そうじゃないといいのですが、そういう時もあるのです。 本当に迷宮に入り込んでしまうように、こちらの点とあちらの点が交わらない、努力しても全くわからない、わかってもらえない、 そういうことあります。 多分そこでどんなに努力しても、難しいのだと思います。 しかも、時が経っても、難しい可能性があります。 身近な人ほどそうだったりします。 言葉が通じないということは、対話や説得など、言葉を使った交流は諦めるしかないのかもしれません。 むしろ同じ映画を見て一緒に笑ったり泣い
自分が手放してしまうとその悔しい想い、悲しい気持ち、怒りの感情があたかもこの世から無くなって、無かったかのようになってしまうのではないか、それが嫌で手放せないってことありませんか。 理性では諦めて許せているのに、何かあると体がその感情に条件反射で反応してしまう、みたいな、ありませんか? 私たちは見えないエネルギーでみんな繋がっています。 地球とも繋がっています。 私たちが自分の感情を手放しても、集合意識はしっかり記憶できています。 記憶した集合意識もまた、手放す作業をし
ふと、わかってしまったような感覚を覚えたのでここに記しておきます。 私たちは自分の人生の中に神様という存在を確信が有る無いに関わらず置いています。 思ったように人生がうまく行かない。 予想もしないような悲劇が起こる。 嬉しいことが起きた時に神様ありがとうってつい思ってみる。。。 「私」という人生の役者がどんな想いで何をしようと、神様は全てお見通しというけれど、神様は本当に私をみているのか? でも実は、全てを見届けている人は他に一人確実にいる。 それは「私」。 そう。
それは被害者意識の手放しです。 どんなに相手を許しても、なかなか現実が変化しない。 しっかり相手を許したつもりなのに・・・ 許し以上に愛さないといけないのか? などと悶々と悩んでいらっしゃる方もいるでしょう。 外側の意識は許せた時点で充分です。 それとセットになる内側の意識に今度は意識を向けてみてください。 自分の中に残っている被害者意識。 これが手放せた時にこそ、本当の意味での赦しも完了します。 怒りは外への意識、悲しみは内側の意識。 これらも表裏一体の
覚りや苦労よりも簡単な方法がある。 それは視点を上げることだ。 対立するAB、白と黒、あなたと私、過去と今、今と未来、あらゆる対立するものの真ん中の上に視点を持つ。 視点を上げれば上げるほど近づける。 そこで学ばせてもらう。 それより簡単な方法があるだろうか。
「私はこう」 と思っていたり、周りに言いたくなることがありませんか? 「アンカリング」と言う船をそこから動かないように固定するという意味の言葉があります。 もし、今あなたの人生で不足感や変えたい未来のビジョンがある場合、今の「こだわりの自分」でアンカリングすることは理想の形になるまでに遠回りさせてしまいます。 完璧な調和で今の人生が起きています。 変化を望むのであれば、 「自分というものの思い込みロックを外し、こだわった自分自身の変化を恐れず在る」 ことが大事です。
まだ結婚していたとしても、 離婚して実家の家族がいたとしても、 もちろん離婚して本当に一人になった人も、 その形に関係無く孤育てしている人がきっと多いと思います。 例え、息子夫婦、娘夫婦が離婚をしたとしても、 孤育てを見て見ぬふりしないでください。 そのお嫁さんは少なくとも結婚当初は覚悟を決めてお嫁に来た人です。その逆も。そして何年も共に年越しを一緒にした家族だった人です。 二つの家の間に生まれた子どもを育ててくれる人なのですから、元嫁、元姑になろうと、その人間関
嫌いな人、なんだか受け入れられない人、この世ではそういった人に沢山会うものだ。 その人たちを「すべてを受け入れる」という教えのもと無理して愛することはなかなかできない。 ただ、多くの人がその親子関係、父、母、息子、娘との関係に悩んでいる 親子というのは、ただの「出会った人」ではなく、「出逢った人」だ。 魂の段階から設定されてきた出逢いだ。 そういう関係に長年悩んでいる人は「どうしていいかわからない」 と思っているだろう。 もしそうだとしたら、こう思ってはいかがでしょうか
