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コロナショックと鬼滅の刃にみる / 計算可能性の檻と感情の力

今なお続くコロナ禍と鬼滅ブームを絡めて、昨年の総括と今年の抱負を書き留めておこうと思う。思い返せば東日本大震災を仙台で被災してから10年が経とうとしている。毎度、災害が人生の区切りと重なるのは不思議なものだ。

さて、未だ進行中の災害を現段階で評価するのは時期尚早かもしれないが、話を進めるために敢えて言ってしまおう。

covid19が社会に与えた影響の本質は、「計算可能な社会システムに計算不可能性を持ち込んだ」ことにあると思う。

社会の中に自然が入り込んだのだから、予測不能になることは当然のことだと思われるかもしれない。しかし、前提として、そもそもなぜ社会は計算可能になっているのかということが重要だ。

資本主義における価値=計算可能性

近代化のプロセスは一言でいうなら合理化であり、言い換えるなら、計算可能化だった。資本主義市場において、計算可能性が高いほど市場価値は高くなる。長期的に安定している、将来の収入が保証されている、損失の範囲が限定されるなど、予測がつきやすいほどその価値が高まる傾向にある。

何故なら、予測可能であればこそ資本を投下できるようになるからだ。計算不能な対象に投資したいと思う者は優れた投資家とは言えない。リターンとリスクを計算できるからこそ未来に投資できると考えるのが資本主義だ。この一年の株価の動きがそのことを如実に表している。パンデミックの予測不可能性が判明した途端に株価は暴落し、国家の保証が約束されると分かった時点で株価の急騰が始まった。(実体経済を置き去りにしたまま。)

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もう一つ例を挙げよう。コロナ禍で飲食や小売の経営が厳しくなるのは計算可能性がなくなってしまうからだ。今月の売り上げがどれくらいになるか分からないと、来月の従業員の給料が全員分満額支払えるか分からない。収支の計算が感染拡大の状況次第となると、事業計画が立てられないので、将来の返済能力を保証できず、銀行から融資が受けられない。融資を受けられなければ、資金繰りがショートして会社は倒産に追い込まれる。溢れた失業者が社会不安を増大させ、社会システムの根幹となるフィクションを揺るがすだろう。この計算不可能性に対して、国家が融資を保証する形で計算可能にしたのが持続化給付金や休業補償の正体だ。

近代から始まる資本主義社会は計算可能性を前提に動いている。人は保証を受けるために、計算可能なシステムの枠の中で活動するようになった。そこに入り込んだのが計算不可能な自然、covid19が引き起こしたパンデミックの正体である。

システムが完璧であるほど、人の感情は劣化する

今日の社会は、資本主義の恩恵によって、かつてない速度で豊かに発展してきた。一方、あまりに高度に複雑化した社会を回すために、ありとあらゆる領域を計算可能にする必要があった。仕事は専門性ごとに細分化し、作成する書類と会議の数は増え続け、手続きを行うための手続きを処理するクソ仕事の量が膨大となった。(コロナ禍での給付金手続きの煩雑さを思い浮かべてみて欲しい。)

マックス・ウェーバーが20世紀初頭に既に指摘していたように、より高度で複雑な社会を回すためには、システムがより高度に計算可能である必要が生じる。計算可能性が高まれば高まるほど、人は手続きを進めるための手続きを処理する作業に、自身の感情や意思を押し殺して従事しなければならない。高度な官僚制の登場だ。ウェーバーはこの状態を没人格と表現した。言い換えるなら、人は高度に複雑なシステムの恩恵を受ける代償として、そのシステムの手続き的正しさに隷属し、自身の感情や意思を劣化させてしまったのだ。

例として、高度に計算可能な組織、企業について考えてみる。営利を追求する組織は、属人化した仕事を誰でも行えるように手続き化(マニュアル化・分業化・細分化)することで、システムの合理性・効率性を高めようと努めるが、それは同時に仕事に従事する人々を置き換え可能な部品に仕立て上げることになる。従業員の交換可能性はシステムの計算可能性を高めるが、その人自身の必要性やその人ならではの感情、意思を奪うことに帰結する。

高度に複雑なシステムが既に稼働してしまっている社会では、その枠から外れること自体の不安、明日の生活の保証がなくなることの不安から、人は神経症的にシステムに従事するように駆り立てたれている。不安であるが故に、内から沸き起こる感情を押し殺し手続き的に作業を処理することに没頭した結果、人は没人格となる。言い換えるなら、システム上置き換え可能な存在となることで、その人自身の必要性と居場所を喪失し、また、自身も他者との関係を頼るではなく、完璧なシステムに保証を求め依存するようになってきた。システムに依存するから他者との関係が希薄になり、共同体との繋がりがないからこそシステムに強く依存する。

