見出し画像

8/26 『百年の子』小学館発刊 記念イベント テーマ 『失われてゆく記憶を物語として書き留める』 ゲスト: 著者 古内一絵さん 担当編集 片江佳葉子さん 報告レポート


『百年の子』は、学年誌百年に挑んだ作品です。学年誌の百年の歴史を追っていくうちに、その変遷は、そのまま日本の子ども文化史を映し出していることに気づかれたそうです。

太平洋戦争時、大政翼賛会(すべての国民を組み入れて戦争協力させていった組織)監修の下、「死してのち生きる」と子どもたちに教えていた事実は恐ろしいばかりです。戦争、抗争、虐待…、繰り返される悪しき循環に風穴をあけるため、私たちにできることは、負の歴史であっても伝えることだと思って企画しました。

第一部では、古内一絵さんが、今、なぜこのような物語を書きたいと思われたのか?うかがいました。

この本は、小学館の学年誌をモデルに書かれたフィクションです。(ただし事象はほぼ事実だということです。)
古内さんが仰るには、創業者は、苦労された方で、小学校を出た後は進学できず独学で学んでいたそうです。そのため元々は子どもたちに、創造力や、ひとりで学ぶことの楽しさを身につけてもらいたいとの思いで、小学生から読める学年別の雑誌を作ろうと考えられたとのこと。その理念から出版ビジネスとしては考えられない事実ですが、本誌には、「お友達にも進んで貸してあげましょう。」とも記されていたのです。

そんな学年誌が、昭和14年の日中戦争をさかいに、大政翼賛会からのお達しもあり編集が、ガラリと変わってしまいます。政府からも「こんな雑誌を出していたらだめだ!」と警告を受けるようになり、紙も廻してもらえなくなったと言います。そしてついには、小学4年生の学年誌でも「仰げ!海軍記念日」との特集が組まれ「海軍軍楽隊の行進の絵」や、天皇陛下の姿を、「これぞ、威武を世界にとどろかす、無敵皇軍の姿です」という説明つきで描かれたものに変わっていくのです。「お友達にも進んで貸してあげましょう。」といえるような中身ではなくなってしまうのです。

雑誌は、歴史を映す鏡のようなもの、後からその変遷を見ると怖くなる。と古内さんは続けられます。会場は静まり返り、本当に怖くなりました。今も、歴史修正主義の圧力や、「政府見解」などがあり、教科書は変えられています。私たちが、きちんと意識していないと危険だと感じています。

当時は、お上の言うとおりにしなければ、紙も供給されない、会社として経営が成り立たなかった。けれども、子どもの雑誌なのに、「ここまで変えていいのか」という編集者の苦悩もあったそうです。一方で、国からの大抜擢で従軍作家として中国にも行った林芙美子は、自らが高揚し、子どもが、「このまま戦争終わっちゃっていいの?このまま終わっちゃうと僕らが戦場で、活躍する場面はないよ」ということが描かれている作品「壮六の日記帳」を書き、学年誌に掲載されていたそうです。しかし戦後、これは、文学全集にも入っていないのです。林芙美子も入れたくない、いわば黒塗りの歴史なのです。戦時中は、年もまだ若く、作家の業のようなもので書いてしまうと話されました。

無理やり、書かされた作家さんも多い。国策と教育のはざまに立たされた編集者たちの苦心

教科書に名前が載るような著名な文豪たちがこぞって子どもたちを戦争や労働に駆り立てる小説を書いているのを読むと、複雑な気持ちになると話され、自分も同じようなことになったら、書いてしまうかもしれない。だからこそ『失われてゆく記憶を物語として書き留める』ということで今回書かれたとの決意を話されました。

実は、今回の作品「百年の子」は、昨年の小学館の100周年で出される予定だったのですが色々な事情があり、今年になったそうです。古内さんは、中身については、忖度しない、また、片江さんは、もし、この作品が出せなかったら、会社を辞めようと思っていたと、その覚悟を語って下さいました。

教科書は、戦前、戦中と軍国主義に傾いていったことから、戦後、黒塗りの教科書になったことを知っていましたが、学年誌までもが、こんな酷いことになっていたとは、露とも知りませんでした。


