に向かうと「怒りで人を説得する前に僕に話してください。みんなには自分から伝えるんで」と言った。しかし「おれはこのやり方でしか人に物を言えないし、これからも変えるつもりはない」と言われた。彼の脳みそは岩石なのか。それとも人の話を聞ける耳をどこかに置いてきたのか。一度固まったものを壊すことができなかった。
どうすることもできずとぼとぼと戻ってきた。申し訳ない気持ちで心が張り裂けそうだ。

それから4時間後。
主婦さんは勤務を終えると宣言通り退職する旨を伝えたという。
僕はこの主婦さんが大好きだ。それはどんなにくだらない話でも笑って付き合ってくれるからだ。あと昔の音楽も詳しいから話題が尽きないこと。僕の夢を応援してくれること。挙げるとキリがない。そんな人がいなくなるのは痛手でしかない。
「ちぇるくんと出会えて良かった。色んなことを教えてもらったし、色んな話もできたから。これからも応援してるから沢山活躍してね。」
帰り際に言われた言葉が自分が伝えたかった思いと重なってて余計泣きそうになった。

現職場の人事異動は2月だ。
今の目標は何としてでも2月までに店長を他に飛ばすことである。そうすれば主婦さんの退職を阻止できる。じゃあどうしようか。たびたびやるセクハラをコンプライアンス課に密告するか。いや、それはなんだが正攻法ではない気がして気が引ける。じゃあ本でも読ませて説き伏せようか。そうだ、デールカーネギーの「人を動かす」でも薦めようか。いや待てよ、この人の世界線に活字を読む文化なんてないだろう。薦める以前の問題な気がする。じゃあ何がいいのかな。とにかく仕事とは別のことをエネルギーを集中させる。僕も自分の発言に説得力をつけるために隙を見せないことにしよう。まずは早寝で夜更かし防止だ。明日からは遅刻しないと心に決めた。

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