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人生草露の如し vol.3 / 【小説】

仕事は滞りなく定時に終わって、待ち合わせの店へと向かった。

仕事帰りに男性と待ち合わせて食事をするなんてとても久しぶりだ。美也子は弾む心を落ち着かせるために、何度も深呼吸しては手持ちの小さな手鏡を覗いた。

よし、メイクは完璧だ。さっき会社を出る前に念入りに直した。パウダーをつけすぎると乾いてシワがくっきりと目立つので、なるべく自然に仕上がるように、丁寧にパフを叩く。そして一日経って疲れが目立つくすんだ頬に、最近使い始めた明るめのピンクのチークをふんわりと入れた。以前はもっと落ち着いた色で頬がほっそりと見えるようにシャープに入れていたが、ここ最近はいかにふっくらと血色よく見えるかに拘る。年を重ねるとメイク方法も大きく変わってくるのだ。若造りしたいわけではないけれど、見せ方は次第に変化する。自分プロデュースはなるべく客観的な目線でいたいと思うのだった。

会社からほど近い場所にある、気軽に使えるカジュアルな雰囲気のイタリアン。陽子ちゃんとも仕事帰りに時々ここで食事をすることがある。構えることなく、気負わず話をするのにちょうどいい場所を選んだのは、宮島くんに対する美也子なりの気遣いだった。


「 お待たせ〜」

「 あ、お疲れ様です!」

先に来て待っていてくれた宮島くんはサッと立ち上がり、気を遣って椅子をさりげなく引いてくれる。これだけ景色のいい青年だ。さぞや女性にもモテるだろうし経験も豊富なのだろう。こんなスムーズな所作にも彼の女性慣れした一面が垣間見れる。でも全然嫌味ではなくて、むしろ育ちの良さのようなスマートな雰囲気を与えるのだった。全てが自然で、目の前の人を慈しむような丁寧な接し方は、得意先のお客さんに対するそれと同じで、いつもと変わらない宮島くんの態度だ。誰に対しても同じスタンス。そこがまた、美也子には好感が持てるのだった。

アペリティフにミモザをオーダーし、乾杯すると一気に緊張が溶けて心がほぐれるのを感じた。二人して自然と笑顔が溢れる。メニューを吟味し、前菜にカルパッチョとサラダ、メインは二人でシェアできるアクアパッツァを選んだ。料理に合わせたワインはさっぱりとした酸味のあるアルザスのリースリングにしよう。


「 宮島くんはお肉の方が良かったんじゃない?」

「 いえ、夜は軽めにしているので、これで十分です 」

「 へぇ、そうなの? 何、カロリーセーブしてるの?その体型を保つために 」

「 そんなでもないけど、まぁ若い頃とは違ってきますよ。この年になると 」

この年なんて、まだまだ若いじゃないの。そう言いかけたが、何だか自分が年寄りだということを強調するようで言うのをやめた。同じテーブルを共にする人が自分よりも年下なことが年々増えるにつれ、自分のことを下げてものを言うことが多くなったと感じる。もうあたしは若くはない。まだ現役で働いてはいるが、社会を引っ張る年代ではなくなったという自覚は残念ながらある。卑下することとは違うが、第一線を若い人に少し譲って、後ろから応援したいという気持ちがここ数年、美也子の中では強くなった。

「 どうかしましたか?」

ちょっとしたことですぐにナーバスになるこんな自分が厭わしい。ましてや一緒にいる人にそれが伝わって気を遣わせるというのが美也子には耐えられないことだった。

「 え?なぁに?大丈夫よ。ごめんね、ちょっとハードに仕事を詰めすぎちゃって。なにせここへ来るために時間との戦いだったからね。とても楽しみにして来たのよ 」

「 よかったぁ。迷惑だったらどうしようと思ってたんですよ 」

「 そんなこと全然、逆にあたしなんかで役に立つことがあるのかちょっと心配なんだけど 」

「 ありますよぉ。いや、なんと言うかその、以前から一度ゆっくりと話がしたかったんです。美也子さんと 」


照明を落とした薄暗い店内、テーブルに置かれたキャンドルの明かりが手元を優しく照らしている。顔がハッキリ見えないのは大いに助かる。若い頃には全く気にならなかった、時間経過で崩れていく様を、たとえ恋だの愛だのとは関係のない相手でも、至近処理で男性に見られるのは気が引けた。お酒が入ると余計に崩れるのではないかと気が気ではない。汚くみっともない中年女に成り下がるのだけは避けたいと、美也子は真剣に思うのだった。


「 それで?話って、何かな?」

「 今朝の会議のことなんですけど、俺的にはやはり美也子さんの最初の企画で行くべきだと思います 」

ロマンティックな話を少しでも期待した自分が猛烈に恥ずかしかった。キャンドルの明かりが頼りない光であることに心の底から安堵する。きっと今、あたしの顔は茹で上がったタコのように真っ赤に染まっているだろう。恥ずかしさと共に襲いかかったのは例の症状だった。顔から汗が吹き出してくる。慌てて色気のないタオルハンカチをバッグから取り出し汗を抑えた。