コロナ禍における一例をあげよう。サプライチェーンを高度にシステム化してサービスを提供する飲食店ほど国家の保障を必要とし、常連客で支えられる地域に根差した老舗ほど他者との関係性を頼ることで困難を切り抜けている。前者が不特定多数のパブリックを相手にするが故に、その行動を信頼できず、リスクをコントロールをするために大きなコストをシステムにかける他ないが、後者は顔見知りに限定された個人の集まりを相手にするが故に、その言動が信頼できるからこそ少ないリスクとコストで営業を継続することが出来る。

システムが完璧であればあるほど人はシステム自体への依存が強まる一方、他者を頼り助けるまたは、信頼することができなくなる。困っている人を助けるのはシステムの役割だと考えるようになるからだ。こうして人は主体性を喪失し感情が劣化する。

また、感情の劣化は再生産される。計算可能性が高まった社会で要領良く生き抜く術を賢しくも理解した大人は、自身の子供にこう諭すだろう。

「勉強しないといい大学に入れませんよ。いい大学に入れさえすれば、いい大企業に就職できて、将来は安泰で、勝ち組になれますよ。もし勉強しなければ、負け組になるんですよ。だから勉強に励みなさい」と。

この論理には意思も感情も存在しない。自身の内から沸き起こる興味や情熱を介さず、己の利得のみを目的とし、手続き的に上昇志向を持つ。計算可能性の高い社会では、システムに隷属する方が強い。長期に安定し収入を保証された者の方が融資の審査は通りやすく、結婚もしやすい。それ故に人は自身の感情を顧みず、システムに隷属する道を選択する。

ありとあらゆる領域を市場化しようと目論んだ新自由主義が掲げるグローバリズムの波は、効率化・合理化の名のもと共同体が担ってきた領域(コミュニティ、出会い、社会資本)をも市場化し、高度に複雑で計算可能な社会を推し進めてきた。皮肉にも市場の拡大を図り、社会の計算可能性を追求したグローバリズムは、人の移動の自由化、世界経済の連動、自然の開拓を加速させた結果、計算不能なウィルスを高度に計算可能な社会に持ち込む要因となった。加速したシステムが共同体を崩壊させたツケとして、保障のために多額の負債を必要としている。システムの計算可能性が脅かされた現在、システムの完全性に依存することが果たして賢明な判断だといえるだろうか。保障なくして休業無しと、政府に緊急事態宣言を声高に要求する背後には計算可能性への隷属が透けて見える。次項ではこのシステムの支配を乗り越える可能性を、この時代に社会現象となった鬼滅の刃に見出していきたい。

鬼滅の刃と感情の力

鬼滅の刃がここまで大きな社会現象となった背景は、制作会社であるufotableにnetflixやamazon primeなどの外資系資本が流れ込み、プラットフォームの提供環境が変化したことだけが要因ではないだろう。鬼滅の刃には計算可能なシステムに摩耗した現代人の心を動かすメタファーが埋め込まれれている。社会学者である宮台真司の映画評を引用しながら解説しよう。

鬼滅に出てくる鬼とは、損得計算だけで行動する現代人のメタファーだ。言い換えるなら、計算可能性の枠の中だけで思考し行動する存在である。宮台はその在り方を、条件プログラムと呼んでいる。

もしこうすれば、自分は得をする。だから、こうする。もしこうしなければ、自分は損をする。だから、そうしない。if then構文で表わされる損得勘定によって、自身の行動を決定することが条件プログラムの特徴だ。鬼や鬼側の人間の言動はまさしくそれを表している。

「お前も鬼にならないか。鬼になれば病気やケガで死ぬこともなく、老いることもない。お前も鬼になろう。鬼にならないなら殺す。」

「もっと人間をたくさん食べたら、強くなれる。強くなったら、無惨様にもっと血を分けてもらえる。もっと血を分けてもらえば、上弦の鬼に入れ替わりの血戦を申し込んでも勝ってその座を手に入れられる。」

「お前たちを殺せば、あの人にいい夢をみせてもらえる。もし失敗したら、いい夢を見せてもらえない。だから死んで。」

鬼や鬼側の人間は、損得計算によって行動する存在だ。条件プログラムで行動し、自分の利得のために他者を貶め食いつぶすことを厭わず、自分のためだけに上昇志向を持つ。それとは対照的に、鬼殺隊の人物は計算可能性の外側、感情に突き動かされて生きる存在として描かれる。

「人間は弱く儚い。鬼には勝てないかもしれない。滅ぼされるかもしれない。だがそれがどうした。君とは価値基準が違う。俺は鬼はならない。俺は俺の責務を全うする。ここにいる者は誰一人死なせない。」

