25歳、人生をリセットする。 #33

25歳、もう少しで私に訪れる、ちょっとした人生の門。

いろんな人のコトバ、活動、顔、年齢、仕草、考え方を見て聞いて、人生をどう生きていくのか、というか人生を生きているのか、などと考えて、悩んで、眠れず、眠って、話して、混乱しての毎日を繰り返していた、ここ3ヶ月間ぐらい。

いわゆる「自分探し」というやつになるのだろうけど、今回は旅にも出なかったし、そのために何か環境を変えることはあえてしなかった。

別に、普段と違うことをやっているから「自分」が必ず見つかるわけではないし、考えることが多すぎて「自分」を見失っているのなら、考えていることを全てノートに書き出して、つなげて整理して、選んで捨てて、といった行為を繰り返している方が、きっと「自分」を見つけることができる。

「自分」見つかったのかな?

見つけたなんて、自信を持って言うことはできないけれども、とりあえず進んでみたいと思う道ぐらいは100本あったところを15本ぐらいに絞ることができたと思う。(もちろん、そんなに進むのを迷うような道があったわけではないので、大げさに言えばそれぐらい絞れたということである。)

その中の一つが、25歳という自分自身の新たな壁というか、門というか通過点を過ぎて8ヶ月ぐらい走っていくための指標を一つ設けてみることだった。

0歳、1歳、3歳、5歳、7歳、10歳、12歳、15歳、18歳、20歳、22歳と、イベントの多めの年齢を挙げていくと、きっと人間の節目は2年か3年ごとに訪れるものだと思う。

となると25歳、アラサー、4分の1世紀。
きっと、今回も節目の一つなんだと思う。

27歳については、昔から結婚を意識し続けている年齢なので、そのことについて考え込むことが多くなるのだろうけど、25歳ってなんなのかと悩んでいた。
社会人3年目、ぐらいしか、個人的なイベントとして思いつくことはなかった。
もちろん、働くことについては充実させていきたい意識があって、年始から動き始めていたし、今だに動いているのだけど、それと年齢とはなんだか別物のように感じていた。

となると、残っている考えたいこと「生きること」なのだろう。
極めて個人的なことだけれども、ここ2ヶ月ぐらい生活リズムが大幅に狂ったり、規則正しい生活を送ったり、食生活が荒れに荒れていたり、たまにバランスの良い食事を摂ったりと、波打ちの激しい生活を送っていた。
「生きたね。」と毎日つぶやく友人の言葉に、毎晩「自分は生きているのだろうか」などと考えるぐらいに、生きている実感はあまりにもなかった。生きているというよりは、ふわふわと浮いている地に足のつかない毎日を送っているみたいな感じだ。
部屋を見回しても泥棒が入ったのかと思うくらいに荒れ果てていたし、冷蔵庫の中にも元の形の分からなくなったものも入っていたし、洗濯物も山積みだし、食器も山積みだし、人生の難問も山積みだし、いろんなものが積み重なって、行き止まりが目の前に近づいてきていた。

そんなところで、ひょっこり現れた母が部屋の中を一掃してくれたことで、少しだけ良い方向へ向かい始めていた。(もう、24歳を終えようとしている人間としては恥ずかしい事この上ないのであるが)
片付けてもらった時点からさらに綺麗にしようとしたり、生活リズムだって直そうとしたり、食生活だって野菜多めのバランスのとれた食事をしようとしたり、少しだけ「生きる」ことに一生懸命になってきているのだと思う。

だから、25歳は人生をリセットして「生きる」ことを充実させていこうと思う。

別に、生活の豊かさだけが「生きる」ことを充実させるということに直結するわけではないけど、生活は「生きる」ことの出発地点だと思うので、そこはきれいに整えておきたい。きっとサトシがマサラタウンに戻って、清潔に保たれたふかふかのベットで眠るとモンスターボールの中のポケモンたちまで回復している不思議な現象が起こるのは、出発地点が整えられているという前提があってこそのことだろうし、それが現実世界を生きる私たちにとってはなおさらだろう。

「生きる」ことを充実させるだなんて、ありきたりかもしれないけれども、ありきたりから出発して、25歳という自分にとっての1年間を夢を描きながらも地に足のついたものにしたいし、29歳、30歳という節目を迎える準備を進めていきたい。

25歳はもう少し先のことだけれども、25歳の足音はそこまで近づいてきているなと感じる今日だからこそ、少しだけ時間をとって考えてみた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?