見えない世界と繋がれる人は最近多くなったけど、 その中で高次と繋がれる人は多くない。 高次と繋がれる人も少なくないけれど、 その中で愛に生きれる人は少ない。 愛に生きながら高次のメッセージを受け取れる人でないと話を聞くべきではない。 でもいずれは自分がそこに到達できるよう、 微細で曖昧で何となくの体験を重ねていくしかない。
この世のすべては波でできている。 量子力学の話だ。 波の形を考えてみるとポジティブとネガティブを繰り返して物事は進む。 ポジティブに生きるとは、嫌なことがあってもポジティブに捉えるということだが、自分が嫌な気持ちになった事は事実であって、そこを感じずに、「これはきっと良いことの前兆だ」、とか、「これはこういうことを学びたかったから起きたのだ」とか、無理やりポジティブに解決しようとすることでもある。 その考えも悪くはないが、無理が出てきてしまうことがある。 全てを受け入れ
自分にはそんなところがないだろうか。 欲しそうにしている人を見ると急にあげたくなくなったり、 車で割り込もうとしている人をわざと入れてあげなかったり・・・ 要らないものをもらってその心を受け取らなかったり、 あげたいものは押し付けるのに、 してあげたくないことをお願いされたときはしてあげれなかったり・・・ 自分に正直にって言うけれども、それは度を過ぎると頑固となる。 ちっぽけな自分の中の正直さだ。 映画で「イエスマン」というのがあった。 人から何を頼まれてもイエスと言う
ほしい情報が簡単に手に入る時代になりました。 昔のように師匠に着かなくても大抵のことは学べるようになりました。 特に精神世界、自分探求の分野では、新しい覚者がどんどん現れ、お寺で修行などしなくてもそういった方々に触れることができるようになりました。 皆さんもyoutubeなどで沢山の情報を集めているのではないでしょうか。youtubeでは瞑想などもできます。 ですが「覚醒」とは、心と身体が「大いなるもの」と一体化することだと私は思っています。 知識というのは覚醒に必要
としたら、あなたはその玉をどうしますか? 暗闇を進むために使いますか? 自分の顔が一番きれいに見えるようにかざしますか? それとも、心の中心に置いて内面を常に明るく灯しますか?
前回の記事の続きです。 絶望で見出す光の種。 その光の種を見つけて信じて進んでいく方法、 それは、心の中だけではなく、今の状況がどんなに絶望的に思えても、 今欲するもの、こと、探求心が道を作っており、 今までで信じがたいありがたい出来事も、この先の未来に繋がる道となっています。 それらに負い目や重要性を感じる必要はありません。 ただ、そうやって生かされてきたという事実に向き合ってください。 実のところ起こることがどんなことであろうと深刻ではありません。 何かのしく
貴方は尊い存在だ。 貴方には秘められたパワーがある。 全ての人は神である。 そう言ったメッセージに出会うと、表面的に信じようとしてしまう。 数日間は自信を取り戻せても、またいつしか自信を失うのはなぜか。 これらの言葉の解釈を間違えているからだ。 私たちはまだまだエゴ(自我)の奴隷となってしまうことが多い。 エゴに邪魔をさせずに進むには、自分は無力だと降参することだ。 降参して絶望をさまよううちに光の種が見えてくる。 光が強く輝いているとその種がどこになるのかわから
実際のところわからないけれど、この考え方はとても理にかなっていると思う。 前回の「自分から出すもので人生が作られる」の続きですが、 もしこの世に自分しかおらず、体験する事柄、周囲の人々などが映画のように幻想だとしたら、誰の事も恨めず、何のせいにもできず、そのうちに意識を外から内に向けるしかないとわかるだろう。 喜びも感謝も自分からしか湧きあがらない。 そのうちにどんな映画が見たいのか内側で「意図」するようになる。 それを現実化という。 ただし、それは形ではない。 感