ゴジラとFate

 へローエブリワン。シン・ウルトラマン観たよ。

 ウルトラマンシリーズちゃんと追ってない勢の私には自分自身の勉強不足を感じる映画だったけどEDの米津玄師聴くと「なんかすげえエモい映画だった気がする……」ってなったから米津玄師はマジ偉大。

 個人的にはシン・ゴジラの方が事前知識少なくてもどハマり出来たから初心者に優しい映画だったなって思う。

 そんなわけで今回は「ゴジラ」と奈須きのこ作「Fate/stay night」の話をしよう。罪ある者も通るがいい。

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 この二つをなぜ並列させて話すのかについて語るには、私が「シン・ゴジラ」という作品と監督・庵野をどう認識しているのかを説明しておく必要がある。


■庵野秀明とシン・ウルトラマン

 監督・庵野秀明は「ゴジラよりウルトラマンが好き」みたいなことを言ってたような気がするけどソース見つからない。でも私的には庵野は多分そうなんだろうな……って思う。

 ただこれは「庵野はゴジラアンチ!」とか「庵野はシン・ゴジラを手抜きで作ってる!」とかいう話ではなく多分「ゴジラのことは冷静に語れるけどウルトラマンのことになると早口クチャクチャオタク全開になって知らない人を置き去りにするタイプのオタク」って話なんだと思う。ゴジラも多分ちゃんと好きだよ庵野は。(※個人的な見解を含みます)

 つまりシン・ウルトラマンを見てあんまり刺さらなかったなって思う人は別に感性が悪いとかじゃなくてどっちかというと映画で全力早口クチャクチャオタクかました庵野が悪い

 逆に「シン・ウルトラマンがめっちゃくちゃ面白かった!」「庵野よくやった!」って感じる人はそれだけウルトラマンシリーズに対する造詣が深い人たちで、庵野の高速詠唱を聞き取れてる人たちだからそれも正しいし、庵野がメチャクチャ好きなウルトラマンの映画監督をした時にオタク特有の早口クチャクチャ語りをしたのも実際のところ悪くないっていうか仕方ない。オタクってそういう生き物なところあるから……許して……。

 そもそも「ウルトラマン知らない奴がウルトラマンの映画観に行ってよくわからんってなるのは観に行った方が悪いよ」って言われてもそれはそう、ってなる。でもシン・ゴジラはゴジラ初心者が見てもメチャクチャ面白かったからそれを期待していった人たちに「初心者がノー勉強でゴネるんじゃねぇ」っていうのもあまりに殺生では、ともテスカトリポカ思うワケ。

 つまりシン・ウルトラマンは庵野のことを凄い作品を連発する凄い監督だと思って観に行ったらその本性がクチャクチャ早口オタクだということを叩きつけられてビックリした人たちがいたってだけの悲しいすれ違いだと思う。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。(「住み分けは大事」を意味するエルフの言い回し)


■シン・ゴジラと「ゴジラ」

 じゃあなんで「シン・ゴジラはゴジラオタク以外にも受けたのか?」って話なんだけど、さっきの話を踏まえれば「庵野がクチャクチャ早口モードじゃなかったから」に尽きるんだよな。

 もう少し分かりやすく言うと、庵野はゴジラの監督をするにあたって「自分はゴジラのこれ好き!!!」よりも「作品の精神」「原点の魂」をちゃんと自分の中で解析して観客にお伝えしようと理性が働いたんだと思う。

 じゃあゴジラの精神、作品として最初に存在したものは何か?というと「恐怖」だと思う。

 ゴジラが制作された1954年。まだ戦争の記憶が色濃く残る時代。新型爆弾の脅威に晒された日本、その傷がまだ癒え切らない時代に、その恐怖を形にしたものが「ゴジラ」。近年はマスコットだったり怪獣と戦う善玉のような扱いになっていたけど、それは恐らく本来の在り方から大きく離れた存在になっていた。

 そして庵野秀明はシン・ウルトラマンでも感じたように原作強火オタクだから、この時代においてゴジラを映画化するにあたってその根源の「恐怖の象徴としてのゴジラ」を取り戻すことにしたんだと思う。

 そして「シン・ゴジラ」の公開された2016年、初代ゴジラから60年以上経った現代日本人にとっての恐怖は何か?


