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エッセイ【働き始めてから生きづらさについて考えてみた】

私が大学院に進学した理由についてです。自分の専攻する教科や教育学が好きだから、また教育で有名な大学で専門性の高いことを学びたかったから。。もちろんそれも大きな理由です。だけどそれだけじゃありません。

心のどこかで「学び続ければ生きづらさの要因が明確になって、苦しさが少しは軽減されるのでは。」そう思っていました。

院生のころは自分について省みる時間が莫大あって、つらかったです。忙しいときはよいがコロナ禍でおもうようにいかず、人と関わるよりも自分に向き合っていかなければならないことも多かったです。研究に関していえば、途中投げ出したくなる時もありましたが,拙いですがなんとか最後は自分なりの結論は出せたように思います。(発表間近はなかなか納得いくような妥当性のある結論を生み出せなくて焦りまくっていましたが、自習室に缶詰になりなんとか完成しました)


本題です。院を修了して働き始めて、ふと「生きづらさ」について思いをはせてみました。「生きづらさ」に対する自分の感覚が今までのものと異なってきました。
あくまで私にとってですが。。。「生きづらさ」から救ってくれるのは理解のある彼氏と巡り合うことや親と腹をわって話して分かり合うことでもないし,自分の力だけで世界の認識を変えることでもなかったです。
 
理解のある彼氏なんかに救ってもらわなくても、私はきちんと自分をもっていました。世界に対して広く深いまなざしをもっていました。理解のある彼君に100パーセント救われるようなイノセントな人間じゃなかった。彼氏じゃなくてもいろんな人がゆるく私にいい影響を与えてくれました。
 親とは以前よりは関わるようになりましたし、関係性もよくなった。でも相いれないところは確実にある。親がいうことに対して一線を置いて考えれるようになりました。もうしょうがないんだと。どれだけ私のことを心配してくれても親身になってくれても、自分の違和感や欲望を無視することはできないからです。折り合いがつけれるようになったとまではいかなですが,その過程かしら。。
 あと、自分の力だけで世界の認識を変えること。これも単体では不可能でした。やはり偏りが生まれる。勉強して世界の真理に近づこうとしても飽きが生まれますし。。。(笑)だいたいのところで「まあ、いっか」と。私はそこまでまじめな人間でもなかったです。

結局はいろんな要因(今の自分に合う環境や周りの人,そのときの考え方,精神状態etc….)が絡まり合って、気づいたら「生きづらさ」の存在感が薄まったという感じです。「生きづらさ」は確かにそこにあるから、「完璧に消えた」なんて乱暴なことは言いたくない。でも必然的にほかに興味や関心が向けられているため,私に中にある「生きづらさ」の濃淡が薄くなってきているというイメージです。

なぜこのような考えになったのか。ただ一つ言えることは、先を見据えて様々な選択肢を考えつつも、自分の欲望に忠実なることをしてきたからもしれません。破滅的に生きたくないですが欲望や情熱にも誠実でありたい。失敗することで、自分にとっていらないものが明確になった、いろんなものがそぎ落とされてきたからかもしれませんね(笑)

以上、運動会の代休の日に考えたことでした。


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