統合失調症とわたし ⑥
ゴルフ場のバイトと菓子工場のバイトで疲れ果てた私は、少しだけ休むことに決めました。
もちろん、仕事情報誌みたいなものは見ていたし新聞に入ってくる求人広告も毎回欠かさず見てましたが、とにかく疲れていて。母も「無理しなくてもいいんだよ」と優しい言葉をかけてくれたので、それに甘えゆっくり過ごしたその一か月後…私はいくつものバイトの面接を受けました。
ゴルフ場のバイトで人相手というのはこりごりだったので、ゆっくり自分のペースで働ける工場がいいなと、工場のバイトを希望したのですがことごとく落ち、二月の頭のことでした。
一度も行ったこともない場所でしたが、雑貨屋のアルバイト募集を求人広告で見つけ、接客業は経験があるし雑貨も好きだし、そう無茶は言わないだろうといった勝手な憶測と共に、面接をお願いして受かりました。
が、やはりここでもまた、私は選択間違いをしてしまったのです。またしても、私は間違えてしまいました。
崖から転落するように調子が悪くなったのは、ここのバイトが原因でした。もしかしたら、ここが止めだったのかもしれないと思うほどに、雑貨屋のアルバイトはきついものでした。
ゴルフ場も相当なものでしたが、雑貨屋もまた相当過酷な仕事場でした。
アルバイト一日目。雑貨屋なんてロクに見たこともない私が勤めてはいけないところだったのだと気づいたのがまずその日でした。ラッピングがロクに出来るわけでもなく、雑貨屋のイロハというものすら教えてもらえずオロオロとするばかり。
なにかすればそれは違うと怒られる。
後々の話ですが、私の後から入って来た一つ年下のバイトの子と雑貨屋のマネージャーさんについて「厳しすぎない?怖いよ」と言い合ってました。
前からいる二人の中年の女性たちも、教えようという気がまったくないらしく私は家で新聞紙相手にラッピングの練習をひたすらして、見よう見まねでなにもかもを覚えていきました。
教えてくれないんですから。なんにも、本当に。見て覚えろ、ということなのでしょうが、それが通用するのは職人の世界でしょうが、と今になっても言いたいです。バイトがやる気を出しているのに、それを無視して何もかもを見て覚えろとは……。おっと、愚痴が入ってしまいましたね、すみません。
仕事環境にも問題があって、12時から7時までの時間が大体の私の働く時間だったのですが、休憩が無いんですね。だから7時間なにも飲まず食わずでぶっ続けで仕事につかなくちゃならなくて。
夏の間だけは、一回だけ休憩があって。麦茶一杯飲めるかどうかの短い休憩時間。冬の間は休憩なし。
日々は忙しく回り続け、訳の分からないままでもなんとか業務に慣れて来たくらいでしょうか。
ストレスが身体に変調をもたらしました。
以前にも書きましたが、私はとにかく精神的なものは全ておなかの具合に影響してくるんです。
何日も何日もひどい下痢が続き、病院にも掛かりました。ストレスだってこちらは分かっているのですが医者はそうは言ってくれず、下痢止めを処方するだけ。けれど精神的なものからくる下痢は下痢止めでは収まってはくれない。
ここのバイトだけで、どうでしょう……最低3キロは痩せたと思います。日に日につらくなってゆき、下痢が止まらない毎日。
接客業に向いていると思っていた自分が、実は苦手だったと気づいたのもここのバイトでした。
起立性貧血の薬を消費して毎日を過ごし…イライラしながら日々を過ごしてまたしても一年持たず、ある転機が訪れました。
身も心もボロボロで、痩せ細り下痢ばかりを繰り返し友人と遊ぶのも遠のいていたその頃のことです。
母が口添えしたのか、父は何も考えていない人なので母が提案したのでしょう。父の勤めている会社と提携している会社が事務の求人をしているから、雑貨屋のバイトを辞めてここで働いたらどうか、と母に言われました。
渡りに船とはこういうことでしょうか。私はまたしても藁にもすがりたい気持ちで雑貨屋のバイトを辞め、小さな運送会社の事務で働くことになりました。
そこが止めの一撃となって、私の中でずっと眠り続けていた病気がとうとう表へ出てきます。
運送会社への、就職というか初めはバイトという形で、そして年が明けたら正社員といった契約で始めたこのバイトこそが、すべてのそれこそなにもかもの引き金となり、一気に崖から転げ落ちてゆきました。
ここが本当の、じりじりと崖っぷちに追いやられていた私が転げ落ちた最後の就職先でした。
そのバイトが、運送会社でした。11月の、頭のことでした。
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