 3・11東日本大震災である。

 鳴り響くサイレン。地響き。引いていく水位。何もかも押し流す濁流。放射線。

 被災した方々だけでなく、それをテレビ越しに観た人の心にすら焼け付いた「恐怖」の記憶。庵野はシン・ゴジラの中でそれらの恐怖をゴジラに重ねている。

 これがシン・ゴジラが、ゴジラをよく知らない人々にも届いた理由だと思う。

 我々はゴジラという作品を知らずとも、ゴジラの中に描かれる恐怖を知っているのだ


■Fate/stay nightとは

 そして、同じく「恐怖」から始まった物語とは何か?という時に、私は恐らくFate/stay nightがそうである、と考える。

 Fate/stay nightが発売された2004年。その中で語られる「10年前の大災害」。

 察しのいい方ならもう分かるだろう、阪神淡路大震災である。

 そして主人公である衛宮士郎は、その災害の生き残りとして無自覚にトラウマを抱えている。

「他の犠牲者を救えなかった自分が、生き延びて幸せになっていいのか」

そして、そのトラウマは一つの葛藤を生む。

「あんな災害は起こらない方がいいに決まっている。でも、なかったことに出来るのなら、その力を得るためには何を犠牲にしてもいいのか」

 これは、決して物語の中だけに収まる事柄ではない。現実世界には阪神淡路大震災を、東日本大震災をなかったことにできる力は存在しない。現実世界にない救いを肯定することは、救いのない現実世界を蔑むことに他ならないのだ。

 その葛藤に衛宮士郎は、奈須きのこは「なかったことになった悲劇は、嘆きはどこへ行けばいい?」と答える。

 これは奈須きのこ自身が物語に直接書いていないから私なりの解釈になるが。

もし10年前に起こった災害を無かったことにしたら、その悲劇を2度と起こさないために積み上げられてきた努力たちはどこで報われるのか?」という意味だと受け取っている。

 Fate/stay nightにおいて、「恐怖」「災害」「嘆きの発端」は阪神淡路大震災である。6000人を超える犠牲者を出した災害において、家財、人命、生活、あらゆるものが深く傷つき、失われた。

 だが。

 阪神淡路大震災があったからこそ培われたものがある。

 新たな救助隊の創設や救助のための無線の増設、県外・地域外からの応援体制の整備。自衛隊の役割の周知。何より「耐震」という設計の考え方の必要性を日本に根付かせたのはこの阪神淡路大震災である。

 東日本大震災もまた、民主党政権によって予算を削減され、「不要なもの」とされたスーパー堤防をはじめとした「数十年、数百年に一度、たった一つ“防災”という目的のための備えの意味」を日本国民が考え直すきっかけとなった。

 今の日本人が震度4の地震があった日でも日常生活を送れるのは、福岡西方沖地震において死者が1人しか出なかったのは、直下型の熊本地震においてすら死者が300人未満で済んだのは、阪神淡路大震災の犠牲を嘆いた人々の努力が、再度同じ悲劇を生まないと血を吐くように叫んだ人々の誓いがあったからこそである。

 我々は「勝てない恐怖と共に生きていくしかない」。災害で奪われた命を、嘆いた人々の努力を、その月日を「忘れてはいけない」。

 今、トルコが大災害に見舞われているが、我々にできることは少しでも多くの人々が助かるように、生き延びた人々が生活を取り戻せるように、援助をすることである。遥か遠いトルコの人々は、東日本大震災において真っ先に援助の手を差し伸べてくれた掛け替えのない友人であり、恩人である。

 恐怖に襲われた時、超常的な力は決して人を救ってはくれない。ただの祈りは何も起こさない。

 だからこそ、人々は金を出し合って生きていくしかないのだ。

駐日トルコ共和国大使館
銀行名:三菱UFJ銀行
支店名/支店番号:渋谷明治通支店(470)
口座種別:普通
口座番号:3195717
口座名:TURKISH EMBASSY


在名古屋トルコ共和国総領事館
銀行名:三菱UFJ銀行
支店名/支店番号:名古屋営業部(150)
口座種別:普通
口座番号:1273225
口座名:Turkish Consulate General

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