それはこの店に来る途中のコンビニで買った、間に合わせの安物だ。いつも替えのものを2枚はバッグに入れているのに、今日に限って忘れてしまった。せめて新しいものをと急いで買い求めたが、子供が使うようなベビーピンクのタオルハンカチには黄色いひよこの刺繍がしてある。忌々しいタオルハンカチめ。こんなのは私の趣味じゃない。本当は綺麗なシルクのハンカチーフがいいのに。なぜ私は、自分の趣味とはかけ離れたこんなものを、当たり前に使っているのだろう。

額の汗は焦れば焦るほどに流れてくる。先程直したばかりのメイクもすでに流れ落ちているはずだ。もう嫌だ。やはり来るんじゃなかった。苛立ちを抑えつつ、美也子は自分の愚かさに自分で呆れ返り、深呼吸して一旦心を落ち着かせると今度はなぜか笑いが込み上げてきた。もうどうにでもなれだ。こうなったら今夜は自分を思い切り解放しよう。そう決めると肩の力が自然と抜けた。ありのままでいこう。これが今のあたしなのだから。


「 ごめんなさいね。更年期で。自律神経がイカれてるからこんな風に突然汗が止まらなくなっちゃうのよ 」

もうこれ以上、宮島くんの前で自分を装うのはやめにしよう。心の片隅でいつの間にか甘い時間を期待していた自分を打ち消すように、美也子は開き直って自ら更年期の症状をあれこれ打ち明けた。宮島くんは最初驚いて美也子の話に真剣に聞き入っていたが、そのうち、にこやかに話に割って入ってきた。

「 あぁ良かった。病気じゃないってことですよね?それを聞いて安心しました。最近、美也子さんのことが気になっていたんですよ。どこか悪いのかなって。無理して仕事してるんじゃないのかなって 」

「 ありがとう。うん、病気じゃないの。これは女性なら誰でも通る道。あ、男性にも現れる症状だと何かで読んだわ。だから心配は全くないのよ。自分の身体の変化に、心がついていけないことが一番辛いってところかな 」

「 それには一体、何が効くんだろう?」

「 そうね、例えば恋をすることかな?最近、恋だの愛だのがめっぽう足りないことは自覚しています 」

あははと笑って冷たい白ワインを一気に流し込んだ。宮島くんと話していると少しずつ心がほぐれていくのが自分でもよくわかった。こんな風にいつの間にか溜まっていた心の不安や葛藤を誰かに聞いてもらうことが、こんなにもリラックスできることなのかと気がつき、美也子はいつの間にか引いている汗にも暑さにも、自分ではコントロールできない人間の身体の不思議を実感していた。


「 でね、企画の件だけれど、あたしはさっきお昼に提案した新しいデザインの方をやってみようと思ってる。でも様子を見ながらね。どちらか一方に極端に比重を置くと必ず後でリスクが出るわ。でも需要と供給のバランスは計画通りにはいかないものよ。どこかでチャレンジしないと、新しいニーズは獲得できないと思う 」

「 そっか。そうだね。うん、俺ももっと営業の力をつけないとな。決まったお客さんだけで満足してちゃいけないんだよな。開拓していかないと、未来はない 」

「 そういうことよ。わかったら、さぁ、尚人も飲みなさい!」

「 え? いきなり呼び捨てですかぁ!まぁいいけど。ホントに美也子さんって面白い人だよね 」

ソムリエを呼んでフルボディのカベルネをオーダーする。宮島くんもいける口なんだとわかると、美也子は例の症状のことなどすっかり忘れて、大好きなワインとお喋りを時間のたつのも忘れて楽しんだ。


・・・・・・


「 はぁ、すっかり酔ってしまったわ。今夜は宮島くんの恋愛相談に乗るつもりで来たのに、これじゃあたしばかりが慰めてもらってるわね 」

「 そんなことないよ。俺もとても楽しんでるから。こんな風に美也子さんとお酒を飲んでゆっくり話せて嬉しいです 」 

「 まぁ、嬉しいことを言ってくれるわね、あなたは。宮島くんの彼女はきっと幸せでしょうね 」

「 彼女はいないですよ 」

「 へぇ、そうなんだ。意外ね。こんなに素敵なのに、選り好みが過ぎるんじゃないの?」

「 うん、そうだと思う」

「 正直者だ!」

「 俺、早くに母親を病気で亡くしてるから、どうしてもその影を追ってしまうんだと思う…… 」


突然のカミングアウトは人の心を容易く揺さぶる。でもその一言が年上女の気を引こうとした安っぽい口説き文句ではないことが、遠い記憶の中にワープしている虚ろな表情の宮島くんから、美也子には痛いほど伝わってきた。

目の前に座っている働き盛りの青年が、美也子の目にはまるで幼い少年に映った。よく見ると長い睫毛が影を作り、美しくも儚げに揺れている。若さの煌めきの中に宿る不安と心細さが胸を締め付ける。図らずも芽生えた自分の母性に戸惑いを隠せない美也子は、思わず見つめてしまった尚人少年から視線を外して、動揺する心を戒めるようにグラスの水を一口飲んだ。