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炎柱・煉獄の言葉は鬼の価値観を全否定する。もしそうならなかったとしても、そんなことは関係ない。いいことがあるから何かをするのではない。こうしたいと思うから、そうするのだ。

内から沸き起こる感情に突き動かされて、計算可能性の枠の外側に身を投じることを厭わない。心を燃やせと。鬼殺隊は仲間や家族との絆、或いは、かつての良き記憶から沸き起こる感情の力によって、損得計算の枠を超えて行動できる人間味溢れる存在だ。対して鬼はかつて人間であった時の記憶を忘れている場合が多い。記憶を持たないが故に、内から湧き上がる感情を持たず、条件プログラムで行動する。(例外的に人間時の記憶が継続している真のクズもいるが、基本的には悲劇によって感情を失った元人間として描かれる。)

鬼は現代人のメタファーだ。

勉強しなさい、そうしなければいい大学に入れない。いい大学に入れれば、大企業に就職できる。そうすればいい暮らしができる。だから勉強する。もし良い暮らしを保証されなければ努力をしないのか。勝ち組になりたくて、負け組にはなりたくない。社内の手続き上の都合ばかりを優先し、その外にある他者の貢献を蔑ろにする。組織内での立場を保身して、本質的な意義を見失う。失敗の責任をシステムに転嫁するために、システムの枠の中だけで活動する。システム上の手続き的正しさに隷属し、自身や仲間の感情を顧みない。

鬼滅の刃は現代人が感じるシステムに隷属する息苦しさ、卑しさを日輪刀で爽快に切り捨て、喪った内から沸き起こる感情の力、共同体の絆、人間本来の強さを思い出させてくれる。だからきっとそれが、私たちが喪った心の隙間にこうも響くのではないだろうか。

手続き的正当性の檻を感情の力で越えて行け

基本的に鬼は強い。計算可能性が高い社会では、システムに隷属した損得計算マシンのような人間の方が強い。それでも人はなぜ、鬼滅の刃、炎柱・煉獄のような生き様に心動かされるのだろうか。

実はその答えは人のゲノムの中にある。それが霊長類の中でもとりわけ社会性が強いヒトの遺伝子に刻み込まれたプログラム(本能)だからだ。人は合理性、近道を選択するという本能(計算可能性)とともに、社会性、仲間がいないと孤独に苛まれるというプログラムを刻み込まれた動物だ。仲間をつくるために人間は感情を持ち、それを高いレベルで共有し伝播させる能力を持つ。この矛盾が鬼滅の刃における利己的な合理性(計算可能性)と利他的な社会性(共同体の絆・感情)の対比を成立させている。

鬼滅の刃がコロナショックのタイミングで社会現象となったことは偶然ではない。肥大化したシステムの計算可能性がcovid19によって脅かされた現在、人々はシステムの完全性に依存する閉塞感に嫌気がさし、システムの外側で共感する仲間との絆、内から沸き起こる主体性、感情の力に惹きつけられている。煉獄が体現しているものは言わば、カリスマ的正当性だ。この人の在り方に心打たれる。尊敬するこの人が言うから、それが良きものだと信じたい。また、自分もこの人と同じように尊い存在になりたい。だから同じように行動すること選ぶ。だから、人の意思が時代を超えて、血縁に依らずとも、永く受け継がれていくというメッセージだ。つまり、カリスマ的正当性とは、内から沸き起こる感情の力が理屈や計算を超えて、見る者の心を動かし尊敬と共感を集め、共に在ることそれ自体に絶対的享楽を感じさせる。

対して、計算可能性に枠の中だけで行動し、感情が劣化した存在は合法的な手続き(手続き的正当性)に隷属する。だが、合法的手続きそのものの正当性はより上位の合法的手続きによって定義されているに過ぎず、またその合法的手続きもさらに上位の合法的手続き的に...。この合法性の循環(ウェーバーの曰く、鉄の檻)は、カリスマ的正当性の対極に位置するものだ。システムが合理性を指向する限り、むしろ人間の感情こそがバグになる。合法性の循環によって生み出された感情が劣化した存在、システムゾンビと呼ばせてもらうが、これらはいずれ、より合理的な存在、AIによって置き換えられるだろう。何故ならシステムからすればその方が遥かに合理的な選択になるからだ。ベーシック・インカムの議論の背景にはこれがある。合理性・効率性だけを指向し、手続き的プロセスを進めるだけの仕事ならAIに置き換えられるし、置き換えた方が効率がいい。しかし、AIは計算可能性の枠の中の存在だ。AIはフレーム問題を乗り越えれない。何かをする際にどこまで計算すべきなのかを永遠に計算してしまう。一方、人間がこの問題にぶつからないのは、計算せずとも世界がどうなっているのかを確信することができるからだ。それを可能にするのが閃きであり、興味であり、情熱であり、意志であり、感情の力だ。