出版社の中には、この子どもを戦争に駆り立てた歴史を恥として「燃やしてしまえ」と無かったことにするようなことを言った方もあったそうですが、すべて残してあるそうです。国策色満載の学年誌で、まさに、雑誌の暗黒史 なのですが、今回このような形で、出版されたことに意義があると思っています。

第二部では、「百年の子」にも名前を変えて登場している、戦災孤児から後に児童文学作家になられた佐野美津男さんについて、当時、佐野さんの本の編集をされていた野上暁さんにオンラインでご登場いただきお話をうかがいました。

「百年の子」の本文に出てくるフレーズ「家の所有物だった子どもが、戦中には国家権力の従属品としてどんなふうに扱われ、どんなふうに見捨てられてきたかは戦災孤児だった俺はもちろん、分かっている。しかし人格は間違いなく子どもの中にも備わっているし、子ども時代を経ることなしに、大人になることはありえない。にもかかわらず、大人たちがそのときに拠っている社会情勢や、権力に合わせて子どもを〝鋳型〟に当てはめるように育てれば、子どもは、そもそも備わっている能力や個性を十全に発揮することができない。」
これは、私自身、非常に感銘を受けた佐野美津男さんの言葉です。

イベントでは、野上さんが、佐野さんの作品「浮浪児の栄光」や、「ピカピカのぎろちょん」をモニター越しに、実際に見せて下さりながら佐野さんのことを説明して下さいました。

戦災孤児だった佐野さんは、親戚の家でこき使われこのままでは殺されると思い、逃げ出すのですが、上野で浮浪者になり、生きていくために、スリをしたり、ヒロポンの売人をさせられたりするのです。 何度も警察に捕まり、ボクサーにもなりますが、身体をこわし療養所で、共産党に入党して社会活動をします。1960年安保の時に、全学連の学生を支援し、除名されます。1958年頃から文筆業を始めて、1961年に三一書房から出したのが、「浮浪児の栄光」、映画にもなり、大ヒットします。そして1970年~1980年には、「人間の条件」など数々の著作を出し大活躍されました。その後、大学でも、教えられることになるのです。

人間の条件



自らの生い立ちから、「子ども学」という学問、今でいうところの「子どもの権利条約」のような論集を何冊か出されますが、当時は、バカにされ評価されなかったのです。しかし、その後、子ども学会や、児童心理学などが出てきます。野上さんは仰いました。「彼は、先駆者だった。」と。佐野美津男さんから沢山のことを学ばせてもらったと仰っていました。

佐野さんは1987年55歳で、突然亡くなったこともあり、「浮浪児の栄光」「人間の条件」などほとんどの本が、絶版になっていますが、
戦災孤児になり、生きていくために盗みやありとあらゆることをしなくては生きていけなかった当時の佐野さんのこと、そしてそのようなご自身の体験から、「子ども学」という学問まで作られたその背景を、もっと、もっと知りたくなったのでした。

今は、食べるものは豊かになっているかもしれませんが、虐待によって幼い子を殺めたり、性被害の問題が起きていたり、決して、子どもの権利が守られているとは思えないのです。

今こそ光を当てて欲しい分野だと感じています。

小学館から、同時発売された「鐘を鳴らす子供たち」に、佐野美津男さんの子どもの頃のことが描かれています。隆祥館に常備していますので、ぜひこちらも読んでいただきたいです。


第一部、第二部を通じて感じたことは、国策で子どもまで、洗脳し、戦争にまきこんでいったことに、恐ろしくなりました。


けれども今回のテーマである 『失われてゆく記憶を物語として書き留める』ことを伝えることで、二度と同じ過ちを繰り返さないことにつながればと思いました。最後に古内さんが「昭和、平成、令和と地震や色々な災害も起こりました。それらは、防ぎようがない天災です。けれども戦争だけは、人間の力で止められるんです。」と仰いました。私たち、一人、一人の意識にかかっているのです。「百年の子」「鐘の鳴る丘の子どもたち」ひとりでも多くの方々に読んでいただきたい本です。

※ イベントのアーカイブ動画のお申込み、本の宅配につきましては、ホームページをご覧ください。

隆祥館書店のホームページ
https://ryushokanbook.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?