「 だから、俺、このところの美也子さんの体調がすぐれないことが気になって気になって仕方なかったんだ。朝からぐったりしていたり突然大汗をかいたり、仕事中も席を外すことが多くなってる気がして。一体どうしたんだろう、どこが悪いんだろうって……そのうち突然、いなくなっちゃうんじゃないかとか、仕事辞めちゃうんじゃないかって、ハラハラしてたんです 」

「 そんな……そんな風に見てくれてたんだ。全然知らなかった。ありがとう。心配かけてごめんね 」

美也子はテーブルの上にあった尚人の手の上に自分の掌を重ねた。あまりにも自然に出た自分の行動に戸惑いながらも、目の前の尚人のことが愛しく思えて仕方がなかった。人から思ってもらえることって、こんなに心が温かくなるのかと改めて知った。

「 美也子さん、俺、自分の気持ちが正直言ってよくわからないんです。美也子さんのことが気になって仕方ない。でも、俺なんかが美也子さんと釣り合うのかどうか、どう考えても自信がないんです。俺は中身はまだまだガキだし、美也子さんは大人だし。でも、こんなに気になる人は今までいなかった。だからこれはきっと、特別な感情だと思っています。迷惑でなければ、俺と向き合ってもらえないだろうか。俺にチャンスをください。つまりは…俺と付き合ってください 」


・・・・・・


最終の企画会議は従来の売れ筋路線と新しいデザイン路線の二本柱でそれぞれ動き出した。いざ蓋を開けてみると、思った以上に新しいデザインの方が評判が良かった。都内だけではなく、地方でも新規開拓した若い客層をターゲットにしたショップからの注文が相次いだ。

美也子と共にデザイン企画に参加した陽子は、初めての提案がこんな風に実を結んだことにとても喜んだ。その次の企画会議からは陽子自身のオリジナルデザインも採用され、美也子の大事な右腕となって活躍の場を広げていった。

美也子は嬉しかった。自分がもう少し若かったら、こんな風に新人デザイナーの台頭を素直に喜べなかったかもしれない。しかし今の美也子には、これまで頑張って積み重ねてきたものを引き継いでくれる、若いエネルギーに触発されながら仕事ができることに感謝しかなかった。いつかは自分は退く。それを自然と受け入れられるのは、これまでやってきた自分の仕事に誇りと自信があるからだ。そして目の前の仕事に全力で真剣に取り組むことの大切さを、陽子から再び教えてもらった。そのことにも素直に感謝できる自分が愛しく思えた。


「 尚人、今夜はあたしのうちで食べる?いいワインが手に入ったの 」

「 うん、そうする。金曜だから泊まってもいいでしょ?」

「 だめだね。自分のうちに帰りなさい 」

口ではそう言いながら、今夜は尚人とずっと一緒にいたいと美也子は思っている。

尚人とは少しずつ距離を縮めていこう。これが本物の愛だとわかるまで、慎重に、少しずつでいいよね。そう自分に言い聞かせてわざと踏み込まないようにしている。臆病になっているのは年のせいだとわかっているが、いつか尚人の目が覚めて、あたしの元を離れるかも知れないという思いがどこかにある。そんなことは絶対にないと尚人は言うけれど、人の心はあくまでもその人のものであってあたしのものじゃない。だから余計な期待はしたくない。それは、これまでの人生で何度も痛い思いを経験してきた、美也子の本音だった。

でも。今の自分の気持ちに正直に、真剣に向き合って、いつでも、今したいことをする。精一杯の愛情を持って。それが自然と未来へ導く答えになると美也子は信じている。


その夜、二人でワインを飲みながら、美也子は以前から気になっていたことを尚人にたずねた。

「 ねぇ、そういえばあなた、以前あたしに『美也子さんは自分のことを全然わかってない』って面白がっていたけれど、あれってどういう意味?」

「 あぁ、あれね。ふふ。俺が10年間、どんな風に美也子さんのことを見ていたかっていうことだよ。まぁ、今度ゆっくり教えてあげる 」

10年か……あっという間だった気がするけれど、その間尚人はずっとあたしのことを見ていてくれてたんだ……

人の心はわからない。わからないからこそ、言葉にして届けてくれた時、その気持ちを大事にしたいと思う。

自分のことは自分が一番よく理解しているなんて、本当は間違いなのかもしれないな……

美也子は、嬉しそうに目の前で微笑む尚人の言葉を聞いて、まだ知らない自分のことを、尚人を通してこれから深く知っていきたいと思うのだった。


ー 人生草露 (そうろ) の如し  辛艱(しんかん) 何ぞ虞 (おそ) るるに足らん ー


人生は野の草についた露の雫のようだと美也子は思う。キラキラと煌めいて、美しく輝いているけれど、それはほんの一瞬のこと。あっという間に流れ落ちて消えてしまう。だから辛いだとか悲しいだとか悩んでる暇なんてない。恐れている時間なんてない。今この時を、今の自分自身で、この心と身体で目一杯生きるのだ。


美也子の明日も草露の如く、きっと光輝いているに違いない。



終わり


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