人間の恋は憧れから始まる。愛は逆らえない本能である。

by - Unknown

「やっぱり芸術家って、住む場所がいいね」

駅前には黄色い花の花壇が並ぶ。

そこに天井から降り注ぐ暖色の蛍光灯が混じり、官能的な色に変わる。

また、建物の屋根はヒノキで骨格が作られていたから、建物そのものが生きているように感じられた。歩くたびに、僕たちは生き物の心臓の中を歩いている、と錯覚するようだった。

そんな僕の感動を手前に、彼と彼女は一言も発さずに、淡々と道を進む。

彼は日本で名を轟かした有名なミュージシャンだ。不倫騒動こそあれど、その曲の感嘆を誘う歌詞に、艶かしいメロディラインに誰もが一度は感動した。

彼女はそんな彼に憧れの念を抱く。だからどんな相手がいようと私を愛してくれるならそれでも良い、そう思っているようだ。

彼女は美しく、黒いワンピースさえも栄える、未亡人の様な美しさがある。

しかもその表情は10代の女性のような可愛らしさと儚さが備わっており、色彩に事欠かなかった。

彼女の周りには常に男が集まり、どう断ったら良いものかと悩んでいた。そんな渦中、彼を知り、ひょんなことで出会い、初めて自分から誰かを好きになったようだ。

要するに、彼女は彼の才能に恋をしていたし、彼は彼女の肉体を愛していた。後ろから追う私はそれが才能と努力の結晶みたいで眩しかった。

駅から数分歩き、暗い路地を抜けると、急な階段を上がった2階に彼の部屋があった。ネームプレートには、ここにいる全員が理解している通り、彼と妻の名前が記されている。

今から彼らは不倫をする。

僕は彼女のことを好きだ。だから彼女を守ろうという口実で、ここまで着いてきた。ただそれだけの存在。

彼が鍵を開けようとすると、既に部屋が空いていた。

焦って中に入って行き、数分後に戻ってきた。

「大丈夫」

疲れた声で、誰に向けたのかわからない素振りでそう言った。

私には怖かった。中には妻がいて、不倫相手が来たことに激怒する可能性。

包丁を持ってきて刺されようものなら泥沼だ。

そんな不安を抱えつつ、慎重に部屋を見回しながら僕たちは部屋に上がった。

入口右手にキッチンがあり、その左に居間に繋がる扉がある。

居間に出ると、更に奥の和室へ入った。

彼は腰を下ろすまで一言も発さず、こちらを見向きもしなかった。

彼女は彼の言う通りに従うだけだった。

和室に入ると隣の部屋に布団が敷いてあった。

全員が腰を下ろし、静かになった。テレビをつけ、喧騒が生まれた。

「俺、やっぱり落ちつかない。もうお前らと少しでも触れていないと怖い」

彼女は申し訳なさそうに僕の話を目を逸らして聞く。彼はゲームコントローラーを握り、聞いてるのか聞いてないのかよくわからない素振りをする。あるいは単純に、お前に用はないから早く帰れ、と思っているだけだろう。

その時、隣の部屋の布団から腕が2本突き出てきた。

驚いて全員がそちらを振り向く。

そこには、彼の妻とは違う女性がいた。

「仕事柄だから」

と彼は言う。

僕は苛立った。

彼女は呆然と女性のことを眺めていた。

「もういい。帰ろう」

僕は彼女の手を握って、部屋から逃げようとした。

すると彼は急に立ち上がり、鬼気迫った顔でオイ、と言いながらこちらを追いかける。

（そうやって、自分の才能に漬け込んで、好きなだけ遊んで、それ以外には何も興味ありませんって素振り、一番ムカつくんだよ）

玄関を開け、外に出ようというとき、僕は手にガラスコップを持っていたのに気付いた。いっそ奴のいる方の壁に投げつけてやろうと思ったが、手前の壁にぶつけた。

彼は彼女の方を見て、悲しんでいるようだった。

彼女の方は、未だショックから現実を受け止められずにいる。

「じゃあな。クソが」

最後にそう言い放ち僕らは家を出たーーー

「さあ、ねえ、もっと笑ってよ。いい笑顔を見せてよ」

僕はファインダー越しに、彼女の表情を見た。

今僕らは神社と公園の隣接する、和気あいあいとした空間にいる。天気はよく晴れていて、周りの子どもたちや老人も笑顔だ。

（彼女が笑えば文句ないのにな）

あの日から、彼女は笑わなくなっている。

それに、僕から話しかけることはあっても、彼女からは一切の反応もない。

（結局、周囲から求められる人間は好き放題やれて、女遊びも、男遊びも。遊ばれる側は常に求めるために足掻くんだな）

「君は一生彼のことを忘れない。僕にはわかるよ」

そう言おうとして、ムッと心の奥底にしまい込んだ。

（たとえ彼女の目線がいつまでも彼への思慕に満ちているとしても）

虚しさが心の奥で風のようにそよいで、僕の価値を露にしたみたいな気がした。