少し具体的なエピソードを紹介しよう。

僕は普段、前例のないような特殊な橋梁や構造物(建築になるときもあるし、土木構造物になる時もある)の設計に携わっている。どんなものか説明するのは骨が折れるので、気になる人は下記のイメージを参照してもらえれば。

さて、前例のない特殊なデザインを実現しようとすると、得てして共通の困難にぶつかるようになった。

例えば、設計側から施工者に見積もりを取ると、実質的なコストの倍以上の金額で見積もりが上がってくる。理由は単純にどうしたらいいのか分からないからだ。標準的なものを、いつも通り、手続き的に処理することが仕事になってしまっている。それをそうと白状する訳にはいかないので、法外な見積もりを出して断る理由を捏造しているに過ぎない。

例えば、行政機関と協議をすると、本質的な技術的根拠よりも法令の条文に額面通り準拠していることを求められる。何故なら彼らには物事の妥当性を技術的内容ではなく、手続き的正しさによってしか判断ができないからだ。本質と根拠を突き詰めていくと、国道事務所が良いと言っているなら良いですとか、行政区が良いと言っているなら良いですとか言い出す始末。思えば、緊急事態宣言を押し付け合う東京都と内閣府の関係に良く似ているようだ。責任を取りたくないから、損をしたくないから、手続き的正当性に固執し、本質的な存在意義を見失っているのだろう。

挙げれば枚挙に暇がないが、土木コンサルは道路橋示方書や立体横断施設技術基準に従って、その通りに諸条件に合うように調整することが設計だと思っている者が多い。設計趣旨を問われて、コンセプトは建築基準法に従うことですと応える建築家が果たしているだろうか。あまつさえ国の基準にさえ従っていれば、何かあったときには国に責任を取って貰えるんですとか言い出す設計者とか、ホント即死したほうがいいなと思う訳だが、脱線したので話を戻そう。

こうした手続き的正当性に隷属したシステムゾンビたちの障壁を打破したのは、いつだって感情によってそれを乗り越えられる仲間だった。

心無き鉄骨ファブが倍額の見積もりを出すようなケースでも、本当の情熱と技術を持つファブリケーターは私たちのデザインに共感して、面白がって快く引き受けてくれるし、当然彼らはその仕事で十分な利益も出している。

基準には書いていない行政協議でも、長年の付き合いで信頼を得た人間がその担当者の本心を正直に問えば、杓子定規の条文通りではなく、無理のない範囲で解釈を拡大して適用する方法を考え出してくれる。

ヒトは感情の生き物だ

誰だってこうあったら良いなと思うことをやりたいと思っている。己の利得だけに固執するのでなく、誰かのために、社会のために自分の仕事が貢献出来たらいいなと願っている。資本主義近代の社会システムがどれだけ計算可能性を特権視しようとも、ヒトは手続き的正しさの檻の中では幸せにはなれない。ヒトは本来力に溢れた存在だ。内から湧き上がる感情の力に従って世界を変革できる存在だ。けれども、一人では計算可能性の檻の前で、システムゾンビどもに敗れてしまうかもしれない。システムは強いし、ゾンビは無限だ。だが、感情を共有できる仲間となら、必ず打破できると信じている。

ここまで資本主義的な計算可能性と人間中心的な感情価値を対比的に扱ってきたが、感情価値と資本主義は決して矛盾しない。ヒトは心動かされないものに多くのお金を払おうとは思わない。逆に心から欲したモノの原価がいくらかなんて一々気にする奴がいるだろうか。AppleやTesla、Netflixなどの時価総額を見てみれば、多くの人々の心を動かすことがどれだけ資本に還元されるのか分かるだろう。心が動くことが、人間社会にとっての本当の価値なのだ。

だからヒトの心を動かす絵を描こう。マスメディアがやるように怒りや不安を煽るのではなく、誰もが内から沸き起こる力に絶対的な享楽を感じられるような、カリスマ的正当性が生まれるように。たった一人から始まった熱狂でも、感情はウィルスように伝播する。奇しくも僕らは感染の脅威を身をもって体感したところだ。人はシステムゾンビにもカリスマにもどちらにだってなり得るし、転び得る。必要なのはきっと、ちょっとしたきっかけだけのはずだ。いつか共感のクラスター感染が社会現象を起こすうねりとなって、システムゾンビが駆逐されるような未来を目指して、今年の抱負を締めさせて頂く。



追記: 手続き的正しさの檻を乗り越えて、感情の伝播が社会現象までに至ったプロジェクトのドキュメンタリー映像を下記に紹介する。Stay homeのお供にでもどうぞ


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