私の30代。

風速で走り抜け続けた私の30代が
先日、無事に幕を閉じました。

私は女川の町を何回も何回も自分の足で歩いた。
暑い夏の日も汗だくで歩いていたら、造成工事のおじちゃん達に心配された(笑)
大丈夫、町の事を身体で知りたくて歩いてるんです。と答えた。
津波の前を資料でしか知らないだけに、少しだけ残っている町の輪郭と変わりゆく人々の暮らしを知る為の行動でした。

まだ躯体打設をしている自分の担当物件に入ろうとするとガードマンさんに、おねぇちゃん危ないからここは入っちゃ駄目だよ。と言われた。
大丈夫です、私がこの建物の設計者です。と言うと、随分と驚かれた(笑)

その時、私もまだまだだなぁと思いながら、
震災復興の10年と共に、私の30代はあった。

この頃の私は、ヘルメット被って外部足場にも登ったし、確認検査の時は役所の人と共に、脚立からタラップに捕まり、タラップをよじ登って屋上に上がった。
もちろん屋上には手摺はないし、タラップも階段状とかではなく本当に壁付のただのタラップである。体力勝負でしかない仕事です(笑)
現場にいたみんなが、この人は運動神経鈍そうだし女の人だし、落っこちないのか?
体力的に大丈夫なのかな??って顔して私を見守っていたのを思い出すと今でもちょっと笑える。

ありがたい事に女性差別がないと言う事は、つまりは、男性と同じ事を求められるし、建築の仕事ではこう言う事になる。
私はそれが当たり前だと思ってこの世界に飛び込んだので、嫌だと思った事は一度もない。
むしろ楽しい。
仮に出来なかったとしたら、それは自分のせいだと思う様にしている。

当初、災害公営住宅と言う名前すら聞いたことがなかった私は、最初はメインの担当者のサポートから入り、途中から自分がメインの担当者として3地区の設計を担当した。

とにかく大変だったのはスケジュール。
ただでさえ初心者マーク付きのメイン担当者なのに、スケジュールは通常物件の半分程度。
そしてもちろん、平常時ではなく震災後の事なので日々色んな事が変動する上、東京から宮城へと関係各所が多く、6箇所ぐらいあったので、とにかくその関門を順に無事通過させながらきちんとマスタースケジュールに乗せる事が私の仕事だった。

担当者の仕事は実は図面を書く事ではなくて、デザインの方針を決めながら、話をきちんと着地させる事、うまく先回りして、時には根回しして、遅滞なく進める事なのです。
そんな訳で私は朝から晩まで、外部の方か所内スタッフと電話か打ち合わせばかりしていて、毎日発注側の担当者と3時間とか普通に長電話していて、周りからはうちの事務所と先方の電話代を心配され(笑)いつしか喋る事が仕事に。

喋るのが苦手だから図面で表現できるこの仕事を選んだ私にとっては寝耳に水で、そんな事するなんて聞いてないんだけど??!!と言う話でしたが、もうこんな状況なので、つべこべ言わずに、まずやってみるしかなかった。
とにかく、まずやる。
Doから始まるジャニーズイズムとちょっと似ていた。

喋り方については、少ない休みの日に色々と本も読んだけどいまいち改善せず、最終的に、仕事でパソコンに向かうわずかな時間にiPhoneで著名人の密着ドキュメンタリーの動画をとにかく流し、内容ではなく喋り方に着目して、ひたすら聞く様にした。
すると少しコツが掴めた。
これは喋り方について学びたい皆様に強くオススメする。
喋りが下手な著名人ってほとんどいないんですよ(笑)

そんなポンコツだったので、発注者からは当初、担当を変えてくれと言われたそうだが、事務所の代表が私のままで行くと先方に話をつけてきた!
その当時、私はそんな事言われたのが恥ずかしいとも思わず、そうだよ変えようよ私には荷が重過ぎるし、代表はホントになんて余分な事してくれるんだ!と思っていた(笑)

今考えると、本当にありがたかったし、
ただひたすらに感謝でしかないですね。
また、不慣れな私にサポートとしてついてくれたと言うか逆に主軸として支えてくれたスタッフ2名と固定で来ていた院生のアルバイト君、スポットで入って沢山の模型作ってくれた学生アルバイトさん達には、随分と迷惑をかけたと思う。
ありがとうございました。

そしてあの頃、コンサート中の記憶がなくて。。。気づいたらコンサート中にホントに30分くらい寝ていた事があった。
立ちながらコンサート見ていて寝ていたのです。
嵐には本当に申し訳ないなぁと思いながらも、今度は目が覚めると、ステージのトラスを見ながら、あぁあそこの納まりどうしようかな、とか綺麗な照明を見ながら、あぁあそこの色彩どうしようかな、とか。結局仕事の事を考えていた様に思います。

死にそうになりながら這いつくばって福岡のコンサートに行った時は、自己投資してJALのファーストクラスに乗り、羽田からほとんど寝ながら福岡に到着、福岡空港から会場までタクシーに乗ってウトウトしていたら、、、
出演者の方ですか?って聞かれた事もありました、違います!(笑)


あの頃学んで、今でも仕事をする上で変わらないのが、私は現場主義だと言う事。
現場で顔を合わせて、自分から心をひらいて話せば、99.9%はどうにか着地点を見出せる。

これは関係各所6箇所の関門を通さねばならなかった時に学んだ事です。
だから、フットワークだけは常に軽く、そして時にはこちらも腹を括ります。
それだけ、覚悟がいる仕事です。
そして私は寝たら翌朝には忘れているので打たれ強かった(笑)

これをしてると、、、

あぁもう本当にダメだぁ〜!!!
って時も大概、どうした?と周りが助けてくれます。
よく、なんでそんなに周りを巻き込むのが上手いんですか?と聞かれるのですが
私は自分1人では、大した事が出来ない事をよく知っているからです(笑)
沢山失敗して、沢山愛のあるお叱りを受けたから痛いほどよく分かっているのです。

先日の地震で、私が担当した建物は大丈夫だったのか?
真っ先に心配になり、揺れがおさまってからTwitterで調べたら、建物は無事だと書いている方がいらして、本当に安心しました。
ポンコツで失敗しながらも、ずっと続けてきた事が少しでも誰かの役に立てたのだと知れて、嬉しかった。

あれから10年。
私にとっては、
いつも時間が足りなくて。
早かったな。


でも、

誰かにとっては、
長く、悲しく、重い10年。

津波で何もなく、ゼロから町と人々が立ち上がって行く所を、この10年、少しだけ肌で感じたていた私は
自然の元では例え無力であったとしても、人と人が繋がる事で生まれる力強さを、40代のスタートラインに立った今も、この先もずっと、心に留めておきたく思います。

#震災復興
#arashi #嵐
#それぞれの10年
#さめ

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